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復讐の花嫁

by 偽筆屋

あらすじ

 明代後期の16世紀後半、通貨経済の発展に伴い、農村が疲弊を始め、農村を取り仕切る権力も交代していった。包家村も例外でなく、それまで数百年、村を統治してきた包家の地位を、新興の洪家が奪い、包家は親戚もろとも滅亡の危機を迎える。洪家は更に、それまで包家と手を握っていた緑河の闇商とも敵対するようになる。

 それに対し、遠い街の文具屋で村出身の女を女房に迎えた男と、包家の傍系の生き残りで別の街で匿われていた青年が、緑河の闇商を通じて行動を共にするようになり、それがきっかけで大きな対立に巻込まれた。その流れの中、逃亡のため、家の再興の為、そして反撃の作戦の為、より完璧な女装を決意した青年は、意識するせざるに関わらず、次第に女装の魔力の深みにはまって行く。

 18世紀の短編集『秋燈叢話』の中の『男の花嫁』というミステリーに対する一つの答え。


第1回:怒り(妻視点)

 腹立たしいのは、あの洪家、その中でも洪二郎の野郎だ。
 このあたりは包家村といって、代々、包の一家が名主として治めて来た。朝廷が南宋から元、元から明に変わっても、その都度、時代を先取りして、新しい皇帝は未だに反乱軍と言われている時から献上品を出して、村の事実上の独立を守って来たのだ。この国の領土は広いから、新しい朝廷は出来るだけ土着の名主の顔を立てて統治する。それが先物買いしてくれた支援者なら尚更の事だ。そんな訳で、この村は戦火に曝されず、村民は名主の包家を徳としていた、
 しかし、どんな名家でも、たまには凡庸な当主が出る。そんな時は親や叔父が賢い嫁と妾を決めて、孫の世代に託すのだが、それでも17代目の当主の時に家運が傾いた。確かに16代目は息子の為に賢い嫁と妾を捜し、立派な孫まで出来た。だが、その16代目が早世してから狂い出した。賢過ぎる嫁に疲れた17代目が、嫁を見下したい一心で、一山当てようと太鼓持ちの言いなりのままに相場に手を出したのだ。この時の太鼓持ちが、洪二郎の親父だ。
 相場で一方的に得するのは、太鼓持ちの特権だ。洪二郎の親父もそうで、17代目が儲けた時はその利益の幾割かを貰い、損した時は全く被らない。それが太鼓持ちと云うものだ。そして、相場はランダムに急変動する。かくして、相場に出を出して僅か5年で、包家の財産の1割が洪家に移り、1割が完全に失われた。合わせて2割の財産を失った包家には、米や塩や現金等の動産が無くなっていた。家計の穴の気付いた嫁や妾、そして古くからの友人や取引先は17代目を諌めたが、それは火に油を注ぐ結果となり、依怙地になった17代目は更に危険な相場に手を出すようになった。それを焚き付けたのも洪の親父だ。次の五年で田畑の三分の一は洪家に渡り、三分の一は余所者に渡った。
 こうなると世の中に長けた洪の方が上だ。ほっとけば、嫁の実家や古い取引先っからの横やりで、村から追放されかねないと感じた洪の親父は、農作物の所有を理由に裁判沙汰を無理矢理おこし、その裁判を賄賂で始末して、あっという間に17代目を罪人に仕立た。更に、やっと14歳になる18代目に当たる息子にも、書の練習と騙して自らを身売りする証文に署名させた。印鑑のありかは洪が知っているから、そのまま、悪徳商人の丁稚として売ってしまった。17代の妻である母親が気付いた時は手遅れで、証文があるからどうにもならない。こうして男手の無くなった家はあっという間に潰れてしまった。富と権力を一気に握った洪家は、アメとムチで包の一族の残りの者を手なづけた後に、次第に年貢と雑役をふやし、同時に商人を引き入れて村民を破綻させて身売りを増やし、その手数料で更に儲けると云う、新興資産家の強欲路道をまっしぐらに進んだ。
 もっとも、ここまでの話だけなら、さほど驚くに当たらない。この国ではいくらでも類似の例がある。だが、洪の息子の二郎は、父親に更に輪をかけた悪だった。平気で村民の娘を襲い、殺傷を好み、しかも年貢を搾り取った。村は疲弊して収穫は落ちたが、儲けた金で包の一族の残りの者に対して、でっちあげ裁判で田地を奪い、それが効かなければ、包家の17代目と同じように、悪徳商人と結託してで仕手の相場を演じて金を巻き上げた、着実に包の一族を村から排除した。と同時に近隣の村まで手を伸ばしで、包と親戚関係にある所まで潰しにかかった。そうでない、後ろ盾のない普通の農家は更に簡単に潰されて、このままでは、包家村のみならず近隣の村まで全て洪家の手に落ちそうな勢いだった。禿鷹さながらである。洪二郎に比べれば、父親は仏だ。父親は少なくとも損の見える相場は薦めなかった。だが息子の二郎は儲かると見せかけて、偽りの相場操作…仕手という…で損に追い込んだのだ。
 一方、悪徳商人との結託を守る為に、マトモな商人も村へ出入り禁止となった。お役人は? そんなものは当てにならない。どこの国でも何時の時代でも全てが金で回る。悪事で金を搾り取り、その一部を袖の下に流して罪を逃れる。中には真面目なお役人もいるけど、今住んでいる県は全く駄目だ。県の上の州のお役人ですら金の事にか考えていない。農家が疲弊して収穫が減ったら州全体が貧乏になるけど、そんな事なんか誰も考えなくて、少なくなったパイを奪い合っている。それでも地方によっては新しい農具とかが普及して収穫の増えている所もあるらしく、国全体ではなんとか収穫を保っているという。お国の事なんかどうでもいいけど、かつては最も生産力のあった包家村が急速に落ちぶれて行くのを見ると腹立ちと焦りを覚える。

 妾(あたし:中国における女の一人称)の実家も、洪二郎の為に飢え死に寸前の生活をしているが、堅気な商いで知られる主人が村から閉め出しを食らって、援助も何も出来ない。手紙すら検閲されているらしく、いくら出しても無しのつぶて。安否も分からない。だから、あたしは主人に何度も実家に行かせてくれと頼んだ。こう見えても百姓の娘だ。纏足して歩くのもままならない賎業連中や奥様連中とは違って、男と同じように荷物を持っての旅は主人と一緒に何度もやっている。今でこそ子供の面倒で旅について行く事も無くなったが、子供を抱えた旅だって怖くない。村の手前まで一緒に行ってもらえれば、あとは一人でどうにかなる。
 普通は、村にさえ入れば、百姓姿であぜ道を歩く年増女を攫って売ろうという者はおるまい。よしんば男に襲われたとして、逆に誘って男を満足させる自信もある。夜這い文化で育った農民に、貞淑の為に命をも無駄にするような馬鹿な発想はない。うちの実家は小作を抱える地主でも、ましてや名門でもないんだ。もちろん、結婚した今はそんなふしだらな事はしないが、身を守る為なら貞淑なんて二の次。あたしにとって大切なのは子供、そして主人、決して上流階級の道徳ではない。主人にとってもそうだろう。だから、あたしが実家に行って運悪く洪二郎に襲われても、主人はあたしを許してくれる。
 だが、主人が気にしているのは、そんな事ではない。商売仲間からの話によると、洪二郎が村に呼んだ博打打ちの連中は、いちゃもんをつけた上で、余所者の女は勿論の事、村の女まで犯した上に楼閣などに売り払っているとの事だ。小作でない普通の百姓の娘をだ。だから、女達は、昼間の農作業は必ず集団で行うようにして、それ以外の時刻は家に籠っているという。それほどの治安では、主人が里帰りに反対するのも頷ける。
 それでもあたしは行きたい。行って親兄弟に会いたい。飢え死に寸前という噂を何度も聞いているから、一度でも凶作があったら一巻の終わりにかも知れないのだ。せめてその前に……。色々考えた挙げ句、男に変装して商人の出でたちで村に入ってはと考えた。あたしのような普通の女にとって男装は難しくない。賎業連中や令嬢連中と違って、耳飾り用の穴なんか開けていないし纏足だってしていない。試しに主人の前で男装して見せたら、確かに爽やかな男に見えると褒めてくれた。なのに、それでも主人は首を振る。見つかった時にヤバいから。だから、主人に言わせれば、主人か、少なくとも信頼出来る男と一緒で無いと、危険な村にあたしをやれないという。でも、商売をやっている主人は顔を知られ過ぎて村には入れないし、こんな危険な役回りを買ってくれてお人好しが他にいる筈も無い。
 そうして、いろいろ考え悩んだある日、どさ回りの旅芸人があたし達の住む街にやってきた。外題は水滸伝の桃花村の段。魯智深が花嫁に化けて山賊をとっちめる奴だ。これを見て、あたしも主人も同時にこれだと思った。そう、主人が女に化けて、あたしの妻として村に入れば良い! 二人揃って、どちらも変装して行くとは、何と言うアイデアだろう。商人夫婦で、しかも女が売り物にならないくらい醜女…主人の事だ…だと、さすがに誰も手を出さない。しかも、商売に長けた主人が一緒なら、商いに関する色々な事でも臨機応変の対応が出来る。子供はお隣さんに預ければ良い。あちらも商いの旅が多く、その都度、子供の面倒をみてやっているやら、お互い様だ。
 唯一の問題は屋号。万が一、捜しに来られては困るけど、さりとて行商相手だと、洪二郎にとって旨味が無いから門前払いになってしまう。やや遠い街の大店の名前を主人が思案したところ、州都で白猿堂というヤクザな商売をしている同業者の名前を思い出した。白猿神の子孫が能書だったという故事に基づいた屋号だそうだ。遠い故に包家村には取引が全くないので、名前を勝手に拝借する事にした。主人の関わりのない店だから、ましてや変装しているあたし達なら足は着くまい。
 こうして、あたしたちは里帰りの旅に出た。どこから秘密が漏れるか分からないから、あたしの男装と主人の女装は旅の途中で行なう。近所に告げた行き先も違っていて、始めは村から明後日の方向(西)に向かい、別の街道から南の村に向かう。真っすぐ行けば2〜3日の距離だが、あたしたちは6日かける積もりだ。変装は3日目の途中の森の中。髭の類いの処理など女装は時間がかかるから、この日の行程は短い。そして、残りの3泊で変装が見破られなかったら、その時はいよいよ郷里・包家村に向かう算段だ。

 出掛ける事は決まったが、それなりの準備をしないといけない。
 先ずは衣装と化粧。西洋は知らないが、中華界隈の着物(漢服という明代までの服)のデザイン自体に男女の差はあまり無い。ただただ、袴の高さが違ったり色が違ったりするだけだ。もっとも、その小さな違いに女の魅力を込める為に、色に凝るのはおしゃれの基本だ。当然、服の色合いを際立たせる為には膚の白さが決定的に重要だ。白い膚ほど服が映えて美人に見える。金持ちや知事クラスの娘さんが奇麗なのは、仕事の為に外に出て日に当たる必要がなくて膚の色が白いからだ。それで、薄い色のきらびやかな衣装が似合うのだ。でも、あたし達だって負けてはいない。白粉で誤摩化す術を知っている。そこで金持ち練習は、更に差をつける為に纏足しているのだ。力仕事や旅仕事の多いあたし達に纏足は不可能だ。こうして、あたし達は金持ちや色町や権力者と区別されて、街の一般市民として、分相応の化粧と美しさを競い合っている。でも、そういう身分のお陰で、あたしの男装や主人の女装はさほど難しくない。これが上流階級だと纏足や耳の穴(ピアス)などを誤摩化すのが難しくて不可能だろうし、逆にこれが農民だと男女の服の差があまりに少な過ぎて、人々は動物的な所…体型とか歩き方とか臭いとか…で男女を判断するので、これまた男装女装が不可能だ。町人だけの特権とでも言えようか。
 だから、服や化粧は問題ない。声だって、あたしが専ら喋って、主人が返事以外に一言もしゃべらなければ誤摩化せるだろう。主人の喉仏は首に何かを巻いておけば十分だ。髪も男結いと女結いとの違いだけだから、時間さえ掛ければどうにかなる。でも、一番の問題はあたし達が夫婦という事。背の高さが逆転してしまうのだ。あたしは女の割には背の高い方だし、主人は男の中では背の低い方だから、それぞれが男装女装しては人目では分からないだろう。でも、それでも主人はあたしより少し背が高い。主人が腰をかがめてやっとあたしと同じ高さだ。どんなに背の高い女も、より背の高い男と結婚するし、どんなに背の低い男も、より背の低い女と結婚する。だから、背の高さの逆転するような夫婦は滅多にいないし、そういう夫婦は回りからじろじろ見られる。そうなると、男装女装がバレてしまう可能性が高い。
 いろいろ考えた末、厚めの靴を作ってあたしが履き、主人には同様に見た目だけは厚底だけど、実際には薄底の靴を作って履く事にした。これで誤摩化せるかどうかは分からないが、とにかくやってみる価値はある。


第2回:出立(妻視点)

 決心してから早くも4ヶ月が経て、時は陰暦8月下旬(太陽暦9月末)の秋分すぎ。涼しくなった気候は、多少の服でも汗をかかず、かといって暑苦しい恰好で男女の服の違いが分かり難い季節でもない。そう、変装には一番良い季節だ。あたしと主人は荷物をそれぞれ行李に入れて、ごく普通の恰好で朝早く街の西門を出た。そうして3日目、西に向かう街道が南東に向かう街道と交わる分かれ道に近づいた。分かれ道の少し手前に森がある。この森を突っ切れば、人家のある分かれ道で人に見咎められずに南東への街道に抜ける事が出来る。幸い、このあたりに夜盗の話は聞かないから、森を突っ切っても大丈夫だ。通りに人が少ないのを幸いに、見計らって森に入った。100mも入ると街道からは全く見えない。ここで変装しても良いが、どうせなら森の出口の近くで着替えた方が良いと思い、先に森の反対側まで行って次の街道を見渡し、何処で森から街道に出れば後ろから来る旅人に怪しまれないか目星をつけ、それから森の中に引き返して、ようやく着替え始めた。
 街での服こそ男女で差はあるが、旅の服は男も女もあまり変わらない(旅衣装は日本の着流しとあまり変わらない)。主人は腹巻きを厚めにつけて女尻を作り、その上から上着を着て、腰紐でしばる。あたしは腰のくびれを胸ごとさらしで巻いて、胸を全体的に厚くして、その上から上着を着て、腰紐でしばる。お互いに服を着た所で見合わせると、主人の着衣がなんとなくしっくりしない。おかしいと指摘したら、主人は
「おまえもなんとなくおかしい」
と言って来る。普段と違う恰好をしている為の違和感かも知れない。分からないので、とりあえず後回しにして。髪の手入れに移る。男と女で決定的に違うのがここだから、細心の注意が必要だ。
 西洋では男は髪を短く切るそうだし、東の島国では男は額の一部分を剃るそうだが、わが中華でそんな蛮風な髪はしない。男の髪も適度の長さがある。もちろん女の方が髪は長いから、あたしはその為に少し髪を切る。この程度は一年もあれば生えて来るから、今回の旅を考えれば、切る事にためらいは全く無い。夫だって、旅を決めてから髪を伸ばしているから、ちゃんと手入れすれば女の髪は作れる。あたしは髪を頭巾で隠し、夫には簪の類いを差して、その上から日よけの為の薄布をかぶせる。
 こうして髪が出来上がると、衣装の不自然さが更に目立って来た。胸も尻もカモフラージュしているのに何かがおかしい。考えながらも主人の化粧にとりかかった。髭やもみあげの剃り跡に白粉を塗り込み、眉を半分以上落として眉墨で描き、紅を引く。その間、主人はあたしの服をずっと見ていたが、化粧を済ませるや
「わかったぞ」
と言って来た。違和感の原因は腰紐の高さではないかというのだ。言われてあたしもピンと来た。男と女とで腰のくびれの位置が違うのだ。理由が分かれば後は簡単で、あたしは骨盤の真ん中当たりで腰紐を結び、主人には胸のすぐ下の肋骨の途中で腰紐を結んだ。紐の高さがそれらしくなると、体の凸凹が未だに不自然な事がわかる。結局、お互いにさらしや腹巻きを巻き直して、ようやくそれらしいシルエットと着衣ができた。最後に、特別に作った靴に履き替えて、ようやく長い作業を終えた。

 変装は一応出来たが、それでも陽光の元で近くで見ればバレるかも知れないという不安は残っている。というのも、少なくともあたしには主人が分かるからだ。もちろん見慣れている為かも知れないけれども、不安は不安だ。それはあたしの変装にだって言える筈。そう心配したが、主人は大丈夫だろうと言っている。というのも、他人の顔を近くで見るのは部屋の中ぐらいなもので、その部屋の中は暗いから。薄暗い所では、よほど至近距離にならないと変装がバレる筈がない。噂では西洋の暗い国々には、ガラス窓とかいう陽光を取り入れる窓があるそうだが、太陽の恵みを受けた中華の地にそんな危険な窓は無く、成金の洪二郎ですら持っている筈がない。だから、外に出る時に他人と少し距離をあける事にさえ気をつければ良い。主人にそう言われてあたしも納得した。
 それにしても、髪を結いおしろいをして女物の服を着た主人の何とマトモな事。馬子にも衣装とはよくも言ったもので、これなら十人並みの女で十分に通用する。いや、白粉とかの無い田舎だったら美人の部類にすら入るだろう。何故かと云うに、主人の顔に傷や吹き出物がないからだ。お金持ちに美人が多いのは、日に当たらない生活をしている他に、お湯が毎日使えて吹き出物とかが無いからだ。そして、顔に瑕が無い限り、田舎では誰でも美人になれる。主人だってそうだ。たまに旅に出るとは言っても室内の仕事が多いし、客商売だから清潔にも気をつけている。そうは分かっていても、ちょっと女と同じ恰好と化粧をしただけで普通に女に見えてしまう主人に、妻であるあたしは少し嫉妬しまった。主人が常々あたしを天女のように美しいと褒めてくれていなければ本気に嫉妬してしまっていたかもしれない。
 予想を超えて、美男美女の逆転カップルが出来たのは良いが、現実問題として、今回の作戦では主人はもう少し不細工でないと困る。これでは、洪二郎以下のばくち野郎どもが横取りしようとあたし達に罠を仕掛けて来るかも知れない。そうなると、正体がばれるばかりか、身の危険すら伴う。そう思って、主人の顔からおしろいを半分拭って炭を塗った。これでよし、ようやく美男と醜女のカップルの誕生だ。

 そろりそろりと本道に戻り、いよいよ歩き出す。あたしが先で主人がうしろ。暫く歩くと、主人から、
「もっと大股でザクザクと歩けよ」
と言われた。確かにそうだ。百姓出身のあたしだが、街に住むうちに、ついつい小股が身に付いてしまった。意識して大股で歩く。足音から主人の歩幅を超えるようにするが、なかなか慣れない。暫く歩いて、主人の歩き方に問題があるのではと気がついた。
「あなたも歩き方を練習してよ」
かようにお互いの問題点を指摘しながらゆっくりめに歩くうちに、どうやら基本動作だけはそれらしくなって来た。着実に上達する主人を見ると、劇団の臨時役者ぐらいが出来そうな気がする。
 4時間程歩いて泊まる予定の街に着いた。歩きかたを急に変えたので、あたしも主人も疲れ切っている。でも、ここで気を抜いてはいけない。一日目とはいえ、ここで変装が簡単にバレるようでは今回の作戦は断念しなければならないのだ。腹に力を入れてだみ声気味で値段を尋ね、ついでに、この辺りで筆や硯を買いそうな家を尋ねる。あくまで、商売をしているというカモフラージュが必要だから、実際に会いに行くつもりだ。
「門の近くで書の塾を開いている王斎先生の所に行けば大抵の事は分かるよ。あと、街の顔役は役所の近くに住んでいるから」
「じゃあ、あすの朝にでも挨拶してこよう、とりあえず、飯だ」
行き先を聞き、更に前払いで宿賃を払うと、寝台が3つ並んでいる部屋に通された。宿の値段は寝台一個当たりの値段だから、一番奥の寝台にあたしと主人の両方の荷物を置く。
「お泊まりだから、飯も安くしときますよ」
しっかり食堂の宣伝をして、案内の小僧は戻って行った。
 小僧の対応が、今までの旅とちょっと違う。あたしは行く先々で、愛想良く迎えられ、より細かい説明を受け、食堂どころか他のサービスまで宣伝された。主人と一緒であるにもかかわらずだ。でも、今日の小僧は主人に大した愛想をしていない。主人の色が黒いから女として魅力がないと思われたなら良いが、主人の女装が見破られたのが理由なら心配だ。そう思っていると
「どうやら大丈夫なようだね」
と主人が言って来た。もしも不審に思ったら、もっとじろじろ見るものだそうだ。どうやら第一の関門は越えたようだ。
 食事は手早く済ませ、相客の来る前に引き上げた。変装を見破られる事もなく寝室に戻る。今のところ相客はいない。とはいえ、いつ新しい客がくるか分からないから、他の連中が来る前に、さっさと靴を脱いで主人と同じ寝台に入った。東の島国では、未だに草蛙を使って旅行して、それを宿で脱ぐそうだが、中華の国は文化の中心、あたしたちのような商人でも靴で旅行するし、宿で素足を見せるような野蛮な真似もしない。お陰で、上げ底の靴を使っての男装が最後までバレないのだ。


第3回:変装1日目(主人視点)

 変装後はじめての夜は冷や汗ものだった。夜遅くに相客が入り、その気配で目を覚ましたら、隣で女の声色の小さなうなり声が聞こえて来たからだ。もちろん妻の声だ。幸い、暗闇で誰も見えない。見えないという事は、近づかない限り、家内が出した声なのか、同じ寝台に寝ている俺が出した声か分からないから、この為に我々の変装が今すぐバレる事は無いだろう。トイレ等で人が夜中にも通りそうな部屋の入り口でなく、奥の寝台が取れて本当に幸運だった。だが、明日以降が思いやられる。朝になって寝言の事を家内に言ったら、家内も同じ事を言っていた。俺の歯ぎしりとうなり声だ。昨日は疲れたから、より激しかったらしい。あれではどんなに女装しても一発で男とばれてしまうだろうとの事だ。
 お互いに対処策を考えたが、寝ている時の変装なんぞ所詮無理で、せいぜい、今日みたいに、宿には一番について、一番奥の寝台に寝るしか対処策が無い。それにしても家内が一人で男装して行くというのを制止したのは正解だった。こうして夫婦で同じ寝台を取るから、相客から不審に思われずに済むのだ。田舎の宿に個室と云うのは存在しない。もちろん金を弾めば個室は可能だが、行商客がそれをやると確実に不審に思われる。
 朝になって家内共々目を覚ましたとき、部屋の寝台の一つからいびきが聞こえていた。昨晩の客だ。恐らく暫くは寝ているだろうから、我々は先に着替えて朝食を済ませる事にした。衝立ての陰で、家内が着替えたあとに俺が服を着込む。今日は街を出る前に顔役とかを訪問するから、昨日の着物の上に長めの袴を着ける。街中では昨日のような長い着物でなく、短い着物で済ませるのが女たちの主流だが、今日はそのまま旅を続けるので昨日の服で十分だ。昨日の経験から、袴を結ぶ位置に気をつけて、念の為に家内に目で合図して貰って、女らしく見える位置を探り当てて、そこで結んだ。肋骨に紐を当てるだけで、なんとも奇妙な気分になる。そう、このまま、男の賎業に身を落としてしまいそうな。
 この国は、全てに於いて世界に君臨する文明の中華だが、ひとつだけ恥ずべきものがある。それは恋童(かげま=男娼のこと)だ。男の癖に女のように振る舞い、釜を掘られる事を無情の喜びとする連中。いや、そういう連中がいること自体は構わないが、それが普通の娼婦と同じく賎業として成立しているのはこの国ぐらいだろう。そういう場所に売られる子供は可哀相だ。そして、なんと包家村でも洪二郎の奴に売られて恋童に身を落とす男の子がいるそうだ。となれば、女装してそんな村に行くなど、自殺行為にも等しい。バレたら一巻の終わりかも知れないのだから。
 そういう避けるべき世界。にもかかわらず、それに踏み入れ兼ねない冒険を俺はあえて犯している。それが、この腰紐の意味だ。髪の簪も似たようなものだが、腰紐のように締め付ける訳でなく、女装をそこまで意識せずに済んでいる。腰紐は昨日も結んでいるが、昨日はがむしゃらに変装していたので、そこまで意識しなかった。でも、二回目の今日は腰紐の意味を考える余裕がある。だからこそ、今日は腰紐を女のように結ぶ事に対してなんだか後ろめたいものを感じるのだ。それもこれも包家村を訪れるため。一家の主人としての見栄と、商売人のしての矜持とで、勢いでここまで来てしまった。もちろん家内に対する愛もあるが、それは些細な理由に過ぎない。見栄と矜持が全てだろう。主人と云うのは頼られなければ意味が無い。特に人の口に戸を立てる事の出来ない田舎では尚更だ。噂はあっという間に駆け巡り、男衆の中での地位にまで影響を受ける。家内からの信頼は失ってはいけないのだ。そして、それ以上に洪二郎の奴に村から閉め出しを喰らった事に対する怒りがある。このまま泣き寝入りで終わりたくない。それは戦いを意味する。だから、相手を知る為にも潜入しなければならないのだ。不安に思っていては何も始まらない。虎穴に入らずば虎児を得ず。戦いとはそういうものだ。春秋戦国時代の伍子胥が持てはやされるのは、乞食に身を落としてまでも復讐を成し遂げたからだ。

 女装に対する言い訳の為の決意を新たにして朝食に向かう。我々は普通の行商だから、朝食も宿の竃を借りて自炊する。商売柄ひとり旅が多いから、料理自体はお手の物だが、それでも包丁や箸の使い方から盛りつけに至るまで、女らしい仕草で料理しなければならない。今は人の目がないが、だからと言って手を抜くようだと、いつボロが出るかわからないからだ。それに、数時間後に控えた一つ目の難関への肩ならしという意味もある。というのも、今日、これから出掛ける先は、顔役とか先生とか言われる人生経験豊かな連中の所だからだ。そこで対面して挨拶する際、立ち居振る舞いから相手との受け答えに至るまで女として振る舞わなければならない。それは家内にも同じ事。朝からきちんと演技をはじめて習い性にしておく必要がある。
 旅芸人に聞いた所では、女形を演じる時は、自分が女…恋している女であるという自己暗示を掛けるそうだが、素人の俺たちにとっては、そんなものでは全然足りない。その前に極度の集中力が必要になる。ちょっとでも変装意識を失うと、昨晩の例ではないが、直ぐに本来の性が出てしまうのだ。おそらく、旅芸人達は、無意識で男の仕草と女の仕草が使い分けられるのだろう。となれば、その域に達するまでは、四六時中、女らしく振る舞う事に気を付けなければならない。そうすれば、ひょっとしたら習い性とでもいうのか、それで自然と女らしく振る舞えるかも知れないからだ。人目の有る無しは関係ない。だから俺だって、俺と云う意識でなく妾(あたし)という意識でものを考えるほうが良いのだが、さすがにそこまで徹せるほど俺は悟っていない。

 朝食を終えると、相客が丁度起きた所だった。
「お早いですなあ」
そう言って来た彼は南から上がって来た行商人で、果物を北の城下町まで急いで運んでいるそうだ。受け答えは家内がする。
「我々は店の文具の宣伝のついでに知り合いに会いに行く所です」
宣伝も訪問もどちらも事実だが、行き先だけは本当の事を言わない。包家村はあくまで通過地点という建前で、その8キロほど先の賀村の名前を出しておく。
「ああ、あのあたりは、どの村も今は駄目ですねえ。野菜も果物もいいものが出来なくなってしまいましたよ。だから今はもっと南の村まで行って仕入れているんです。まあ、苦労する分、高い値段で売れますから、商売法は困っていませんがね」
そう言って、この行商人も噂を裏付けて来た。こうして行く道の情報を仕入れるのだ。家内が更に話を続ける
「ああ、そうですか。包家村が悪いって話は聞いていましたが」
「今はあの辺り4村に及んでますよ。まあ、あの村を通過するなら、見て行く事ですね、あんたがたなら大丈夫だろう」
「大丈夫って?」
「美しい若奥さんを見かけると、ちょっかいを出して来る連中が村を仕切っているんで」
要するに、俺は美しくないから大丈夫と言いたいのだろう。失礼な事を言う奴だが、旅ではこういう素直な忠告が一番ありがたいから、こういう会話もたまにはある。でも、こういう風に話が流れた以上、俺が何も言わないで済ませる訳にはいかない。作り声で
「ずけずけおっしゃるわねえ。まあ、あたしはどうせ色黒ですから」
そういう横から家内が笑いながら
「まあ、親切でおっしゃっているんだ」
と宥める振りをする。肝心の相手は、頭を掻きながら
「いや、すまねえ。でもうちのかみさんよりはとってもきれいですよ」
と答えて来る。目つきや口調から、俺の女装も家内の男装も見破られていないようだ。そう思うや、会話の内容も相まって、その場が一気に和んだ。すこし街の事情を聞いたあと、最後に行商人がこう忠告してきた。
「包家村は大丈夫だろうけど、その向うの川を渡る時は気をつけなせえ。闇商人が出張ってますから」
その話は聞いた事がある。この街道に平行して流れる緑河で闇塩を仕切っている連中だ。包の一家が村を治めていた頃は、官憲にバレない程度にそこからやや塩を買う代わりに、村の端を流れる支流での闇商売を黙認すると云う、常識的な関係にあったが、洪二郎に代わってからどうなっているのか俺は知らない。

 日の出から1時間程して、家内とともに袴を着けた正装で宿を出て、いよいよ顔役と塾の先生に会いに行く。顔役の家は街の誰でも場所を知っているから、直ぐに場所は分かる。屋敷の門で取り次ぎをお願いすると、顔役だけあって既に挨拶に来ている者がいるという。人口千人程の街なら当たり前かも知れない。少し待って順番が来てから中に入ると、長男が代理で出て来た。我々は叩頭して銀1両の包みを捧げながら挨拶した。1両とは通行料みたいなものだ。正式な商売でなく、単に何処かの塾に挨拶する程度なら、この程度の手みやげで構わない。
「初村の知り合いの所に行く途中のしがない者でございます。今日はたまたま通りすがりましたので、寄らせて頂きました。ご縁がありましたら、後日またきちんと正式にご挨拶させて頂きとうございます。今日はつまらないものしかございませんが、どうぞお納めください」
家内の声は腹の底からしっかりと出している。この調子なら大丈夫だろう。
 家内の挨拶を聞いて顔役の長男は
「まあ、頭を上げなさい。その恰好だと、さしずめ行商人かね」
と念を押して来た。
「はい、州の都で筆屋(筆と硯をもっぱら扱う文房具屋)の白猿堂に勤めさせて頂いておりますが、今回はご挨拶だけで」
州都は300キロ以上離れているし、白猿堂は3番手ぐらいの店だから、このあたり一帯にはとても手を広げていない。それでも、縄張りの関係上、商売でない事をはっきりさせておかなければならないから、挨拶と云う言葉を選んでいる。
 相手の様子を見ると、家内と俺を見比べながら満面の笑顔だ。俺も色々な街で顔役に挨拶したが、今日の対応はひときわ愛想がよい。おそらく、家内が美男に見える上に、その妻に扮している俺が不釣り合いなぐらいに黒いからだろう。いったい、商売では、特に我々のように文人相手のそれは顔が大事だ。イイ男は自然と売り上げが伸びる。それは顔役との対応でも同じ事。しかも、色男が醜女を妻にしていれば、大抵の者は優越感を感じるのだ。
「まあ、そういう事なら、王斎先生の所にでも行くとよい。南門の近くだ」
そう言って長男は下がった。要件がどうでも良い内容のせいか、恰好を吟味される事も無く、拍子抜けの気分で顔役の家を出た。

 次は塾の先生の王斎の所だ。今度の手みやげは筆。硯は何処の家も家宝にする程の高級品だからとても土産には出来ないが、筆は消耗品だから手みやげにちょうど良い。その準備を整えて家内が案内を頼むと、十歳を少し越えたぐらいの子供が出て来た。塾生らしい。
「おじちゃんたち、何の用」
いきなり、おじちゃんと言われて若干緊張した気味の家内だが、
「先生はご在宅でしょうか」
となんとか低い声で言い切った。子供が奥に行くと、カン高い透る声で
「カッコいいおっちゃんと、黒いオバちゃんが先生に会いたいって」
と正直な事を言うので、俺と家内は思わず見合わせて微笑んだ。続けて
「こら、何度言ったらわかる。取り次ぎではもっと上品な言葉を使いなさい」
という大人の声が聞こえる。声の風格が如何にも塾の先生だ。その声に続けて足音がして、玄関に現れるなり
「ワシの指導が至らなくて恥ずかしい所をお聞かせしましたわい」
と挨拶してきた。出遅れたので慌てて俺が返事しようとして、家内に腕でつつかれる。いけない、つい気が緩んで、俺が男の挨拶をする所だった。間髪を入れずに家内が
「かねがね、先生の御高名は伺ってはおりましたが、たまたまこの街に寄ったのでご挨拶にあがりました」
と言って、更に筆を脇から取り出して
「つまらないものですが、どうぞ」
と続けた。俺の目から見ても、挨拶は合格だ。塾の先生は
「痛み入ります、何も無い所ですが、どうぞこちらへ」
と書斎に招き入れてくれた。
 そのあとはお決まり通りの挨拶で我々の素性…例によって白猿堂を騙った作り話だが…を語ったあと、筆屋ということで、書斎に飾ってある硯や書を拝見する事になった。いつもの事である。書は可もなく不可もなく、いわゆる普通の塾の先生だ。硯も妥当なところ、極端に高級ではないが、さりとて塾の先生としての面目を維持する分は十分だ。ちゃんと使いこなされている様子があるから、真面目で見栄を張らない先生である事は分かる。ここなら俺の店の筆や墨の顧客にピッタリだが、今は売買の為にきている訳ではないので、ひたすら印象を良くする事に努める。硯と書のレベルについて家内に耳打ちして、それに相応しい挨拶をさせる。それで相手にも単なる行商よりは目利きが出来る者だと分かったようで…店を出しているぐらいだから当たり前だ…お茶を誘われた。ここでお茶になると時間を1時間ぐらい余分に食う。それは不味いから、旅の途中という事で固辞する。都合40分程でこの家を出たが、出がけに王斎先生が書いたものを一枚餞別にくれた。筆の贈り物したら、書なり食膳なり、何らかのお返しをするのが常識だ。能筆まではいかないが、それでも何処かの田舎者への土産ぐらいにはなる。

 こうして、朝の用事は無事に終わった。変装がばれるかと心配だったが、終わってみれば何の事はない。誰もがころっと騙された。すっかり安心して城門を出て、木陰で正装の袴を脱いで、旅衣装に戻った。靴も旅用の靴に変える。昨日こそ慣れる為に変装用の靴で旅したが、厚底のままでは家内が大変過ぎるし、俺だって女装する以上、訪問用の靴を旅で汚す訳には行かない。こうして朝10時頃には我々は次の街に向かったが、万事が順調なときこそ気をつけろという通り、やや緊張を失った我々をびっくりさせる事件が昼下がりに起こった。
 後ろから早歩きの旅人が追いついてきたな、と思っていたら、その旅人が我々を追い抜く間際に
「見ちゃいられないぜ」
と一言だけ言って、そのまま先に行ってしまったのだ。呆然。


第4回:不気味な街(主人視点)

 この言葉を聞いた時に、驚きとともに、一緒の恥ずかしさが全身を覆った。家内も顔を真っ赤にしている男装女装を見破ったからこそ、言ってきたに違いないのだから。
 家内の恥ずかしさも共感できるが、俺の恥ずかしさとは比べものになるまい。女の男装は、特に旅の途中では許容範囲だけど、男の女装というのは、特に旅の途中では言い訳が全く通用しないからだ。淫らな趣味の変態男という印象。淫らさに溺れた軟弱男という響き。それだけだ。そして、そんな淫らな女装男の存在を、かの旅人が次の街で皆に吹聴したら……。そう思うだけで、火照った顔が更に熱くなるのを感じた。
 恥ずかしさが一通り抜けると、今後は困ったと云う判断が芽生えて来る。先に恥ずかしさから開放された家内の、今度は困惑した様子を見て、俺にも問題を考える余裕が出て来た
「困ったな」
「そうねえ」
暫く二人して困った困ったを連発したあと、ようやく家内とともに今後の方針について考え始めた。
 先ずは、服と仕草の再確認から。お互いに歩き方を確認しあうと、さっきのショックて目が厳しくなったのか、微かな崩れに色々と気がついた。我々の歩き方や仕草は、見る人が見れば分かるかも知れない気がする。確かに完璧ではないのだ。特にさっきは緊張の足りなさで、簡単に見破られたに違いない。そう思うと、この先の日程がとてつもなく困難なものに思えて来た。と、同時に疑心暗鬼というか、今まで会った人々が実は見て見ぬ振りをしていた可能性すら気になってくる。
 そう思って、昨日からの一日に挨拶した人々の言動を振り返ったが、もしも皆に簡単に気付かれたなら、一人ぐらいは言って来そうなものだ。そう思うと、我々が過敏に反応したような気もしてくる。もちろん一人ぐらいは気付いていた者がいるかも知れないけど、皆に明らかにバレているとは思えない。となれば、この先さらに男装女装に気をつければ、3日目までには十分に他人を誤摩化せるようになっているのではないか? 真相は分からないが、少なくとも諦めるのは早い。

 気を取り直し、初心にもどって変装に気をつける事になった。特に俺の女装はまだまだ改善しなければならない。世の男達は、男よりも女の姿をじっくり鑑賞する。そして、出歩いている者の大半は男だ。だから、家内の男装よりも俺の女装の方がバレる可能性が高い。そう結論づけると、女装の問題点を見きわめるべく、再び家内に女の普通の歩き方を実演してもらった。昨日からの一日の経験を踏まえて、女の歩き方というのを改めて見ると、やはり細かい所で思わぬ発見がある。例えば腰や胸の細さと尻の高さ大きさの対比。例えば歩く時の微妙な揺れ方。いずれも改めて参考になる。取りあえず腰の細さを強調する為にさらしで肋骨を窮屈に締め、歩き方の練習のやり直しをする。小股の内股で姿勢を確保し、その上で出来るだけ速く歩く練習をするのが良いようだ。これをずっと意識的に続ければ、宿に着く頃にはサマになってくるかも知れない。
 見習うべき相手は家内だけではない。村をいくつか越えるうちには、いろいろな村娘をも見かける。昨日は自身の変装に夢中でゆっくり見ていなかったが、今日は、そういう娘の歩き方をじっくり観察しよう。そう思って、道の途中でもしっかりと他人の動きを見るようになった。男が女をじろじろ見ると不審がられるものだが、今の俺は女なのだから、若い娘を見て不審に思われる事はない。女には常に若返りの願望があるから、若さに見とれるのはごく普通の事なのだ。今までそういう簡単な事を失念して、男の意識でむりやり目を背けていた。
 ここまで考えが至ると、俺は問題点の一つに気がついた。女の心だったらどう感じるのだろう、という事だ。女心に踏み込まないと、完全な女装は難しいのではないか。役者さんの言ったとおり、自分自身が女であるいう意識を持つぐらいまで役にのめり込む必要があるのかも知れない。その一方で、役者でない我々が催眠術の一種である自己暗示を掛けては、客観性を失いそうで、かえって危険な気もする。
 もっとも、今の俺には自己暗示すら無理だ。やれる事から始めよう。それは人とより多く接触する事だ。そうして、緊張度の高い演技を繰り返すと共に、いろいろな女達の仕草を男のそれと見比べて観察することだ。となれば、今夜の宿ではもっと大々的に人目につく所…例えば市場…に行く必要がある。そう家内に提案したら、
「それもいいけど、それなら『奥』とかに行ってみたらどう」
と逆提案された。それは、ちゃんとした家を正式に訪問するという意味だ。そうして、家内が表(外来者が来る所)で訪問先の主人と話をしている間、俺は奥(家族と女しか入れない所)で訪問先の妻女と話をしなければならない。
 妻の提案は一理あるが、今夜は早過ぎる。きちんとした家では奥と表が完全に分けられているから、男子禁制の『奥』で女装がバレる事は絶対に許されない。俺が男とバレたら役所に突き出されるか、袋だたきに遭うかのどちらかで、最悪なぶり殺しに会う可能性だってある。それは単なる準備にしては余りにリスクが大き過ぎる。妥協案として、とりあえず今夜は、食堂へ人の集まる時刻に2人で行く事になった。

 今日も行程を短くとっているので、午後3時頃には宿に入って、一番奥の寝台を確保した。昨晩の経験からこれは絶対だ。宿の帳場には昨日と違って年配の主人がおり、普通の挨拶をしてきた。これでは我々の変装が見破られたかどうかは分からない。俺も客商売をしているが、客の素性は気になっても客の性別まで詮索した事はない。昨日こそ単純に小僧の口ぶりから大丈夫と思ったのだが、考えてみれば、同じ客商売でも宿屋では特に男女の問題に気をつけるものだ。そういう前提で客を観察し、問題が無いと思ったら、変な騒動に巻き込まれるのを避けて知らない振りをする。それが宿屋だ。だから、たとい我々の変装に気付いても、夫婦だから大丈夫だ判断して、如何にも騙されたかのような振る舞いをしたっておかしくない。主人の態度なぞ、我々の変装の成否を知るのに何の役にも立たない。
 暗くなるまでにまだ時間があるので外に出た。先ずは顔役の所だ。時刻が時刻だけに昼寝のあとの陳情者が門の所に2組4人ほど見える。順番を待っているらしい。まだ明るいから、家内はともかく、俺は近づき過ぎると変装がバレかねない。だから、家内が待っている者に対して
「通りすがりの旅のものですが、御盛名をお聞きしてご挨拶にまいりました」
と挨拶する間、家内の後ろに下がって、貞淑な声を掛け難い妻女を演ずる。すると、一番外にいた男が
「それはお疲れさまです。ところで、どちらから来られてどちらまで行かれるんでしょうか」
と順当な挨拶をしてきた。打ち合わせ通り、州都の白猿堂の者であって、賀村まで知り合いを尋ねて行く話を家内がすると、突然、そこにいる4人がお互いに顔を見合わせた。様子が変だと思った矢先に、一番奥にいる門番が
「あと1時間程かかるでしょうから、そのあたりを歩いて来ては如何ですか」
と、暗にこの場を離れる事を勧めてきた。どうやら訳ありらしい。
 街を一回りして様子を見ながら、同時に行き交う女達の歩き方や仕草を観察する。やはり決定的なのは尻の振り方、そして今になって気付いたのが腕の締め方だ。女の肩は男の肩よりもしぼんでいるらしく、腕の所作が全て内向きだ。なるほどと思って少しずつ真似をしていく。
 それにしても、通行人の反応が異常だ。確かに、我々への視線は普通の旅行とさほど変わらないし、じろじろ見る者も、かといって不自然に見ない振りをする者もいない。しかし、ヒソヒソ声の者が余りに多いのだ。他の街でも、我々のような余所者が通り過ぎる時に声を落とす者はいたが、ここでは近づく前から声を落とし、しかもその数が余りに多い。女装男装がバレているのではないか……昼の旅人が我々の事を吹聴したのではないか? 不安が段々と募って来る。家内も同じらしく、顔つきに焦りらしきものを感じる。このあと訪問する顔役の所で大丈夫だろうか? 最悪の場合、我々の事情をぶちまける必要があるかも知れない。
 家内ともども心を落ち着かせる為に、人の少ない通りを辿って、顔役の屋敷に戻る。戻り道、家内が
「バレているんじゃないの?」
と、俺の不安をそのままぶつけて来た。ここは家内を安心させる事を言うのが主人と言うものだ。不安を隠して
「いや、むしろ街全体に何か隠し事があるみたいだ」
苦し紛れの理由を捜してみると、家内も
「そう言えば、顔役のところでも訳ありの感じだったわね」
と相槌をうってくれた。そうだ、確かに俺たちは過敏になり過ぎているのかも知れない。不審者を見る目つきでなく余所者を見る目つきではなかったか? 
「顔役に聞いてみるかい?」
元気づけるつもりで、なかば冗談のつもりで言ったが
「そうね、心配ばかりしても仕方ないし」
とその気になって来たので俺は慌てた…マトモに尋ねたら女装をばらす事になりかねないのだ。でも、よく考えると悪い考えではない。そもそも、今ならバレても恥ずかしいだけで、実害はないのだ。

 門番に取り次がれて中に入ると、昨日と違って応接室に招き入れられた。玄関横の簡易応接室に招かれる事はよくあるけど、ちゃんとした応接室とは珍しい。待たされた分だけ待遇が良くなる事を差し引いても、特殊な事情がありそうだ。変装…相手を騙す行為…で後ろめたさがある我々は、普段と少しでも違うと過敏に感じるのだ。存外、単なる世話好きかも知れないが不安は不安だ。例によって這いつくばって1両を渡すと、固辞する余裕も無いうちに
「まあまあ、遠路はるばる来られたんだ、お茶でも飲んで行きなさい」
と引き止められて、仕方なく椅子に座った。格子窓から夕日が少し差し込んで、針のむしろに座った気分だが、ここは肚を据えなければならない。俺以上に大変なのは家内だ。うわずった地声を出すのではないかと、はらはらしながら家内のお礼を待つ。
「私どものような下層の商人にまでご丁寧なおもてなし、痛み入ります」
なんとか腹に力を入れて話せたようだ。
「あなたがたは、州都から来られたのですな」
この設定については何度も打ち合わせしている。
「私共は、その隣の町に住んでおりまして、そこで白猿堂の倉庫に勤めたり、本店への使いをしたりしております」
白猿堂が隣の港町に倉庫を持っているのは事実で、そこは俺も行った事が何度かあるから、町の様子は大体知っている。訪問した回数では州都のほうが多いが、町が大き過ぎて把握していない。その点、この港町なら大抵の話について行く事ができるのだ。
「ああ、それは残念な。まあ、でも州都に近い事には変わりませんな」
「はい、歩いて一時半(3時間)程の道のりでございます」
「それはよかった。実は、家内の甥が科挙を目指しておってな、半年後の試験を受けるつもりなのじゃが…」
 科挙で半年後の試験と言えば、第2段階の府試だ。すでに童試の第一試験である県試に通っている子供が、科挙の本試験(郷試)の受験資格を得る為に受けるもので、これと、それに続く院試に通ったら晴れて秀才様(生員という、日本で言えば旧制高校生みたいな身分)になる。人口の多い所ではかなり近い街で府試を受けられるが、ここは田舎の州なので、遠い州都まで受けに行くのだ。
「…州都には知り合いがおりませんのでな、筆屋さんみたいな方に仲良くして頂ければと有り難いのですが、いかがですかな」
受験を前に、試験先の街に知り合いを沢山持ちたいと言うのは自然な話だ。特に筆屋なら知り合いにいてお互いに損は無い。生員は筆記具のお得意様であり、しかも生員の知り合いを持つ事は筆屋にとっても宣伝になる。要件は分かったが、住処を偽っている我々にとっては逃げるのが上策だ。それは家内だって分かっている筈。ただし、この話を断る口実がない。そして、こういうのは即断即決だから、変な躊躇いを見せるぐらいなら、さっさと承諾した方が良い。即座に家内を肘でつつくと、家内は絞り出すように、
「都にしょっちゅう行く訳でもない私どもにお手伝い出来る事も少ないとは思いますが、筆の御縁もあるかも知れませんから、こちらこそ宜しく」
となんとか無難な挨拶で締めた。冷や汗ものだ。幸い顔役は何も不審に思わなかったのか、
「そう仰って頂いてこちらも心強い。そういう事であれば、今宵は夕食を一緒にいかがかな。そこで甥をお引き合わせしたいのでな」
旅商人ごときに夕食の招待は行き過ぎだ。いかに理由がもっともらしくとも、深入りは絶対にまずい。そうでなくとも、夕食で根掘り葉掘り街の事を聞かれてボロを出す可能性がある。
 こんな時のマニュアルはないぞと焦り、やっとの末で病気を装う事を思いついた。さっそく顔をうつむかせ、やや猫背にして、家内の腕に手を添える。家内が気付いてこっちを向いた時に
「過労」
と口だけ動かして伝えた。あとは以心伝心を信じるしかない。もどかしい一瞬のあと、
「長旅で疲れておりますので、今宵は早めに寝とうございます」
と家内が無難な挨拶をしてほっとする。あとは一直線だ。
「そりゃ残念ですなあ。州都への帰路には是非ともお立ち寄りください」
「是非とも寄らせて頂きます」

 なんとか顔役の所を固辞し、宿に向かう。余りの展開に、変装がバレたかどうかとか、街の雰囲気の異常さとか考える余裕すら無い。だが、とにかく切り抜けただけで良しとしよう。予定では塾の先生の所に行くつもりだったが、体調の悪さを理由に顔役の所を固辞した手前、ここは宿に直行しなければならない。
 宿の帳場には相変わらず年配の主人が座って通りの人々に声を掛けている。監視の良い宿だが、変装している俺たちには敷居が高い。まあ、これも練習のうちだ。家内が俺の疲労を主人に伝えて寝室に入ろうとすると、主人は相客がいると教えてくれた。南から来た反物商人らしい。昨日今日と相部屋相手が商人なのは偶然ではない。宿の主人の立場からすれば、習性の似通った同業者どおしを同じ部屋に入れたほうがトラブルが少ないのだ。もっとも、同じ商売人とは言っても、仕入れ価格の高い反物商人と仕入れの簡単な野菜商人とは自ずから格が違って来る。反物商人のほうが普通は金持ちで、自然と店勤めが多い。今日の相客もやはり店勤めで、仕入れの帰りらしい。こういう場合、貴重な商品を相客に盗まれたら問題だが、にもかかわらず相部屋になったのは、我々が商品を盗みそうにない商人夫婦だと主人が判断したからに違いない。その意味では、変装がバレているかいないかは別として、少なくとも怪しまれていない事だけはわかる。
 反物商人ともなれば、州都の者の可能性もある。不安に思って、俺が作り声で
「どちらの方かしら」
と宿の主人に尋ねると、州都とも我々の商売範囲とも違う街の名が出て来た。ようやく安心して部屋に向かうと、反物商人は、部屋の奥の、我々と反対側の寝台で荷物を整理していた。家内が挨拶すると、例によっての情報交換が始まる。州都から来たと言うついでに、家内は今まで来た所の治安とか景気について話をした。俺は2ヶ月前にも旅しているので多少の情報は持っているのだ。相手は代わりに、次の街の情報…挨拶すべき相手とか治安とか…を教えてくれた。なんでも治安は普通だが、厄介な若者がいるとの事だ。その程度なら気にする必要はない。
 情報交換が一応終わった所で、気になった事を俺が尋ねる。それは、この街のひそひそ話。秘密がある為なのか、それとも俺たちの変装が知られてしまった為なのか。この質問、礼儀に従えば家内がすべき事だが、旅商人どおしの日常会話で女が話に加わらないのは不自然だし、第一、家内ばかりが受け答えしていては、俺の練習のならない。作り声で、
「ところで、この街、ちょっと変だと思いません?」
音色だけでなく言い回しにも女を意識しつつ、ちゃんと半分カマを掛ける質問をすると、
「奥さんは目が利きますなあ。実はお尋ね者をこの街が匿っているって噂がありましてね」
ここまで聞いて俺と家内は顔を見合わせた。街が匿うってのは、街の顔役が匿うという意味だ。となれば、先ほどの顔役の家での応対に合点が行く。甥というのが実はお尋ね者で、それを匿い切れなくなったから、州都に逃げさせようとしている可能性があるのだ。その際に、全く縁の無い我々を利用したら確かに見つかり難い。そう思った矢先、反物商人は意外な事を口にした
「いやあ、おそらく濡れ衣らしいんですよ。ほら、さっき厄介な若者が次の街にいるっていったでしょ? その若者の父親…洪二郎って言ったっけ…その彼がでっち上げたらしいんで」


第5回:謎の若者(妻視点)

 反物商人の話によれば、半年ほど前から洪二郎の屋敷から宝物(茶器とか銀の食器とか金の鼎とか)が紛失する事が時々あったそうだ。その為に女中連中が疑われて、何度も首になってはそのまま郭に売られていたという。そんな冤罪を繰り返して、やっと犯人が見つかっのだが、その犯人が口にした仲間の名前が、包家の親戚の生き残りだそうだ。ここまで話が上手いと誰でも眉に唾をつけたくなる。
 包の本家が潰れても、叔父や親戚の家は残った。新興の洪家としては、親戚の多い包家は全部潰さないと安心出来ないから、悪の手を緩めない。一方の包家はずっと争いの無い村で過ごしていた為に、洪家の悪辣さに対応しきれず、次第に洪家に追われたり呑み込まれたりした。辛うじて彼らに出来る事は、家が危なくなった段階で、先手を打って息子を村から逃がすぐらいだ。そして、彼らは息子を守る為に敢えて生け贄になった。もちろん洪家のほうもそのあたりは心得ていて、早い段階で息子をターゲットにしていたから、実際に逃れられた子供は少なく、せいぜい4、5人といった所だろう。それが今から7〜8年ぐらい前の話だ。成長して青年となった彼ら(包家の第18代の従兄弟達)は洪家を恨んでいるに違いないから、洪家にとっては将来の禍の種ではある。
 そういう事情を考えると、今回の盗難事件は、包家の生き残りを片付ける為に洪二郎が打った芝居の可能性がある。たとえば、盗みの犯人が洪家の手の内の者であったらどうか? その主犯が共犯の名前を出すだけででっち上げは可能なのだ。そして、盗みは、盗まれた家の対応によっては死罪にならずに済む一方で、監獄の看守を買収すれば判決が出る前に毒殺する事も出来る。でっちあげ説もそこに由来する。反物商人はここまで説明して
「犯人と無関係の女中達を、証拠もないうちに疑いだけで郭に売ってしまったぐらいだから、何をやってもおかしくないって噂ですなあ。まあ、あんな達も気をつけるこった」
女の身として、女中の話は身にしみる。もしかしたら、あたしが郭に売られたのかも知れないのだ。幸い、主人があたしの実家で雨宿りをしてくれたお陰で、それが縁で今はこうして村から逃れている。まだ主人が村に来れて、村もそこまで疲弊していなかった一昔前の話だ。
 女中の身に同情して思わず涙を出しそうになったが、こらえて代わりに主人の腰に手を回す。思わず女の本性で主人の手を握りそうになって慌てたが、なんとか誤摩化せた。そういうあたしの心情を夫は察したのか、主人はいきなり顔をうつむかせ、鼻をならして、涙声を装った声で尋ねた
「その話だと…グス、郭に売られた女中って…グス、無実だったんでしょう…グス?」
「奥さん、まったく可哀相なんですよ、なんせ生娘を近隣の村から安くで買い入れて、手を付けた挙げ句に高く売ったって噂ですからねえ」
「なんて……酷い!」
主人は小声で叫んだ。女中への同情こそ、まさしく女の取るべき態度。それを実践してくれた主人は役者になる素養があると思う。もちろん声色自体には不自然感が無いでもないが、タイミングや言葉が絶妙だから、これなら間違いなく女だと思ってくれるだろう。
 こうなるとあたしも頑張らなくては。そう思ったと同時に主人が肘でつついて来た。主人のしそうな質問を代わりにせよという合図だろう。男の質問と言えば論理的な繋がりだ。反物商人の話を頭の中で急いで復習して、街の態度と包家の関係の説明が足りない事に気がついた。今更感のある質問だが、主人が泣きで時間を稼いでくれたので、ぎりぎり自然なタイミングで聞く。
「そうなりますと、この街は包家の生き残りを匿っているって訳ですか?」
「そりゃあ、義侠心の少しでもある親分なら、匿うでしょう」
これで裏が取れた。守るべき秘密があるから、他所ものに聞かれないように細心の注意を払う。それを街全体でやっていたのだろう。なんだか、この街に親近感が沸いて来た。
 顔役のいう『家内の甥』というのが、包家の従兄弟の誰からしいと思った瞬間、昔遊んだ子供達の顔が浮かんだ。あたしは15歳で嫁に行ったが、その前は村の子供と遊んだり面倒見たりしていたから、包一族の子供も何人も知っている。その誰だろう? 脇道かも知れないけど、ちょっと興味がある。

 お手洗いに行く口実で部屋を出た時に、あたしの興味を主人に言うと、主人は少し考えたあと
「筆屋と云う立場を利用したら? 科挙を受けるって言うんだから」
と言って来た。確かにそうだ、科挙を受ける若者達は筆屋のお得意先だ。この街は白猿堂の縄張りでこそないが、試験を受けて合格したら重要な顧客になりうるから、人の名前を聞くぐらいの商売活動は他店の縄張り内でも許されるのだ。そこに事情を聞き出す手がかりがある。しかも、運良く相手が包一族の子供なら、あたし達と同じく洪家が仇敵だから、あたしたちに有益な秘密情報を与えてくれるかも知れない。
 お手洗いから戻った足で反物商人と一緒に飯屋に行き、店の主人に、半年後の府試(科挙の第2段階の前試験)を受けに行く者がいるかどうかを尋ねた。ところが、主人の挙げた4人の名前の中に、さっきの顔役の甥らしき家柄の者はいない。商人の子供と、元官僚の子供と、塾の先生の子供の、素性のはっきりした者だけで、顔役に繋がる線は出て来ない。こうなれば、もっと突っ込むか。
「その4人の方々の誰が、顔役の甥御さんに当たられるにでしょうか」
あたしがそう尋ねた瞬間、主人と給仕の顔が陰った。不味い事を聞いてしまったか? 冷や汗が一滴流れる。
 少しして、客の一人が
「甥御さんは、確か州都から1日ぐらいの所に住んでおられるって聞きましたよ」
と口を出した。如何にも助け舟という感じだが、これが本当なら店の者が知らなくてもおかしくはない。いや、それどころか、これが本当なら、あたし達の想像が間違っている事にすらなる。声を失ったあたしに代わって
「あなた、きっとあたし達の住んでいる街から遠くないから、お知り合いになっとくと良いんじゃないの?」
と、主人が助け舟を出してくれた。店の者が
「なかなかしっかりしている女将さんじゃなあ」
すかさず応答するのに対し、
「おほほ、この人は誠実なのは良いんだけど商売が下手なんですよ」
と、主人も素早い。絶妙な自然さに感心しつつも、あまり喋り過ぎてボロが出なければ、とも思ってハラハラする。ハラハラすると不安がもたげる…あたし達の変装を知っていて敢えてからかっているのではないかと。胃に悪い…食事は美味しいのだが。
 昨日とはうって変わって会話の多い食事を終え、部屋に戻った。あとは寝るだけだ。相客は他におらず、反物商人とは衝立てを隔てている。それでも念のために、その夜はあたしが先に眠ってその間は主人が狸寝入り、暫くしてからあたしが狸寝入りして主人が眠るという半偽装を経て、相客がいびきを立てた頃にあたし達はどちらも寝た。

 翌朝。
 昨日と同じような朝を過ごしたあたし達は、取りあえず塾の先生の所には立ち寄る事にした。昨日と同じく不審がられない為のカモフラージュという意味もあるが、昨日からのモヤモヤ感…この街の変な反応…を探る意味もあるし、顔役の甥と言う人の情報を得る意味もある。案内を頼むと出て来たのは、昨日よりは礼儀正しい子供で、そのまま通された応接間には、元服前後の若者が3人座っていた。うち2人は兄弟らしく、塾の先生と似ていたが、3人目は目元の涼しい少年で、親近感を覚える顔つきだ。
 例によって筆の贈り物を鑑賞を済ませる頃には既にお茶と茶菓が運ばれていた。出発の遅れる事は気になるので、旅の途中である事は相手には言っているが、若者の相伴があるのでは仕方なく、客の席についた。当然、若者の紹介があって、2人は予想通り先生の息子で、3人目は1人は知り合いの甥御さんだそうだ。名前は葉芯洋という。3人とも今度の試験…科挙の前試験の二次試験…で州都まで行くという。試験は3年に一度しかないので、歳が2つほどしか離れない兄弟が同時に試験を受けるのは常識に近い。しかも、他州なら 100km以内の街で受けられるのが相場だが、ここから州都まで300km離れているので、一人旅を避けたいという理由もある。
 知り合いの甥御という紹介でピンと来たが、案の定、葉芯洋少年はここの顔役の妻の母方の甥と自己紹介して来た。彼は州都から遠くない実家が家を空けがちなので、ここに来て勉強しているとの事だ。この説明に何の不審な所はない。科挙の一次試験(県試:府試の前の試験で、日本の市郡に近い行政単位ごとで行われる)は居住地でも本籍地でも受ける事が出来るので、この街でその試験を受けるのは極めて自然だ。ただただ、反物商人から聞いた噂が引っ掛かるだけ…もしかしたら匿われている張本人ではないかと直感が訴えている。そして、その後の先生のお願いが更に疑問を深めた。
「どうですか、帰りに同行して頂けませんかな?」
試験の前に一旦親元の所に帰っておきたいというものだが、なぜ我々なのか、というところが気になる。15〜17歳の年頃なら普通は家の郎党が付き添うものだ。安上がりと理由は有り得ないでも無いが、科挙を受ける家に貧乏はいない。
 そして、一番決定的なのは、顔つきへの親近感。仮に包一族の者だとして、10年近く昔の記憶だから、変化の激しい子供の顔つきなんて覚えている筈は無いが、それでも親や親戚の顔の記憶から、それとなく親近感を感ずるのは当たり前だ。必死にそれらしき親の顔を思い出しては、目の前の葉芯洋少年と比較して見る。こんな風にあたしが考え込んでいると、主人がいきなり耳打ちして来た
「筆を渡そう」
あ、そうだった。ここはまず、ちゃんと筆屋らしい振る舞いに専念しなければならないんだった。我に返ると、懐から予備の一本を取り出して、葉芯洋に出し、型通りの挨拶をした上で
「もしもこの街道を戻る事があれば立ち寄らせて頂きますので、その時にお話しましょう」
と先延ばしにした。葉芯洋の事で頭がいっぱいで、結局、街のヒソヒソ雰囲気の理由を尋ねる余裕も無く、塾の先生の所を予定より30分ほどオーバーで出た。結局、葉芯洋が包一族の誰であるかどうかは分からずじまい。

 葉少年と包家の関係はひとまずおいて、今は旅を急ぐ時だ。今夜の宿は包家村から遠くない。この街ですら、指名手配騒動で洪二郎の影響を受けているぐらいだから、今夜は半分敵地に行くようなものだ。それだけに、宿には出来るだけ早く着いて、一番秘密の守れる寝台を確保したい。
 しばらく歩くと、余裕が出て来た頃に主人が
「葉芯洋が包家の逃亡者だったら、どうする?」
と尋ねて来た。そんな事は分からない。
「もしも帰りに彼を押し付けられたら、断る理由はないぞ」
と言われて、ようやく気がついた。そうだ、あたし達も洪二郎の一党に狙われかねないって事だ。もしも彼を押し付けられた場合に、彼だと絶対に分からないように連れて行く方法を考えねば。
 それは、ちょっと考えて答えが直ぐに出た。あたしたちと同じく変装させる事だ。主人も同じ考えらしい。主人よりも若くてほっそりした少年だから、女装させるのは易しい筈だ。頭の中で想像しみる…が残念ながら本人が目の前でないとイメージがわかない。代わりに、若くて顔立ちの整った少年青年を路で見かける度に、この子なら騙せるとか、この子は駄目とか、彼らを女装させた時のイメージを頭に浮かべる。これをはじめてみると結構面白い。癖になりそうだ。
 昨日と違って旅の途中で驚くような事は無い。それもこれも、主人の女ぶりがますます板に着いて為だと思う。頼もしいのは頼もしいのだが、同時に漠然とした不安も感じて、この複雑な気分はなんとも例えようが無い。女装の挙げ句に男色に目覚める話を時々聞くからだ。主人がそうならないという保障はない。しかも、葉芯洋を女装させて同行させたら、それこそ男色を推奨する行為のような気がする。もしかしたら、あたしは大変間違った事を提案したのかも知れない。… もちろん、そう思う次の瞬間には、こんな心配なしなくても良い筈、と主人を信頼して打ち消してはいる。いずれにせよ、もうサイが投げられた。


第6回:敵地の街(主人視点)

 昨日よりもスムーズに歩くようになって、昼には今夜の街が見えて来た。見えるといっても、まだ2時間ほどかかる距離だ。このあたりは畑が多くて森が殆どないから、遠望が利く。1時間ほど歩いて、小川のほとりの木陰で最後の休憩を取る。この後は真っすぐに街に入るから、ここで変装の再確認だ。初心に戻って改めで見直すと、この2日で目が肥えたのか、シルエットのバランスとか歩き時の足の持ち上げ方など、小さな部分に目が行くと同時に、過剰な動作も鼻につく。俺は過剰な芝居女でなく、ごく普通の女を演じなければならないのだ。それは家内も同じ事。男装女装の復習以上に大切なのが、汗を拭いて臭いを消す事だ。服は誤摩化せても汗が誤摩化せない。服を脱ぐ訳には行かないが、拭えばかなりの臭いは消せる。そうして、街に入る前に、香をしたためた布を巻く。俺の場合は首に喉仏を隠すように、家内の場合は頭巾として。これらの布は臭いが消えないようにしっかり巻いてしまっている。全ての準備を終えて、いよいよ街に向かった。
 街の入り口を越えた所で、3人の目明かし連中に呼び止められた。官職の捕盗でなく、その下のヤクザ連中だ。怪しいと思われたのか?
 不安が少しよぎったが、待てよ、と考え直した。こういう風に呼び止められる事は珍しくない。大抵は何かの事件を追っての情報収集だ。それはヤクザ連中の仕事でもある。賭博場や女郎屋などの儲けの多い場所をシマとして確保しているヤクザ連中は、金持ちが気持良い夜を過ごして金を落とすようにと、治安にだけは気をつける。そういう一番怪しげな場所での治安を、街の治安の大半は確保されたと言って良い。一方、官職の捕盗はいずれは出世して大きな街に移るから、地元に根付かない。そんな訳で、地元の荒くれ連中が治安を守ることになるのだ。もともと蛇の道は蛇で、この手の仕事には彼らが一番ふさわしい。だから彼らが呼び止めたという事は、聞き込みをしている可能性が高い。もっとも、10個の街を訪問すれば、一ヶ所ぐらいは性の悪い目明かしがいて、普通の市民にたかったりするが、そういう場合でも銅銭を握らせれば大抵開放される。
 3人のうちの歳の中程の男が声を掛けて来た。3人揃えば2番手が口を出すのが普通だろう。
「旅でお疲れの所を済みませんがね、ちょいとよろしいですかい?」
質問の形をしてはいても、威圧的な事実上の尋問だ。昔から、口調が優しい相手ほど気を付けなければならないというから、こういう時は先手を打ってこちらの身元を先に明かすのが賢明だ。伊達に商いの旅を経験している訳ではない。それは家内とて同じ事。ここは安心して任せられる。
「何の御用でございましょうか? 手前どもは賀村の知り合いを尋ねてこちらまでやって他所で、こちらの事情には詳しくございませんが」
「こっちの方角から来なさったってこたあ、昨日の泊まりは……」
 なんでも、我々が昨日泊まった街に、16〜18歳の不自然な若者がいないかという事だ。それでは余りにも漠然としている答えようが無い。それは相手も承知していて、昔の奴だけどと言い置きして似顔絵を出して来た。俺も一緒に似顔絵を見たが、ぴったりの顔を特定出来ない。ところが家内は似顔絵を見たきり黙り込んでしまった。様子を伺うと、他人には分かるまいが、うわの空のように思える。伊達に長年連れ添っている訳ではないのだ。こういう時の家内は色々と迷っている事が多い。もしかすると旧知…たとえば包家村の者とかではあるまいか? となれば、緊急の話ではないから、知らないで通すべきだ。女の家内に、こういう場での冷静な対応を求めるのは酷だから、俺が
「ねえ、あなた、こんな子には会ってないよねえ」
と助け舟を出す。
 俺の言葉で意識が戻ったのか、家内も
「昨日も一昨日も全部思い出してみましたが、わかりません。お役に立てずにどうも済みません」
と長い沈黙の言い訳をしつつ似顔絵を3人組に返した。
 目明かし連中は、有力な情報を期待していた訳でもなさそうで直ぐに開放してくれた。俺たちがその場を離れると、後ろから、一番若いと思しき男の
「あにきー、こんなんじゃ駄目ですってー」
という本音に続けて、年配者の
「まあまあ、こうやって聞き込みだけでもやっておけば、洪の旦那様も満足するだろうからな」
という本根が聞こえて来た。なるほど、そういう事か。この分だと俺たちの変装はバレていない。
 ひとけの無い所で家内に尋ねると、お尋ね者は果たして包一族だった。
「あれ、西の山手の庸ちゃんよ。あたしより7つか8つ年下で、気が強くて良く泣いていたのを覚えている」
その庸ちゃんというのは、俺たちが結婚した時はまだ子供だったそうだ。そして、家内が言うには、その庸ちゃんを思い出したら、突然、似顔絵の人物…おそらく10歳前後の時のものだろう…と、昨日の葉少年が繋がったそうだ。昨日聞いた裏話から、この庸ちゃんが冤罪なのは間違いない。だから家内は助けたいと瞬間的に思ったものの、ここで正直に目撃情報を言えば、俺たちの本来の目的を果たすのに有利になるのではないかという打算が働いたそうだ。
 俺は家内の浅はかさに呆れた。家内に言われて始めて似顔絵と葉少年とに共通する面影に気付いたが、何も知らない人間なら気付くまい。それを指摘するようでは、それこそ包家村とのゆかりがバレてしまうではないか。だから、家内のように気付いたなら、ここは即座に知らないと答えるべきところだ。もっとも、いきなり見せられたお尋ね者の似顔絵が昔の知り合いだったら、大抵の者は驚いて次になすべき事が分からないだろう。それを考えれば、今回の尋問を無難に切り抜けただけでよしとしよう。

 宿について余分な荷物を置くと、さっそく顔役の家に挨拶に行った。敵地に近いので心の準備とか情報収集をしたい所だが、さっきの目明かし連中が顔役の場所をこっちが尋ねもしないのに教えてくれたので、急ぐ必要があると判断したのだ。もしも彼らがあのまま顔役の所に報告に言ったとすると…最悪事態の想定だが…俺たちの挨拶がちょっとでも遅くなると、何かを探っているのではないかと疑われる可能性がある。もちろん、九分九厘そういう心配はないが、念には念を入れよう。
 例によって待っている人が数人いるが、今日は昨日と違って変な雰囲気は無い。順番待ちと言っても決して行列ではないから、グループ毎に違う場所を占める訳で、変装がバレるほどの至近距離に立つ訳ではない。それでも何かの拍子に近くまで来るとが、じっくり見られるとかいう危険があるから気は抜けない。こういう時の対策が木陰だ。暗い所から明るい所を見るのと、その逆とでは見え方が全然違う。そして、大抵こう云う所には、風致の為の木が数本植えてある。しかも待つ者の便宜の為に石まで置いてある。だから、さっさと木陰を陣取って見え難くし、かつシルエットを隠す為に腰掛けるのが良い。到着の時は日の当たる座り石しか残っていなかったが、俺の立場は長旅の後の女であるから、俺たちの素性を家内が言うなり、前からいた者がさっさと木陰を譲ってくれた。家内は妻(俺)に寄り添って、やや高い石に座るという構図になる。
 一通りの挨拶が終わると、待っている者の一人が、
「あんたらは洪家村を通って賀村に向かうんですな。なら、旦那さん、気を付けなさいな。あそこの若旦那ってのが美男を放っておかないって話だから」
この話には冷や汗が出た。これって家内の男装がバレてしまったという事ではないか? 少なくとも、それを確かめるべくカマを掛けた発言の可能性がある。
 だが、次の瞬間、俺は気を取り直した。バレたかどうかの思索はあとの話だ。この程度でビビるようでは始めからこんな旅は考えない。早速、俺は
「あら、あたしには用がないのかしら」
と冗談口を叩く。夫婦のいる所で男だけが美男と持ち上げられて女が無視されたら、庶民の場合だと妻は黙っていない。俺の当然の反論に
「…いやあ、奥さんの用に、しっかりしてられたら…」
と相手は頭を掻いてきた。
「ははは、あたしだって分かってるわよ」
女を装うというのはこういう事だ。この2日で、俺は醜女ながらもしっかり者の内儀という立ち位置を心得ている。雰囲気が軽くなった所でようやく家内が引き継いだ。
「その若旦那ってのは男色か何かで?」
「いやあ、男色って言うより、村や郭の女に飽きたみたいでさあ」
 仕事がら、俺にも金持ちや大地主の顧客がいて、そこの若旦那たちの心理を多少は知っている。彼らは女に困らない立場だが、それゆえに女の面倒さにも辟易しているのだ。近寄って来る女は勿論の事、逃げた挙げ句に最後に靡く女ですら、情事の翌昼には打算という魔物が心に巣食い始める。そして、たった数回で、否、たった一度の関係で地位を要求し始めるのだ。子供でも出来た日には逃げる事が出来ない。事情は、悪の権化と言える洪家でも同じだろう。盗難事件を良い事にお手つき女中を郭に売ったというのも、逆を言えば長く家に置いていたら、男女の関係故に押さえきれなくなるからで、それに困った挙げ句の措置と言えなくもない。
 その点、稚児や少年なら、女と違ってあっさりしているし、やがては大人になって女役に飽きてしまう。第一子供を作らない。そういう理由で金持ちには男色や両刀使いが多い。おそらく洪の息子も同じだろう。だが、こういうのは確認が必要だ。
「奥方だって女の作るのは嫌がるでしょうね」
と女の視点で女関係を尋ねると、意外な返事が帰って来た。
「いやあ、正妻どころか正式な妾もいませんぜ」
「それじゃあ、本当に男色じゃあないの?」
「なんでも、大旦那が認めていないって話でさあ」
 詳しく話を聞くと、昔は陰で村の娘達と宜しくやっていたそうだけど、子供が出来ては遺産相続のトラブルの元になるとばかりに、親父の洪二郎が村の娘との交渉と禁止したそうだ。郭だけは後グサレが無いから別格で許されているとか。あと人妻との姦通もギリギリ大目に見られているらしい。今の時代、別に珍しい話ではないが、今聞いた話と合わせて考えると真相が見えて来た。新興の洪家にとって、遺産相続を巡っての分裂は包一族からの反撃を許すきっかけになりかねないので、なんとしても不用意な子供を作らせないといった処だろう。そう思って洪家の家族を思い起こすと、洪二郎は5人兄弟だが、残りの3人のうちに2人は病死で2人は不慮の死を遂げている。そして、その洪二郎には息子が1人しかいない。もっとも何処かで隠し子が出家しているとの噂はあるが、表立った息子は一人だけだ。村の女に片っ端から手を付けているから隠し子は多い筈だが、こういうのはあまりやり過ぎると却って子供が出来難いという話もあるから、意外に一人だけかも知れない。

 会話の方がかなり有意義だったが、俺たちの変装に関してはバレかけている不安がもたげて来た。会話の相手だけでなく他の連中にも気をつけたところ、家内を凝視していた中年男がいたからだ。他の者も家内を見てはいたが、それは単に美男と云うものを見る、という興味程度の視線だ。でも、この中年男の視線は違う。男色の視線でもない。家内もそれに気付いているらしく、目をしきりに反らしている。不安を煽るのに十分だ。実際、中年男の視線には笑みも含まれ、それは、高みの者の余裕の視線に近い。つまりバレた可能性が高いという事だ。幸か不幸か、俺たちが洪二郎の息子の話を聞かされている時に彼は順番で中に入って行ったが、さもなくば緊張で家内が参っていただろう。それに、視線の余裕具合からして、この中年男が他の者に言いふらす事はなさそうだ。だが敵地に近い街での油断は禁物、俺たちも用事を終えたら彼に接触しなければなるまい。
 やがて、さっきからの話し相手の順番が回って来て、残るは俺たちだけになったが、家内と話をする間もなく、代わりにさっきの中年男が出て来た。彼の服や持ち物から、彼の素性を素早く予想する。店を構えた商売人だろう。おそらく家具か何かだ。そう看て取った次の瞬間には、彼がさっきと同じ視線で俺たちを見ていた。気付いている事を示す為に、俺は最大限の微笑み…媚びの表情…を作って彼の目を見る。すると、向うは笑いながら軽く頭を横に振った。ここは俺が頑張らなければ、家内には荷が重い。
「失礼ですが、家具屋さんでしょうか」
「いやあ、つまらない小物屋ですよ、ほらあの通りを右にずっと行ったところの」
彼の挨拶は、まさに俺たちの秘密を守る気がある仄めかしている。と同時に、こっそり話をしたいとも告げている。そういう無言のメッセージが家内にも伝わったようで、それまで緊張していた表情が急に明るくなった。
「じゃあ、時間があったら伺わせて頂きます」
と家内が普通の男の挨拶をした。壁に耳あり、しかもまだバレたとは限らないから、あくまで家内は男役、俺は女役だ。
 顔役での挨拶は別に新しい事はないが、一つだけ、包家村が最近が洪家村とも呼ばれ始めている事を教えてくれた。なんでも洪家の連中は村の者には洪家村と呼ばせるように言いつけているそうで、単なる旅人であれば、洪家の前でも昔どおりの包家村と呼んでも咎められないが、それを洪家村と訂正された時に素直に従うのが無難だろうと事だ。洪家は着実に包家を滅ぼしつつある。
 顔役の所を辞した後は、さっきの小間物屋に向かった。塾の予定はまたも後回し。彼は見方なのか敵なのか、あるいは俺たちを利用しようとしているのか。ともかく行かねば何も分からない。最悪の場合、我々はここで引き返さなければならないかも知れない。


第7回:小間物屋の意図(妻視点)

  店の前に着くと、小間物屋はあたしたちを見るなり、
「まさか本当にいらっしゃるとは思いませんでしたよ」
と言って、直ぐに中に呼び入れてくれた。まだ変装がバレたと決まった訳ではないので、名目上の旅行の理由を交えつつ一通りの挨拶をして、言葉の穂つなぎに、さっき小間物屋が顔役の所に行った用事を尋ねると、意外な返事が帰って来た。
「いや、貴方達が気になっていたのです」
額面通りにとれば、顔役の所に行く前から監視されていた事になる。それだけでも不思議なのに、それをあっさりと白状するのはもっと不思議だ。
「どうしてです、お互いに全然知らない同士ですのに?」
その質問に小間物屋は直接答えず
「変装って大変ですよね?」
と爆弾を落として来た。
 あたしにはなんと答えて良いかわからない。主人もびっくりしたようだが、
「は?」
と間抜けな声を出して、ぎりぎり自然な対応をとってくれた。そうだそうだ、脈絡の無い質問には大抵の人が間抜けな声をだす。でも、あたしの態度はどうだったか。もしも相手が不審に思っていたら、それを確信させるに十分な気はする。カマを掛けられたと気付いたのが遅過ぎたのだ。案の定、小間物屋はにこやかな顔になって、こう切り出した
「実は私の知り合いが一昨日の夜に来たのですが、その日、男女変装して旅している2人組を見かけたって言ってましてね……」
2日前と言えば、みちゃいられない、って言って、あっという間に通り過ぎて行った旅人に違いない。あたしは観念した。
「……仔細がありそうだから力になりたいけど、先を急ぐので何も出来なかった、って気にしていたんですよ」
ここは判断の難しいところ。こちらから正直に言うか。主人の方をみると、
「うーん、あたし達はそういう2人組に合わなかったけど?」
とまたもしらを切ってきた。それで良いのか分からないけど、とにかく主人に又も返事して貰って、自分の度胸の無さに少し反省する。
「女だけでの旅は危ないから、男装するのは分かるんですよ……」
女だけ? と云う事は主人の女装はバレていない? あたしの方は完全にバレているみたいだけど。
「……でも、バレた時が危なくありません?」
 女だけの旅はタブーだから、必ず男の同伴がつく。その代わりに変装で行くのは危険な行為だ。そして、相手はあたし達を、そういう2人組と勘違いしているようだ。
「そりゃもう、危ないと思いますよ。それで小間物屋さんはどのようにお助けになられようと?」
すこし気楽になって、返事がスムーズに出せる。
「そりゃ、仔細を聞かなければ助けようも……ねえ、そろそろ芝居は止めませんか?」
ついに来たか。あたしが観念すると、主人はあたしに向かって
「もういいだろう?」
と言って来た。まだ作り声だ。相手の意図が分からない以上、すべてをさらけ出す必要は無い。あたしは
「小間物屋さんの醒眼には敵いません」
と頭を下げた。主人も黙って頭を下げている。
「それにしても、あなた方、度胸ありますなあ」
「そうでしょうか」
「確かに、包家村を女だけで通るのが危ないから、ってのは分かりますよ。それでも、もしも包家村でバレたら却って不味いじゃないですか。それを敢えてやるってんだからねえ」
「行かなければ身内が危ないのです」
「そうでしょう、そうでしょう、そのくらいの理由は想像出来ます。だからこそ、そういう貴女がたが、みすみす洪二郎の毒牙にかかるのを見ていられないのですよ」
この話を聞いて、あたしは素朴な疑問を感じた。本当にそれだけの理由で、わざわざあたし達に会いに行くだろうか? そう思っていたら、主人が
「それだけでは御在いませんでしょう? 私たちを待っていたんじゃありません?」
と反問した。
「さすが、わざわざここまで足を運んでいただける方だけあって、よくお分かりだ。実は、この街に入った時に尋問を受けたでしょう?」
 小間物屋はその尋問の様子を聞きたがった。なんでも、例の盗難が捏造されたものであるという噂があって、その真偽が尋問の様子から分かるのではないかと考えらしかった。捏造の話は昨晩も聞かされている。その意味で、この小間物屋が嘘を言っているとは思えなかった。そうなると疑問は一つだ。
「なにかご関係でもおありで?」
「なあに、容疑者の包庸鞘っのが子供の事に時々遊びに来てたんで気になったんですよ」
あの似顔絵は、やっぱり庸ちゃんだったのか。あたしはため息をついた。それを目敏く見つけた小間物屋は
「あらら、貴女までため息をついて。もしかして関係ある人じゃないんですか?」
と鋭く突いてきた。主人が横から助け舟を出した。
「いや、試験勉強をしているって噂で聞いたんですよ。いちおう筆屋ですから」
「ああ、それなら貴女が残念がるのも当然ですな。それにしても、お二方とも筆屋に勤めていらっしゃるのですか?」
この問いに、今度は主人が凄い解答をした。
「いや、こいつは家内です」
それも男の声で。

 後から主人に聞くと、顔役の所での様子とか考えて、葉芯洋こと包庸鞘の味方であるに違いないと判断したそうだ。そして、この街が、素性のバレて良い最後の場所である事も勘案して一種の掛けに出たらしい。やっぱり主人は頼りになる男だ。どんなに女装しても、どんなに女っぽい仕草をしても、大切な判断で男らしさをにじみ出している。女のあたしには出来ない。
 主人の判断は正しかった。主人の女装とその理由…包家村に出入り出来ない…を告げると、小間物屋もあっさりと利害を話してくれた。洪一家と利害が合わず、できれば包家の復興…彼らの方が遥かに付き合い易いし利益を生む…を望んでいるという。あたしたちが庸ちゃん…表向きは葉芯洋…に出会った事を告げると、是非とも出来るだけ早くあの街から脱出させるようにと、小間物屋はあたしたちに頼んで来た。この分だと、小間物屋は確かに味方だ。敵地で味方を得ると、それが小さな店であっても有り難い。
 それからあたしたちの変装の話に移り、実は2日前の友人が見たのは男の女装らしかった事、にもかかわらず、実際にあたし達を見て、女装というのは聞き間違えで女の男装に違いないと思った事、そんな話を聞いた。主人の女ぶりはあたしでも感心する。わざと醜くすべく墨を顔に塗っているのに、良い女に見えて来るのだ。いずれにしても、前もって言われなければ大抵の人間を誤摩化せるとの事で、それで、あたしたちなら、庸ちゃんを変装させて連れ出せるだろうとまで言って来た。
 これで話が繋がって来た。もしも小間物屋が庸ちゃんの脱出を第一に考えていたなら、変装して危険な旅に赴いた女2人連れ…彼は街の入り口で見た時にそう思い込んでいた…というのは、庸ちゃんを託すに値する旅人だ。接近して来るのも当然だろう。小間物屋の目的が分かって安心したあたしたちが、本来の目的……あたしの実家訪問……を告げると、相手は
「何か問題があったら、山を北麓から緑河に真っすぐに向かうと、貝の漁師がいるので彼らを頼りなさい」
と忠告してくれた。あそこには人目につき難い入り江があって、あたしが子供の頃はよく遊んだものだ。でも、その頃の入り江に漁師なんていなかった。主人に言わせると、闇商人かも知れないとの事だ。ちょっと危ない。小間物屋の素性を含めて…。

 小間物屋から出た足でそのまま塾に寄ると、洪二郎の息子に関する新しい情報を得た。塾の先生が
「途中で包家村を通りますな。そういえば、あそこ、嫁取りをどうする積もりなんでしょうなあ」
嫁取りの話は小間物屋からも聞いている。取り持ち屋(仲人婆)連中には大金を払うという約束はあるらしいが、取り持ち屋がどんなに頑張ってもだれも嫁を出そうとしないそうだ。
 どんなにあくどい野郎でも、金があるのなら嫁の来てがありそうなものだが、小間物屋にしてみれば、あんな奴の所に花嫁を出する馬鹿はいないとの事だ。なんでも、以前、嫁入りした女、結婚してみたら妾(女中程度の地位しかない)の取り扱いで、しかも夜の相手も洪二郎の息子でなく洪二郎だったそうだ。もともとはお嬢さん育ちだったので、女中の仕事に根を上げて、とうとう病気になって死んでしまったらしい。
 塾を出て宿に帰る。明日はいよいよ故郷だ。


第8回:洪二郎親子(主人視点)

 いよいよ村に入る。当初の予想よりも遥かに厳しい状態での潜入だ。
 昨日あちこちから入手した話では、洪の息子は男色の経験の豊富な両刀使いらしい。だから複数の人が、家内へちょっかいを出す事を心配してくれた。しかし、それ以上に、女装が見破られる心配がある。というのも、男色の掘られ役には、女装してサービスする者が少なくないからだ。この手のプレイは男色の本家である蘇州では普通に見られる。それは朝廷が変わる毎に周辺の州に広がり、明の朝廷になって久しい今では、全国の小さな町にも広がっている。だから、街にも時々来るらしい洪の息子は、女装の男を見慣れていると思って間違いない。両刀使いとくれば、女と女装男の違いも見分けられている筈だ。こう考えると、小間物屋こそ俺たちの変装を褒めてくれたが、俺は自分の女装に自信がなくなってしまう。
 気を引き締めて村境まで来ると、ごろつき共が少し離れたあずまやにたむろして旅人を品定めしていた。俺たちが無視する用に進むと
「おい、そこの商人!」
と呼び止めた。ここは愛想だ。
「あら、あ兄ちゃん達、筆を買ってくださるの?」
と商人らしく答える。
「馬鹿いえ、それを言うなら通行料だろうが……」
山賊とごろつきの違いは、通る毎に通行料を払うか、一回限りのお目見え料で済むかの違いだろう。この地方の村で通行料を言われた事はないが、洪二郎配下のごろつきだから、通行料というのは有り得ないでもない。
「……おまえら初めて見る顔だな」
 こいつら、本気でお目見え料を取るのか? いや、それならそれで、払ってしまえば後の監視が緩くなるから却って有り難い。一応、想定内の事態なので、家内は
「どちら様に差し上げればよろしいのでしょうか」
と冷静に対応した。
「まずは、洪の旦那の所だ」
 ごろつきがたかるのはわかる。でも、いかな悪人とはいえ、村の名主が通行料をたかるのは有り得ない。もしかすると、俺たちを商売の為にここに来た者と鼻から思っているのではないか? こういう時は、確認の為に
「あたくしどもはただの通りすがりで、商売のつもりは全くございませんが」
と一応言っておくものだ。だが、相手は
「つべこべ言うな」
と一喝した。どうにも不自然だ。もしかして、俺達の正体が何処かでバレた? 昨日の小間物屋がグルだった? 不安は段々に募るが、ここは乗切らなければならない。家内に急いで耳打ちする。
 家内は、近づいて来たリーダーらしき男に
「いえいえ、ここの御大尽にお目にかかれるとは思ってもおりませんでしたので」
と言いながら銅銭を少し握らせた。困った時の銅銭、これは商売人の生活の常識だ。相手は表情を緩めて
「よく分かってんじゃねえか、ついてこい」
と言いつつ先導した。いよいよ敵地の本丸だ。
 銅銭の効き目か、ごろつきは歩きながら
「いや、用事は俺も良くは知らねえんだよ、とにかく筆屋を見かけたら連れて来いって言われただけで」
と言い訳をしてきた。下っ端とはそんなものだが、筆屋と指定されたところが妙に不安をかき立てる。でも、もはや逃げられない。我々の素性は何処までバレているのか? 昨日の小間物屋がグルだったら万事休すだ。いや、こう言う時は最悪事態を考えてはいけない。

 洪家の屋敷は昔の包家の屋敷をそのまま使っているが、前に来た時…8年も前の事だ…に比べると4つ新しい棟があった。そのうち2つは物置で、1つは用心棒というかごろつき連中の泊まる部屋らしく、賭場特有の雰囲気が出ている。そして、母屋の向こう側には離れが一つ新しく出来ていた。この事からだけでも、この8年でどれだけ肥え太ったかが伺い知れる。
 一歩一歩、母屋の入り口に近づく。表向きは単なる村の通過だから、普通の街の顔役の所で挨拶するのと同じよう土間に座って土下座するという卑屈な態度は取れない。あくまでも不自然さのない旅人の態度…商売をしない旅人の態度…でないといけないのだ。身分上は嘆願者でなく客という身分なのだから。椅子が出されたらそこに座るぐらいで丁度良いのだが、家内にその度胸があるかどうか。震え気味の家内の手をしっかり握り、口元で
「堂々とするんだ」
と力づけた。
 玄関で
「ここで待ってろ」
と云われ、立ったまま待っていると、洪二郎本人が出て来た。我々は拱手(左手で右手を包む)して挨拶し、単なる旅の者である事を言った上で、挨拶変わりに筆を一本差し出すと
「ああ、やっぱり筆屋さんでしたか……」
と軽い返事が帰って来た。柔らかい物腰だが、油断は禁物だ。言葉遣いが甘い時ほど罠がある。
「……昨日、そういう方が街の方まで来られて、今日、ここを通ると聞いていましたので」
やはり我々を待っていたらしい。問題は、どこまで。 俺は8年前までは時々この村に来て、ついには立ち入り禁止となったぐらいだから、顔を知られていて当然だ。家内だってこの村の出身だ。知っている者がみたら、いかに男女入れ替わりの変装でもバレておかしくない。最悪の事態が頭によぎる。
 だが、ここが踏ん張りどころ、冷静な対処で乗切らなければならない。硬直気味の家内に代わって
「主人に何か御用でございます?」
一呼吸の間。心臓が打っているのが分かる。相手はこう切り出して来た。
「いや、筆屋さんなら、学問の出来る方々を御存知ではないかと思いましてな」
はっ? 奇妙な展開だ。もしかして葉芯洋(包庸鞘)の事を聞き出そうとしている? この一帯で、科挙の一次試験(県試)に合格した者の名前は、試験を受けた街の掲示板に記されているから、その中から怪しい名前を捜した可能性はある。だが、包庸鞘の住んでいる街は、ここから歩いて1日以上の距離だ。そういう所の試験情報を3年毎に気にしているとはとても思えない。
「はあ」
と生返事する家内をしっかり見定めた後に、相手は
「まあ、ここではなんですから、応接間の方へどうぞ」
と奥に招き入れた。別の危険の可能性が頭によぎる。家内を見る目に、男の誘いみたいなものを感じたからだ。もしかすると、家内を籠絡して男色の相手にしようと考えている? 昨日の目明かし連中から注進が行っているなら、容貌の情報も入っているに決まっている。顔役の屋敷前での警告が頭に甦る。
「旅の途中ですので」
と家内が順当に断ると、相手は
「まあ、お茶ぐらいは良いでしょう。ここから賀村までならさほど距離もないし、道中が心配なら私の下僕に送らせますから」
と巧みに誘って来た。さすがに太鼓持ちの息子だけあって、誘い方に隙がない。家内と俺とでしきりに辞退したものの、
「立っているのもなんでしょうから、とにかく座るだけでも」
と言われて渋々応接室に入った。相手が俺たちの素性を知った上での招き入れであれば、俺たちの未来はない。しかし、ここまで来た以上、虎穴に入るしか選択は無かった。

 応接室は前に一度だけ入った事がある。掛け軸を見ると、あの当時よりは随分とマシな書き手のようで、置物の壷なんかも年代ものに代わったが、それでも配置とかに成金の印象は拭えない。硯なんかは置いていないから、筆屋として何か言わなければならないような事柄は無く、
「ああ、なかなか良い書ですね、どなたのです」
の一言でも言っておけば社交辞令として十分だ。この程度なら家内でもわきまえている。
 主客席が決まった所で、本題を切り出すかと思ったら、
「奥さん、美人ですなあ」
といきなりブラフを咬ませて来た。この黒い顔を見て美人と云われるとは思いもよらなかった。という事は、俺たちの変装を見抜いているぞ、という意味だろうか?
 一瞬、ぎくっとしたが、ここで焦ってはボロをだす。美人に見られるかも知れない危険は、変装1日目に家内の忠告してくれているではないか。それをここで指摘されただけのことだ。辛うじて、
「いやですわー、何を突拍子の無いことを仰るんです」
といいつつ、笑いに近い媚びの表情を見せた。
「いやいや、本気ですよ。目鼻立ちがしっかりしてられるじゃないですか。白粉を高級なのに代えてご覧なさい、西施(日本で言う小野小町)でも振り返りますよ」
ここに至って、この男が本当にスケコマシである事を悟った。ここまで来るとあっぱれだ。俺も男だから、この徹底ぶりには拍手を送らざるを得ないが、今は事情が違う。敵なのだ。
「そんな事を仰って、聞きましたよ、街の噂」
「ほう、どんな噂ですかな」
と相手はにやにやしている。こう開き直られると、悪い噂もカモフラージュしなければならない。
「洪の旦那は口説き文句だけは天下一品って」
「こいつは手厳しい。でも口説くだけじゃあないですよ」
見事な挑み方だ。横では家内が汗をかいている。
「ほら、主人が青くなっているじゃないですか」
「悪い悪い、いや本当に奥さん、良い白粉をつかったら、御主人がもっと喜びますよ、ねえ」
と洪二郎は家内に話を振ってきた。一呼吸置いて、ようやく家内が返事した。
「なんなら、そちらの嫁さんと取り替えましょうか?」
呼吸を整えただけあって合格点の答えだ。こういう時に下手に真面目な答えをしては、男として怪しまれる。
「いや、わたしはそういう積もりで言ったんじゃあなくて、奥さんを褒めただけですよ」
と頭を掻いている。さすがに太鼓持ちの息子は如才がない。敵と分かっていても場が和んでしまう。

 笑いが終わったところで本題に入った。なんでも息子の嫁を捜しているので心当たりはないかとの話だった。彼に言わせると、近隣の村に釣り合う家柄の女がおらず、また近くの街…昨日の泊まり…にも美人で気だての良い女がいないので、広く遠い村や街を含めて捜しているそうだ。そう前置きしながら、筆屋の出入りしている所なら、身元はしっかりしているから、そういう方々から嫁を迎えたら良いのではないか、と昨日思ったそうだ。話はきちんとしている。人間だれでも財産の次には地位や名声が欲しくなる。だから金持ちは科挙に合格しそうな家と姻戚関係を持ちたがるのだ。案の定、ちゃんとした学問の家なら貧乏でも構わないとの事だった。相手が貧乏だったら、それだけ援助と云う形で恩が売れるからだ。
 話が俺達の素性に向かわなかったのが有り難いが、新たな不安がもたげて来た。話の流れからして、洪二郎の息子に引き合わされるに決まっているからだ。彼こそは、俺たちの変装を見抜くかも知れない一番の危険人物だ。案の定、話の最後に出て来た息子は、家内と俺の顔をしっかり値踏みして来た。そして薄笑いをしながら
「なかなか素晴らしいご夫婦ですなあ」
と言いつつ、しっかり俺の目を見て来た。
 恐ろしい男だ。もしかしたら見抜かれたかも知れない。そんな不安を無視するかのように、この男は
「宜しく御願いします」
と拱手して、洪二郎の後ろの立っている。家内は絞り出すように
「心に留めておきましょう」
と言って息子に向かって拱手し、
「それでは、先もありますので、失礼させていただきます」
と洪二郎に別れを告げた。ここは逃げるのが吉。洪二郎とて引き止める理由はない。幸い、息子は何も行って来ない。ただにやにやしているだけだ。
 洪二郎親子は我々玄関まで見送り、その上で一両を家内に掴ませてきた。旅の途中に引き止めて願い事をするのだから当然だ。そして、俺に白粉の壷を渡して来た。さすがスケコマシ、女の気を引く事にかけては天下一品だ。俺たちの変装は、少なくとも洪二郎にはバレていないようだ。だが、その安心も一瞬だった。出がけに息子が俺の家内の耳元で
「仲間に入れて欲しいなあ、帰りに待っているから」
と囁いて来たのだ。彼の風評を街で知っていると踏んだ上での誘いかけ。それは、俺の変装を見破っていると宣言したの同じ。俺は引きつった顔を隠すのがやっとだ。


第9回:親との再会(妻視点)

 虎口を脱して、さっきのごろつきと一緒に屋敷を出た。このまま真っすぐに街道に戻る代わりに、ごろつきの先導するままに、あたし達は別の道に向かった。
 このあたりの水運を担う緑河は、包村から見ると小さな岡の反対側を流れている。だから田畑の水は支流の小川から得ていて、この小川は街道のすぐこちら側で蛇行し、5kmほど下流で緑河に合流している。その先が賀村だ。一方、南北に連なる岡は北側に低くなって、その緩い麓の一角に名主の屋敷がある。だから、名主の屋敷だけは緑河から直接乗り入れられるようになっていて、その為の船着き場すらある。長らく続いた名主の家だけに、土地の要所に立てられているのだ。岡の南側は里山に繋がり、この1つ目と2つ目のピークの間の鞍部が隣村との境界に当たる。一方、岡の東側は、緑河が年々浸食しているらしく、大抵すとんと緑河に落ちている。残る西麓が村の拠点で、村民の家が点々を建り、村道も麓沿いに走っている。あたしの実家も村道沿いにあるから。ここを歩けば実家の前を通る事ができる。
 今は収穫が終わった時期だから、街道から見える田畑には人影は少なく、村民の殆どは岡や里山の雑木林に木の実などを山の幸を取りに行っている家で作業をしているかのどちらかだ。恐らく兄夫婦は雑木林、母と甥姪は家だろう。岡沿いの村道を辿って実家の前を通れば、家族の誰かに出会えるかも知れない。幸い、その終わりが街道に繋がっているから、名主の家から賀村に向かうには近道だ。そこで、案内役のごろつきに新たに銅銭を握らせて、この『近道』を行くようにお願いした。もっとも、ごろつきは銅銭を握らせた後も少し渋い顔をしていた。だから、名主の仲人…村を知る必要がある…という立場を強調して、なんとか村道を通る事になった。
 次の問題は、どうやってごろつきを追い返すか。街道と違い村道は枝道が多いのだ。街道に向かう枝道も多いが、村境までの近道となると一本だけ。ごろつきの仕事が道案内である以上…それは出がけで洪二郎がはっきり命令していた…ごろつきは最後の分岐までは案内する事になる。だからこそ奴は渋い顔をしたのだ。その分岐は、実家から1キロほど南…20分ぐらいの距離で、そこからこっそり引き返すというのは、ちょっと難しい。
 駄目もとで
「このまま真っすぐ行けば街道に出るんですよね?」
と話しかけると
「この先、ちょっと分かり難いところがあるんでねえ」
「そんな、そこまでして貰っちゃ悪いですよ」
「なあに、いいってこったあ。洪の旦那に言いつかっていますんでね」
さっきと違って口調は丁寧だが、有無を言わせない雰囲気がある。もしかすると、余所者に村の実態を見せるなという指令が今も続いているのかもしれない。とすれば、さっきの渋い顔にはそういう意味もある筈だ。さっきこそ妥協でこの道を辿ったが、それ以上の妥協は有り得まい。というのも、彼の監視が外れるや、村の者が我々に話しかける可能性があるからだ。名主の跡取りの仲人になるかも知れない者に村の疲弊を見せる訳にはいくまい。
 村は確かに疲弊している。昔住んでいた者から見ると一目瞭然だ。建物こそ10年そこらでで急に古くなる事はないが、回りの雑木や土手は違う。何処の家も庭は雑草は荒れ放題で、その回りとなると何処から蛇や虫が出て来てもおかしくないぐらいに茨が生えている。村道だって、昔よりは雨水の浸食で凸凹が増え、崩れかかっているところもちらほらある。きちんと整備されているのは名主の家の近くだけだ。もっとも、この程度の村なら他にも沢山あるから、初めての旅行者にこの村の真相はわかるまい。さっき村境で呼び止められた時に、初めてかと尋ねられたのはそういう裏がありそうだ。

 先導のごろつきに気付かれないように心の中でため息をつきながらくねくねと30分ほど歩くと、ようやく実家の屋根が見えて来た。不安と懐かしさがこみ上げて来る。先導のごろつきを追い返す口実が無いのを悔しく思いながらも、実家の様子を伺いながらゆっくりと近づいて行くと、一つのアイデアが浮かんだ。主人に耳打ちする余裕は無い。
 前を歩く主人の左肩を持ち上げるように軽く突き飛ばした。主人ならあたしの意図が分かってくれる筈だ。案の定、主人は
「きゃっ」
と色っぽく言って転んだ。一瞬、あたしですら主人が女に見えた。そのくらいの演技だ。その主人は泥は被っておらず、かわりに枯れ草と雑草の実にまみれている。あたしは素早く主人の手をとって引き上げ、肩を貸した。あれ? ほんとうに捻挫したのか?
 先導のごろつきは、厄介が増えて面倒だとばかりに渋い顔をしている。ここは押しの一手だ。
「近くに休めるところはありませんか?」
「しゃあねえなあ…ちょっくらそこの家に行ってみるから、ちょっと待っとけ」
ごろつきが実家の入り口に向かっている合間に、主人が囁いて来た。
「親なら確実にお前だと見破るから、絶対に否定しろよ。でないと奴にバレるから」
この手の状況での心掛けは、村に入る前に何度も注意されている。何度も同じ事を言われるとうんざりするものだ。そんなにあたしが信用ならないのか?
「わかってるわよ」
そう、うんざりする口調で答えた。この時の主人の困った顔が忘れられない。
 一体、最後の瞬間こそ気を引き締めなければならないというのに、この時のあたしは、実家を前に冷静さを失っていたらしい。いや、それともあたしが女だから、はじめから冷静さを期待するのは無理だったのかも? いずれにしてもあとの祭りだ。水と薬を持って出て来た母が、驚いた顔をしてあたしを見た時、あたしの頭は真っ白になった。その次の瞬間、母があたしの名前を呼んだ時、あたしは呆然と立ち尽くすのみだった。それほどに母は老けっていた。まだ45歳の筈なのに。
 もしも主人が肩にすがる振りであたしを押さえてくれなかったら駆け出していただろう。もしも主人が、肩に掛けた手の指先をあたしの喉に当てなかったら、返事をしていただろう。そこまでして貰っても、主人の心配は本物になった。

 駆け寄って来る母とあたしを見比べたごろつきは、
「おめえ、ここの息子…いや、娘だな!」
と一瞬で看破した。母を見て我を失ったあたしは、男の振りをする事もまた忘れてしまったのだ。あたしは馬鹿だ。女は馬鹿だ。女の自信なんて空虚だ。ここまで支えて来てくれた主人に申し訳ない。
 ごろつきは母を捕まえて横に投げ倒し、そのまま真っすぐあたしの方にやってきた。あたしは逃げようとするが主人の腕がまだ肩にかかっている。主人が肩から手を離した時には、ごろつきは直ぐ近くまで来ていた。奴は武器の棍棒を取り出しつつ、にやりと笑い
「女の二人旅ってなあ、おいしいもんだぜ」
といいつつあたしの腕を掴みにかかった。足を引きずっている主人より、あたしを先に屈服させようという目論みらしい。一回目の掴みはなんとか振り切ったけど、掴まるのは数秒の問題だ。
 観念しかかった時に、突然ガーンという音がして、ごろつきの動きが一瞬止まった。

 見ると主人が歩行杖でごろつきの背中を突いていた。女だったら有り得ない攻撃。そう、ごろつきが女だと思った隙をついた攻撃だった。次の瞬間、主人はごろつきに飛びかかり、もう片手で持った石でごろつきの掌を殴って、獲物の棍棒を奪っていた。あたしも無我夢中でごろつきの片腕に飛びかかり、3人揃って倒れ込んだところで、主人が奪った棍棒…ギザギザがついている…でごろつきの背中を殴って、ようやく主人よりも体の大きいごろつきに根を上げさせた。幸い誰も見てない。
 問題はこれから。いくらごろつきとは言え、殺しては夢見が悪い。とはいえ、このまま押さえつけるのは、ごろつきに回復の時間を与え、あたし達の体力を消耗させるだけだ。
「お母さん来て」
と助けを頼む。
 この時までには、いったん地面に倒れた母も立ち上がり、あたし達の様子をおっかなびっくり見ていたが、あたしの声に恐る恐る近づいて来た。そこで主人が男の声で
「お義母さん、荷物から縄を」
と言うと、味方に男のいる事にようやく安心したのか、駆け寄って来て手早く縄を出し、ごろつきの手を縛り、さるぐつわを嵌めた。
 ごろつきを家の中まで引きずると、あたし達は途方に暮れながらも出発の準備を始めた。ごろつきが持ち場に戻らなかったら、不審に思ってあたしたちの行方を捜すだろう。そうなってから逃げ出しては遅過ぎる。その一方で、ごろつきに危害を加えた以上、あたしだけでなく家族そろって報復を受けるのは目に見えている。家族揃って至急逃げなければならないのだ。だが、あたしたち2人はともかく、母や兄一家は村境の監視で捕まってしまう。よしんば逃げられたとしても、逃げ先の目当てがない。あたしの家族が村から逃げた場合、まず一番に疑われるのがあたし達の店だからだ。一人ぐらい逃げた場合なら、わざわざ捜しに行く手間を考えて大目に見られるが、一家揃ってとなると話は違う。洪二郎の手先は真っ先に主人の店に来るだろう。
 あたし達はジレンマに陥った。あたし達が逃げると云う事は、あたしが家族を殺すようなものだ。だからといって家族全員で逃げたた主人や子供達まで巻き込んでしまう。
 この旅に出る前、主人はあたし達の帰る場所が無くなる事を心配していた。そして、何度もあたしに
「他人の目のあるところで親に会うな」
と言っていた。それを守れず、とっさの思いつきで会おうとしたあたしは馬鹿だ。


第10回:村からの脱出(主人視点)

 女装がこんな形で役立つとは思いもよらなかった。相手を油断させるのに確かに有効だ。だが、困った状況に陥った事には変わらない。俺達がこのまま逃げ出すと、ごろつきの口から俺達の身元がバレるからだ。それは将来に禍根を残しかねない。家内はさっきから家族がどうのこうの言っているが、そんなことは無関係。問題はごろつきの口だ。それだけ。
 口封じの為にごろつきを殺す事だけは有り得ない。というのも、奴は俺達に危害を加えた訳ではないからだ。それで殺すのは今の世では死罪に当たる。いや、そんな法律以前に殺しそのものが出来ない。人はどんな理由であれ、一旦殺しをすると情が変わってしまうからだ。そうして、正当防衛の殺しから護身の殺しへ、護身の殺しから保身の殺しへと、坂道を転げ落ちるように悪魔になってしまう。旅先の街でそういう話を何度も聞いた。そうなると、ごろつきを仲間のところに返さない方法を考えなければならない。
 ごろつきの見張りを家内の甥…10歳ぐらいだろうか…に任せて、俺は頭の切り替えと周囲の警戒の為に家の回りを一周した。幸い誰かに偵察されている様子はない。家の裏手に回り、そこから里山がそびえているの見て、はっ、と思い出した。昨日の小間物屋の言葉だ。
「危急の時に山の北を回って緑河に出れば、そこの貝採りの漁師が助けてくれるだろう」
そこにごろつきも連れて行けばよい!
 話を聞いた時は、これは闇商売連中に違いないから危険過ぎると思ったが、今はそういう危険を犯してもお釣りが来る。俺達はここを無事に脱出できるし、ごろつきが洪家に連絡する心配も防げる。よもや洪家の連中は俺達…連中から見ればなよなよした女男2人…がごろつきを捕まえたとは思うまい。寧ろ、ごろつきが俺達をどうにかしたと、ごろつきの方を疑うだろう。ごろつきの処置にしても、闇商売の連中が適当に使うだろう。奴がどう扱われようと、用心棒とはそういうリスクを負った仕事だから、俺達が心を痛める事は何もない。
 家の中に戻って、早速考えを話した。家内は
「じゃあ、あたしの家族はどうなるの?」
と馬鹿な事を言っている。女は普段は細かいところまで良く気がつくし冷静な時は度胸もあるが、一旦感情が崩れるとマトモな判断が全く出来ない。今日だって、思いつきで強引に親に会おうとするし、今度は連れ出そうとすらする。この手の欲望はキリがない。さっきの立ち回りで勝てたのは純粋な幸運だ。そういう教訓すら感情が崩れた時は頭に入っていない。
「こいつの件で疑われる理由が無い以上、連れて行かない」
とごろつきを指しながら答えると
「でも、このままでは家の一家はいずれ……」
と泣き出した。感情的になった女ほど手に負えない者は無い。確かに義母から聞いた話や甥の栄養不足ぶりは噂以上の酷さで、過労の義兄の労咳も初耳だが、だからと言って、今直ぐに俺達の手に負えない事を考えては共倒れになる。救出をするとしたら次回のミッションだ。今日ではない。
「おまえ、俺達の子供を殺す気か!」
そう言って、俺は平手打ちを食わせた。
 呆然とした家内に義母が諭した。自分たちはどうでもいいから早く逃げろという。母親なら誰でもそう言うだろう。家内もようやく落ち着きを取り戻した様で、余分な荷造りはやめて、持って来た余分な衣類や塩や銅銭を置き、水汲みを始めた。塩を置いて行く専売塩が高価だからだ。農家は殆ど現金を持たない。なけなしの金を塩代の使うのは勿体ないのだ。
 俺はと言うと着替えをしている。着ていた女物の服をごろつきの上からかぶせ、代わりに男物…ごろつきの服に近い色…を着て、奴の獲物の棍棒を腰にとりつけた。旅だから袴は無い。こういう変装をすれば、遠目にはごろつきが女を引き立てている様に見える筈だ。この先は人目を避けて雑木林の中の踏み分け路を歩くから、遠くからは顔や着付けは分からない。そんな時の遠目での判断材料は着物の色と持ち物のみ。加えて猿ぐつわをしているから、遠目なら、ごろつきの顔は見知った人間でも分からるまい。贅沢を言えばごろつきと服を替えたいが、既に後ろ手に縛ってあるごろつきを着替えさせるのは無理だ。

 10分後には家を出た。まだ紅葉には早い雑木林を歩く。先頭は家内の甥。家内も入り江の場所は知っているが、10年のブランクで山路がどう変わったかは詳しくない。その点、現役の子供なら確実だ。他人が通らない裏道の最新情報も子供なら知っている。その甥によれば、貝採り舟は人買いと繋がっているという噂が村に流れているらしい。村の中とは言え、緑河のような大きな川だけは村とは別の連中が取りしきるのが普通だ。村の領域は岡の端までで、川べりからは川の者の縄張りとなる。川の者というのは普通は漁師や運送屋だが、この一帯では闇商売の連中の力が強いから、漁師もこの連中の許可なく漁場を選ぶ事が出来ない。その意味では、貝採り舟は闇商売の連中に繋がっている。闇商売は必ずしも人買いという訳ではないが、危険な事には変わりない。
 そういう噂のため、入り江が事実上の村境であるにもかかわらず、洪二郎たちはこの村境を放置している。他の村境の違って、ここから村民が逃亡する筈がないと踏んでいるのだ。実際、今までにここを通って逃げた者は、ことごとく奴隷になった噂されている。そういう意味では、今回の入江行きも一種の賭けと云って良い。あの小間物屋の言った事が罠だったら俺達は一生奴隷だ。それでも現在の最善の手はこれだろうと思う。
 悪路を小一時間も歩くと件の場所に近づいた。木々の間から入り江が見え始める。幸いここまで誰にも会わない。入り江は蛇行の名残りらしく、月形に伸びて緑河に続いている。確かに貝の取れそうなところだ。更に行くと舟が2艘見えて来た。入り江の底を浚っているように見える。入り江の向こう側には小さな掘建て小屋もあり、人が監視している。俺達は木陰に隠れていはいるが、既に動きも見られているかも知れない。

 入り江と岡の間は落差5メートルほどの崖になってはいるものの、降りるルートが無い訳でもない。そのあたりは甥が詳しく、下草に隠れた下りルートは直ぐに見つかった。念のために甥には崖の上で隠れているように指示して、俺達3人だけで細道を一人ずつ降りて行く。川べりに降り立った次の瞬間、目の前に3人の男が出て来て、先の尖った櫂で俺達全員を威嚇しながら
「なんだか穏やかじゃねえ様子だな」
と聞いて来た。
 俺が小間物屋の話をすると、そんな話はまだ聞いていないという。昨日の今日では仕方ない。そこでさっきの立ち回りを言って、そのついでにごろつきを捕まえた話をすると、連中は縄の空縛りを警戒しつつもごろつきに近づき、縄を確認した。緊張がやや緩んだところで、相手は更にごろつきの顔と入れ墨を確認して、ようやく
「ちげえねえ、こいつは洪二郎の犬だ」
と相好を崩した。
 どうやら信用されたようだ。俺達が連れて来たごろつきが良い手みやげになった事だけは確かだ。
「よう、兄弟、おめえの事は聞いている。まあ、とにかく舟に乗れや」
家内は不安そうな顔をしている。そもそも、小間物屋が味方かどうかは分からないし、味方だとしても彼の話が目の前の連中に伝わっていない以上、俺達の事を聞いていると云われてもすんなりとは信用出来ない。『おめえの事を聞いている』は闇世界では単なる挨拶言葉だからだ。
 安全策を取るなら、ここで連中と分かれて本街道から村境を出べきだろう。だが、その場合は男達に不審に思われかねない。そもそも連中が俺達をここで降り押さえようとしたら、この場から逃げる事なぞ出来ないのだ。男は度胸、相手の口調から危害を加えないと判断した。
「わたくしどもは、しがない筆屋ですよ。お近づきになれただけで光栄です」
にやりを笑って、あたかも俺が普通の筆屋でないかのようなそぶりをする。
「ははは、おめえ、気に入ったぜ」
そういう相手の声に乗せられて、俺は家内と共に舟に向かった。

 舟には更に1人いて、相手はあわせて4人。1艘あたり2人ずつだ。その1艘にごろつきを乗せ、もう1艘に俺達夫婦が乗る。
 舟が岸を離れようとする間際に、甥が舟の見えるところに顔を出した。
「叔父さーん」
という言葉に舟の4人の緊張が解けると共に、俺に
「甥は連れて行かなくてよいのか?」
と尋ねて来た。この村から家内の家族を救出したいと思っている事は昨日の小間物屋が知っているが、その小間物屋からの連絡は無い筈だ。相手の意図が掴めない。だが、それでも、村民がこの村から逃げ出したがっている事は知っている筈だ。だからこそ人買いの噂もある……人買いが目的? ここは安全策だ。正直に事情を云えば良い。
 俺は、ここで甥が村からいなくなると却って怪しまれる、と説明した。舟の男は
「おめえ、確かに男だわ」
と俺の肩をたたきつつ、崖下に戻って甥と名乗りを交わした。もちろん今後の打ち合わせの為だ。
 甥は崖の上の安全な所にいるから、捕まえるのは容易ではない。その意味では有利な場所を確保している。そのお陰か、甥はここで帰って、何も言わない事、もしも何か聞かれたら、ごろつきの男に脅されて、こことは別の場所まで連れて行かれたと話す事、などが決まった。漁師連中は、甥が捕まって囮になる危険を考えて、甥にも一緒に来るように声を掛けてはいるが、そっちの交渉は不調のようだ。打ち合わせが終わって、舟はいよいよ岸を離れた。

 舟に乗ったは良いが、以前として連中の素性は分からない。闇商売と繋がっているらしいと云うのは、あくまでも俺の予想だ。こう言う時は、出来るだけカマをかけつつ大風呂敷を広げるのが良い。
「お頭にはいつお会い出来るんで」
と尋ねると、相手はそれに答えず、にやりと笑って
「今だから云うけどよ、おめえが家族を連れて来たら売り飛ばすつもりだったんだぜ」
と言って来た。こっちの大風呂敷を見抜いていやがる。
 これを聞いて家内がびっくりした顔をしているが、ここで動揺を見せては不利になるから虚勢を張る。
「俺を売ったら損するぜ」
あながち嘘ではない。こっちは読み書きが出来るのだ。文盲ばかりのこの国ではそれだけで武器だ。しかも、変装してまでも敵地に潜入するような夫婦だ。いくら闇商売連中でも、敵には回したくないだろう。
「ちげえねえ……」
と相手は頭を掻き、そしてこう続けた。
「……今から頭の所だ」
予想通り。とはいえ不安が膨れる。このまま闇商売の組織に組み込まれていまうのか? 家内の家を出た時に覚悟はしていたが、それが現実になろうとしている。


第11回:闇商人の企み(主人視点)

 相手の頭には25人乗りぐらいの屋形舟で出会った。漕ぎ手が8人、その2交代式の舟だ。帆もあって風があるときはそれを使う。頭はこの一帯15キロほどの水域を締めているらしく、その上流、下流には別の頭がいる。頭の横で補佐している者が3人。川の仕切る者と闇塩の商売を仕切る者、街への連絡を仕切る者らしい。役所よりもよほど合理的で無駄の無い組織だ。さすが商売人と云えよう。
 さっきの舟のリーダーと思しき男が頭に耳打ちすると、始めは難しそうな顔をしていた頭がだんだん明るい顔に変わり、話が終わるや、俺達に向き直して
「こんなむさ苦しいところへようこそ、まあ、頭を上げてそこに座りなされ」
と挨拶してきた。どうやら、とりあえず酷い目には逢わないらしい。早めに荷物を渡して、勝手に調べてくれと云ったのも効いたのかも知れない。簡単な挨拶の後、まず、例のごろつきの尋問が始まった。手下が猿ぐつわを外すと、頭の横に3人の補佐役のうちの1人が、洪二郎の仲間の情報を聞いた。ごろつきも観念したと見えて無駄な抵抗はしない。ただ、さほど新しい情報は無かったと見えて、奴は直ぐに外に連れ出されていった。取りあえず漕ぎ手に回されるようだ。
 ごろつきの処置が終わったところで、頭はあたし達に村の様子と、洪二郎に出会った時の様子を聞いて来た。花嫁探しを頼まれた件を聞くと、相好を崩して、
「それはおもしれえ」
と笑い、更に横の3人に
「これはチャンスかも知れんぜ」
と話を振った。あれ、この連中は小間物屋から話を聞いていないのだろうか? 
「小間物屋さんから話は聞いていませんか」
「あそこの嫁取りの話は有名だけどよ、とうとう余所者の旅人に頼んだ所がおかしいじゃねえか」
確かにそうだ。そこで、洪家訪問の時の様子をより詳しく説明すると、頭はうんうんと頷いた後に、補佐の3人と隠語で相談を始めた。なにやら、洪二郎をからかう案が浮かんだのかも知れない。実際、旅人の俺達に嫁の世話を頼むと云う事は、他の旅人にも頼んでおかしくない。そこに、この連中が付け入る隙がある。

 連中の相談は直ぐに終わり、再び俺達に向き直って頼み事をして来た。頼み事と言っても、今の状況では命令に近い。
 1つ目は葉芯洋こと包庸鞘をあの街から連れ出す事だ。なんとなく予想していたが、詳しい事情を聞くと、なんと頭達と包庸鞘とは今は直接の関係は全く無く、あの街の顔役とも協力関係が無いとの事で驚いた。なんでも、包庸鞘が包家の生き残りで一番優秀だという噂は聞いているので、ここで包庸鞘に恩を売って損は無いと判断したらしい。確かに、ここで恩を売れば、もしも彼が包家村の名主に復活すれば、あの村一帯での商売がし易くなるだろう。しかも、包庸鞘に恩を売れば、同時にあの顔役に恩を売る事にもなる。いわゆる先行投資だ。
 頭が包家にこだわるのには訳がある。それは陸揚げの基地の確保だ。緑河から街道に直接荷揚げ出来る場所はさほど多くなく、特に闇商売だと船着き場が限られる。その一つが包家村の名主の屋敷横の船着き場だ。昔の名主の包家は見て見ぬ振りをしてきたが、今の洪家は無謀な上納金を要求するので、行き来が途絶えているという。そういう事情から、闇商売連中は包家の再興にこだわるようになったらしい。別に包家でなくとも、洪家に代わる家なら何処でも良いが、民心を得るには落ち目の名家を再興するのが一番だ。

 2つ目の頼まれ事は、俺達の街での協力者になって貰いたいとの事だ。これも予想された事だ。なので答えは決まっている。
「わたくしどもは堅気の商人にございます。下手に手伝うとお上に目をつけられて、その時に臨機応変の態度を取る自信がございません」
 闇商売の連中が一番恐れるのは、度胸の無い末端が、役人の拷問で仲間の名前を漏らす事だ。だから、そういう拷問の耐えられない事を予め云えば、たとい協力者といっても危険な役割は回って来ない筈だ。だが頭は、こういう答えを予想していたらしく、単に情報を流すだけで良いと言って来た。彼らにしてみれば、直接の金銭関係が無い方が有り難いらしい。俺達が金銭的に無関係なら、将来官憲に組織の何処かが捕まった時でも俺達は無事な筈だ。その時に街の情報を俺達から貰えれば、これ以上ありがたいバックアップはない。危急の時に一番欲しいのが情報なのだ。言わば堅気のスパイ。それを彼らは求めているらしい。だから、俺達には寧ろ徹底的に堅気であって欲しいとすら言って来た。聞けば、かの小間物屋も同様の立場らしい。
 この提案は悪くはない。というのも俺達にも闇商売連中の情報が少しだけ入って来るからだ。そして、旅の際に他の闇商売連中にちょっかいを出されても、ここの頭の名前を出せば開放してもらえるという。
 ここまでの話は納得出来るものだ。包庸鞘の救出で、今回のあたしたちの救出の恩を一部返し、その後は情報交換のみの緩い関係を持つ。こうして人は何処かの組織に組み込まれ、次第に泥沼にはまるのだな、とは思いつつも異存はない。そもそも闇塩が流行るのは、朝廷が生活必需品で暴利を貪って現金を持たない農民を苦しめているからだ。その農民を闇商売が助けている面があるから、闇塩の連中は何時までも勢力を維持しているのであり、俺達のような堅気の心情的なサポートがある。単なる悪者ではない。

 問題は3つ目だった。それは上流を仕切っている頭からの依頼で、上流20キロほどの所にある録西街に行って、酉関家の一人息子……生員になって塾を開いている……に会って贈り物をして欲しいとの内容だった。
 俺達は首をひねった。贈り物の理由も分からなければ、なぜ俺達が選ばれるのかも分からない。そう尋ねたら、頭が贈り物……賄賂……をしたいのは山々だけど、その酉関家というのは警備が厳しく、屋敷に入れて貰えるのは、俺達のように堅気の商人……少なくともそう言う雰囲気の者……だけだからだと云う。なんでも、むかし頭と酉関家の当主の間にいざこざがあって、それ以来、屋敷には近づけないらしい。その点、本物の筆屋なら、生員である息子を表敬訪問するのにうってつけではある。賄賂をする理由は、その酉関家が、最近、金の力で録西街の警察長官の地位を買い、それ以来あの一帯での商売がやりにくくなって来たからだそうだ。
 闇商も要は商売人だから、恨みより商売を優先しておかしくない。そして、その怨恨がどうしても片付かない場合、子供を通して和解を目指すのはあり得る話だ。話はそう聞こえるが、穿った見方からすると、敗北直前の最後のあがきのようにも聞こえる。それに乗るのはどうにも得策ではない。そこで、他の度胸のある人でないと難しいと断ると
「なあに、今回は贈り物だけですから危険はありませんよ……」
と重ねて頼んで来た。こう丁寧に出られると断りづらい。
「……それに、もちろん変装して行って貰いますからバレる事もないでしょう。小間物屋の話では見事だったそうですな」
 危険が無いと主張する理由が見えて来た。俺達は今までと同じ変装してその街に行き、今までと同じように塾に挨拶する。その時の土産を多めにする。それだけだ。確かに今までと比べれば危険の全然無いミッションだ。でも疑問は残る。これでは頭からの賄賂とは分からないのでは?
「なあに、二回目からは名刺と土産だけでいいし、相手の気が緩んで来た所で、頭が一席設ければ、相手も顔見せぐらいはしてくれるでしょう?」
どんな仇敵でも、顔を突き合わせて侘び入れる事が出来れば和解の道がある。だから問題はそう言う場を如何にして作るかだ。だが、顔を突き合わせる場を作るまでが難しい。仇敵だけに復讐やだまし討ちを恐れているからだ。そして、そういう場を作る第三者役という意味では堅気の俺達が確かに理想的だ。理由は分かった。危険も少ない。そこまで悪い話では無さそうだ。こういう嫌な仕事をしてこそ、さっき助けて貰った事への返礼になる。
 俺達は承諾した。

 でも、俺達は知らなかった。これが、より大きな陰謀に繋がってしまう事を。


(作者より−通貨についての注釈)
 『復讐の花嫁』の中で銀一両(37g)とか銅銭とか出て来ますが、ちょっと気になったので調べてみました。
 この時代は銀本位制度が確立していった時期で、15世紀(設定時代の150年前)には銅銭が禁止された時期すらあります。もっとも、民間では銅銭が通用していています。で、その価値ですが、銀本位制という事は銅の暴落を意味していて、明代初期の銀1銭(3.7g)=銅約100文(3.7g x 100)から明代末期の銀1銭(3.7g)=銅約1000文(3.7g x 1000)にまで変動しています。となると、旅行のように荷物を減らす必要がある場合は銀の小銭を持つ事のほうが多かったかも知れません。
 さて、銀の1銭(0.1両)というのはかなりの高額なので、ヤクザとかに掴ませるときの表現を敢えて銅銭と書いてしまいましたが、このあたりは曖昧に小銭と書いた方が良かったかも知れません。掴ませる金額としては銀0.1銭前後が無難ではないかとは思います。


第12回:緑河の録西街(妻視点)

 頭に会ったその夜は小さな小屋に泊められた。その時分にはあたしも主人も歓迎の酒で酔っぱらって寝ていたので、場所は全く分からない。おそらく隠れ家の一つだろう。大河と小川の音から、緑河に流れ込む小川の横である事だけは分かる。
 そこまで多く飲まなかった筈なのに……ほんの2〜3杯だ……主人と揃って寝てしまったのは、酒に睡眠薬でも入っていたのではないかと思う。でも、その割に朝まで何もされなかったし、相手も同じ酒を飲んでいたから、単に酔っただけかも知れない。なんせ自家製の酒だ。慣れない酒は酔い易い。そう思って主人に
「酔ったわねえ、あの酒」
というと
「いや、眠らされたんだろうなあ。これは仕方ないよ」
と返って来た。主人に云わせると、まだ素性のはっきりしないあたし達を完全に信用している筈が無いのだから、こういう隠れ家に連れて来る時は、場所が分からないようにするのが当然なのだそうだ。確かに彼らはあたし達の素性の裏付けをとった訳ではない。あたしたちが小間物屋に話した情報しか知らないのだ。だから、あたし達が官憲の回し者である可能性を多少は疑っているだろう。
 眠らされたとは云え、久方ぶりにぐっすり眠れて気分が良い。考えてみれば、変装を気にせずに寝るのは4日ぶりだ。そのせいか、危険と云われる闇商の隠れ家にいる割には、緊張が全然無い。主人と二度寝の楽しみを貪りかけていると、朝の4時頃に補佐役の一人が手下2人を連れてやってきた。街への連絡係を担当している奴だ。彼に先導されるままに小舟…昨日とは違う奴…に乗ると
「申し訳ないが、しばらく目隠しをさせて貰って良いかな」
と言って来た。なるほど、主人の云う通りだ。まだ鶏すら鳴かない時刻なのに、きっちり目隠しをするのは、なんと慎重な事だろう。これだから官憲に対抗出来るのだな、と納得する。

 こうして隠れ家を出て1時間余り船旅を続けた。その間に、例の補佐役が
「目隠しのままで聞かせて申し訳ないが…」
と前置きして、今日の予定を話し始めた。まず上流を仕切る組に目通しした後、そのままの足で録西街……酉関家の親父が仕切り始めた街……に向かって欲しいとの事で、その後に包庸鞘の住む街に行くべく落ち合いたいとの事だった。詳しい事は上流の連中が話すらしい。
 包庸鞘の脱出旅には10日近くかかる。一方、賀村に行って2〜3泊して戻って来るのと同じぐらいの旅程で包庸鞘の住む街につかないと怪しまれる。となれば、2〜3日で済んでしまう酉関家への訪問を間に入れるのは自然な流れだ。そのくらいの日数で包庸鞘の身が急に危険になるとは思えない。
 目隠しを外されたのは、ようやく空が白みかかった頃で、森の中の緑河はまだまだ暗い。弧を描くように流れる川の河原側の澱みから岸につき、上流からの船を待つ。もちろん人家は無い。待つついでに朝食と着替えをした。理由は、男女入れ替わりの変装の姿を知っておきたいと云うのが一つ、このあと着替える余裕が無いだろうというのが一つ、そして、その変装を上流の連中が直ぐに見分ける事が出来るか試すのが一つだ。上流の連中は、あたしたちがそのままの姿で会うか、変装した姿で会うかは知らないそうだ。船の中は狭いから、至近距離で相手を見る事になる。しかも日の出前とは云え、外の明かりだ。確かに変装のレベルを試すには相応しい。

 まだ暗い中を半分手探りで着替え主人の化粧をしていると、上流から平舟がやって来た。今朝乗って来た船と同じくらいの大きさで、上流を仕切る頭の補佐役が乗っている。着くとさっそく小舟からの荷物を積み替え始めた。おそらく闇製品だろう。積み込みを終え、あたしたちが乗り込むや船は直ぐに出発した。さっきの小舟も一緒について来ている。上流の補佐役が
「このたびは、仲直りの仲立ちをして頂くそうで、お礼申し上げます」
と挨拶して来たので、あたしも、しっかり腹に力をいれて
「こちらこそ、一介のしがない筆屋に光栄あまる役目を頂いて有難うございます」
と答える。昨晩ぐっすり寝たお陰で、今までで一番良い声を出せた。
 補佐役は、彼らの頭や組織については語らず、酉関家の親父について、その経歴を丁寧に語った。元々は小さな薬屋だった事、隣家が誤認逮捕で苦労している隙に、その妻を偽証文で脅して家財を奪い取った事、それを機に急速に商売を広げて大金持ちになった事、隣家の誤認逮捕が実は酉関家の親父の罠らしいという噂、最近、宦官に贈り物を貢いで録西街の警察長官の職についた事、そういう話だ(注:金瓶梅の主人公・西門慶を参考にしています)。この話がどのくらい信憑性があるか分からないが、話にあるようなえげつない商人はどの街にもいるし、語り手は裏社会を知り尽くした者だから、信じるなというのが無理だ。この時、あたしは確かに酉関家に悪い印象を持った。
 話は更に続き、闇商としては酉関家の親父の所行はどうでもよく、ただ良い関係が築く事が目的である事、にもかかわらず今は関係が悪いので困っていると改めて聞かされた。幸い、酉関家の親父の性格なら贈り物さえきちんとすればどうにかなる筈だという。だから手始めの贈り物を持って行く役をお願い出来る人を捜していたと、補佐役は結んだ。あたし達はうってつけだそうだ。それは確かにそうだ。
 こういう儀礼的な話が終わった所で、今後の打ち合わせに移った。録西街を越えて上流の街に今夜は一泊し、そこから歩いて録西街に向って、街で一泊するうちに銀2両と筆を墨石を届けてもらおうという話だ。わざわざ上流に回りのは、北から来た筆屋と思わせる為で、それはあたし達の白猿堂の設定にも合っているし、帰りが録西街の近くの船着き場から直ぐに船に乗れるから、次のミッションに移りやすいとの事だった。もうひとつ彼らは口にしなかったけれど、あたし達のような夫婦を乗せていると官憲の取り締まりが甘くなる面がある。この船の先ほど積み込まれた荷物がもしも専売品の闇製品だったら、あたし達が乗船しているうちに、できるだけ上流まで運びたい筈だ。

 届ける予定の筆と墨石を見せてもらうと、あたしにも分かるぐらいに良いもので、主人に確認するまでもなく
「これなら、喜んでもらえるでしょう」
と答えた。その答えに満足したのか、最後に今日の具体的な行動の話に移った。なんでも、船着き場の5kmほど手前に森に囲まれた川が流れ込んでいるから、そこで服を替えて変装する事になっているそうだ。これから変装しろと云っている所をみるとあたし達は騙せたのだろうか? そう思った次の瞬間に隣の小舟から声がかかった。
「おい、相棒、気付かんかい?」
「なんだ、相棒?」
「その二人、既に着替えているぜ」
下流の補佐役がそう言うや、目の前の男はあたし達をじろじろ見て
「えろう美男子やからもしかとは思ったけど、こっちがどう見ても女しか見えないんで分からんかった」
と大笑いした。
 変装が上手いと云うだけでなく美男子と言われてなんとなく嬉しいが、その次の瞬間、改めて主人を見てちょっと複雑な気分になった。下化粧の白粉が反射しているのだろうか、黒い筈の顔が朝の薄明かりの中で照らされて美しく、加えて座り方や手の置き方までが上手くて主人が色っぽく見えるのだ。この3日の努力の結晶に違いないが、男色の盛んな国の妻としては手放しに喜べない。
「じゃあ、この2人で大丈夫だな?」
あたしの物思いを遮るように小舟の男が話しかけると
「ああ、これなら上々だ」
と目の前の男が笑顔で答え、それを聞いて小舟の男は
「なら、俺たちゃ帰るから」
と言いつつ下流に戻って行った。

 普通の船着き場は税関があるので闇商は使わない。船を降りたのは、小舟以外はとても寄れない田舎だった。人が降りる分にはそれで十分だ。闇商人から今回のミッション用に銀を3両と小粒を少し貰い、再び2人だけの旅となった。今日の旅程は短く、2時間ほどの距離だ。だから、街に着く前の最後というか初めての休憩で、いつものように衣装や化粧のチェックをする。昨日までの旅と違って、変装がバレたら最後という緊張もなく、ややのびのびとした気分で主人の服と化粧を見ているうちに、主人を墨でわざわざ醜くする必要がない事に気がついた。醜女を演じさせたのは、洪二郎の部下が『美人』に対するちょっかいを出すかも知れないと危惧からだ・・・息子の方にはバレてしまったけれど。今回のミッションではそんな心配はない筈だ。ただただ贈り物をするだけ。将来の家族の救出の事を考えると、闇商人の手みやげは大きい程良い。相手はお役人とその息子の秀才様(生員)だから、社会的地位も自尊心も高い。となれば、面会者の顔は奇麗な方が良いに決まっている。それが地位のある者だ。どんな手管でその地位を得たとしても役人は役人であり、どんなに中身がなくても秀才様は秀才様だ。
 主人も同じ事を考えていたようで、白粉で化粧する事にした。出来上がりは悪くない。変装初日も十人並みの容姿と思ったが、女の仕草を覚えた今の主人だと、妙に魅力的な女に見える。美人でないが、男好きのしそうな。あたしが少し嫉妬したくなるぐらいの姿だが、その化粧を施したのがあたしだから少々鼻が高い。ここまで上手く化けると、折角だからベールもしたくなる。上中流階級の女の人が男目を避ける為につける、あのベールだ。あたしたち庶民には関係ないけど、変装を極めようとすればベールは試してみるべきだろう。
 化粧をする傍ら、主人はさっきの補佐役の話を鵜呑みにするなとあたしに注意してくれた。商売の邪魔をする相手を貶めて言うのは当たり前だから、片方の言い分だけで先入見を持ってはいけないと言う。酉関家の所行をよくよく吟味すれば、隣家の財産を手に入れた事だけはえげつないものの、他は常識の範囲だ。役人になるのに賄賂無しと云うのは有り得ないし、小さな店が、如才ない一代で商売を広げて豪商になるもの不思議は無い。隣家の財産の件にしても、本当は悪い奴で裁判で尻尾を出さなかっただけなのかも知れず、もしもそうだとしたら、酉関の親父こそが不正を憎む熱血漢であるかも知れないのだ。結局の所、街を探って、酉関家の噂を色々な人から集めないと判断は出来ない。言われてみれば確かに主人の通りだ。私は、酉関家の親父が洪二郎にも増してえげつない奴という印象を持ってしまったけど、それは思い込みに過ぎないのかもしれない。こういう事をきっちり判断してくれる主人は、どんなに女装が色っぽくても頼りになる。

 そんな話をしながらも、その日は予定通りに手前の宿街についた。あたし達に心理的な余裕があるせいか、おのずと態度も自然なものとなって、他人の目も気にならなくなる。そして変装で騙せている自信がますますつく。宿に荷物を置くと、さっそく顔役の所に挨拶に出掛けた。
 緑河の西側は将来の商売予定すらない処女地なので、顔役に会いに行く必要は全く無いが、録西街の情報収集と、変装の確認・・・明日本番の為の予行演習・・・にはちょうど良い。それに筆の処分もある。闇商人から余分に筆を貰ったものの、それらは下手すると盗品かも知れない。でも、闇商人の顔を立てる為には、筆を捨てる訳にはいかないのだ。だから献上品として手放すのが吉。金さえ取らなければ、もしも盗品だった時でも、盗品と知らなかったという言い訳が立つ。この国では冤罪にならないように十二分の注意が必要だ。
 田舎の宿街はよほど暇と見えて、顔役はあたし達を見るなり、美男美女と讃えて、理由も無いのに応接間に招いた。いや、理由は知っている、男と云うのは自分のモノでなくても、美男美女の顔を見たがるのだ。あたしの男装は今では美男子だとはっきり自覚しているし、主人の女装も今日だけは白粉のお陰で色っぽく、それをベールで薄く隠す事でますます秘密の美しさを醸し出している。呼び止めて当然だ。でも、あたし達はもちろん固辞した。ここで神経をすり減らしては明日に障る。4日前にやったように、主人が旅の疲れによる差し込みを演じて、あたし達は早々に宿に帰った。
 顔役の歓待は疲れたが、それでも顔役の所に行って良かった。というのも、闇商人の話の裏が取れたからだ。善悪に関するニュアンスは違うが、事実としては闇商人の話の通りで、隣人を罠にはめて財産を横どったらしい。ただ、その隣人が放蕩者だったらしく誰も同情していないという。そのせいか、顔役にとってはどうでも良い事らしく、興味ないという態度がありありとしていた。彼にとっては所詮は隣町の事であって、酉関家との関係が前の顔役より悪くならなければそれで十分なのだろう。こういう事なかれ主義こそが街を守る一番の手段だから、あたしたちはとやかく言えない。

 その日はさっさと休んで、翌日いよいよ録西街に向かった。山路ながらも10km余りの短い行程だから昼前には街に着く。街は川の落合のすぐ上流側にあり、緑河の大きな支流がここから西に流れ出している。大きな落合の割に街は小さく、あたし達の住む街とあまり変わらない。軍隊すら駐屯していないから、その意味では闇商売にとっては都合の良い落合だ。
 到着が早かったのを良い事に、さっそく酉関家の親父の所に向かった。一番の顔役という訳ではないが、顔役の一人には違いなく、今回の目的を考えれば顔を出すべき場所だろう。なんせあたし達は闇商とは全く無関係の堅気の筆屋なのだ。恐れるものは何も無い。もっとも、ターゲットはあくまで息子だ。酉関家の親父に直接贈り物ができれば、それはそれで一応の成果だが、酉関家の親父にとって1両2両の贈り物は挨拶に過ぎない。だが、息子にとっては同じ1両2両が高い重みを持つ。しかもあたし達は筆屋だ。誰が見ても、警察署長よりは生員・・・将来、国家試験に通るかも知れない者・・・にへつらう方が、先物買いという意味で自然だ。だからこそ、緑河の闇商たちは、俺達に息子との接触を頼んで来たのだ。
 酉関家の親父は役人勤めではあるが、小さな街なので昼食時には家に戻る。案の定、在宅だった。名刺を門番に出して、同時に銀1両も渡し、駄賃として門番にも一分銀(0.01両=銅銭100文弱)を奮発すると、門番は奥に取り次ぎに行った。門番の話によると、役人になって以来、この時刻の訪問者は名刺を受け取るだけだとの事なので、それで先に金を渡した上で、更に門番にも鼻薬をかがせたのだ。
 門番への鼻薬が効いたのか、酉関家の執事が出て来てあたし達に会ってくれた。筆屋だけれど、今回は単なる旅人だと答えて面をあげると、執事は微笑んで
「あなた方なら主人もお会いするかも知れませんなあ」
と微笑み、中に入って行った。どうやら主人の化粧が功を奏したようだ。
 暫くすると酉関家の親父が出て来た。色男に部類に入る顔に、適度に肉の着いた体からは精力がみなぎっている。その2枚目男は、あたしの顔を一通り見た上で、更に主人の体をなめ回すように凝視した。その行動からだけでも、この男の性癖がわかる。だが、主人は女の魅力を出す仕草に精一杯で、相手の目つきの危険さに気付いていない。不味い。男という動物は一つの事しか専念出来ないのだ。だから、薄いベールを被っているにもかかわらず、無防備な、むしろ誘っているような態度になってしまっている。
 そんなあたしの不安を無視するかのように会話は表面上は穏やかに進んで行く。ここはあたしがしっかりしなくっちゃ。
「この街にも筆屋あるって知ってるかな?」
酉関家の親父の柔らかい言葉に
「これから伺おうと思っていた所ですが、どちらにお住まいでしょうか」
昨日までの泊まりでも大抵の街に筆屋はあった。でも協力関係を築く場合ならいざしらず、単なる通りすがり、あるいは宣伝という敵対行為をする以上、筆屋に会うべきかどうかは顔役の判断に任せる。それが主人のやり方だ。その顔役は、にこやかな顔で
「いや、通りすがりなら別に会わなくてもよろしいでしょう。それより、うちの息子がしがない塾をやっているから、そこに寄ると良い」
と告げ、更に出がけには主人に髪留めのリボンまで贈って来た。やっぱりだ。筆屋とかで情報収集をしていない事を確認した上で、自分の縄張り内に呼び寄せる。まさに、隙あらば連れの女と一夜を共にしようという魂胆が丸見えだ。そしてその隙を主人は確かに作っている。

 主人の様な雰囲気を持つ女だと、その3割までが、この手の誘いに乗って旅先の浮気をする。そうして金を顔役から貰って夫婦の旅費に充てるのだ。旅費稼ぎの意味があるから夫も合意の上だ。ちゃんとした顔役なら始めから誘いもしないが、皆がそういう豪傑ではない。酉関の親父みたいなスケベ野郎だって時にはいるのだ。この分だと、十中八九、あとから誘いの手紙が来るだろう。あたしを食事に招待して、その間、女は女どおしのもてなし(男女が同じ宴席に出る事はない)と称して妻女を奥に招き入れ、寝台を共にする為だ。街に住む者と違って旅の女は手を付けやすい。
 顔役の所を辞去した後、息子の開く塾に向かう道すがら、あたしは主人に注意した。むやみに女の仕草に専念するなと。一昨日までと違って、今はやや魅力的な女を演じているのだから、むしろ男からの誘いを断る手段が必要なのだ。今の主人は世の中の酸いも辛いも分からないおぼこ娘と同じで、現実の女の防備の態度というのが全然出来ていない。男に細かい芸を要求するのは確かに酷だが、それでも酉関の息子の所に着くまでに、教えられるだけは教えておかないといけない。女は美しさだけでない。守り強さも女の必需品なのだ。それは女装でも同じ。


第13回:酉関珀の塾(主人視点)

 酉関の息子は名前を珀と言い、二十歳前後という若さにもかかわらず塾を開いている。生活に困っていないのだから、塾のような遊びはやめて科挙の為の受験勉強に専念させるのが普通の親だろうが、酉関家は違うらしい。まず、そこに胡散臭いものを感じる。もちろん金に困った貧乏人が生活の為に塾を開いて、その合間に受験勉強するのはよくある話だが、彼の親父は大金持ちなのだ。一番考えられるのは酉関珀が金の力で生員(学生)相当の資格を得た可能性だ。もしも彼の成績が科挙に到底覚束ないものであれば、せめて塾の先生として街の中で名声を維持し、更に将来見込みのある若者の師になっておこうと胸算用する事は十分にあり得る。生員には生員の為の服があり、生員以外の者がその恰好をしてはいけない事にはなっているが、恰好だけは金でどうにでもなる。そして、多少風流な事でも言えれば、お互いの会話から生員かどうかは区別がつかない。そもそも世の中には自称生員すら少なからず居て、それを生員どおしで見抜くのは難しい。
 酉関珀の塾城は門からそう遠くない所にあり、彼の親父の家からゆっくり歩いて30分たらずの距離だ。その道すがら女の守りについて家内に散々注意されたが、俺はそんなに器用ではない。せいぜい酉関珀と目を合わせないぐらいしか手だてが浮かばないが、それは失礼な行為だから、今回の目的においては禁物だ。まあ、いざとなったら家内が助けてくれるだろう。
 塾にはさすがに門番はいないが、それでも取り次ぎに使用人が出て来た。普通は塾生か当人が出て来るものだが、金持ちのボンボンはさすがに塾も豪勢だ。俺達が父親に勧められて来た事を告げると、酉関珀本人が出て来た。父親の整った顔に、恐らくは母親の遺伝か、とても優しそうな雰囲気が加わった小柄な青年で、少なくとも悪人風情ではない。母性本能をくすぐる美男子とでも言うのか、家内なぞは目の保養になったとばかり嬉しそうにしている。
 やや安心したところで、家内がさっそく例の高級筆と墨石を捧げ持って、いつもの口上を述べた。筆は上物。しかも墨石付き。たとい、目利きが出来ない人間であっても、これだけの手みやげを貰えば、ここで引き止めない事は有り得ない。案の定、俺達の辞退・・・二度辞退するのが作法だ・・・にもかかわらず、応接間に通されてお茶が出された。
 応接間の飾り物は硯も書も茶器も全て高級品で、それも単なる成金趣味ではない。だが、感心したのはここまでで、飾り物どおしのバランスが悪いし、硯は使われた形跡が殆ど無い。要するにそういう事だ。今まで行った塾の中では中の下といったところか。問題はそれだけではない。酉関珀の態度がいかにも小人だったからだ。飾り物の由来とか有り難さをねちねちと説明して、しかも、そういう当たり前の事が分からない人間が多くて困ると、更にねちねち続けるのだ。表面上は嘆きのように聞こえるが、その根底には高級品を持っている事への自慢がある。それでいて、由来に出て来る人物の正確な事績は全然知らない。例えば
「この硯は蘇東坡先生(北宋の詩人)の一番弟子が愛用したものです。見てください、この美しさ。先生の詩が有名になったのも弟子がこの硯を使って美しく書いたからなんですよ。でも、そういう偉い人をこの街の誰も知らない」
こんな具合だ。
 蘇東坡先生が書の大家であった事は余りにも有名だから、彼に書の上手い弟子がいたとしてもおかしくはないが、そんな弟子なんて誰も知るまいし、そもそも、蘇東坡先生の詩を書の大家である蘇東坡先生自身が書かない事が有り得ないのだ。それを弟子のお陰とするなんて、蘇東坡先生は極楽で大笑いしていらっしゃるだろう。それに、この硯は確かに逸品だが、600年も昔のものとは思えない。おそらく古道具屋に掴まされたのだろう。
 相手の知識の無さとか虚栄心は、今まであった塾の中で最悪だった。話の細かさも辟易するほどで、50両の買い物で100文負ける負けないという自慢話まで出て来るのには心底辟易した。しかも、それを非常にもって回った言い方でしてくるのだ。声だって、上品ぶっているのか、細くてはっきりしない。女の腐ったような奴とはこういう野郎の為にある言葉だろう。延々と続く空虚な自慢話と嘆きに対し、それでも俺達は使命達成のため話を合わせた。そればかりか、相手を有頂天にさせるべく、筆屋にしか分からない細かい良さを家内ともども指摘するサービス付きだ。かくて相手はますます調子に乗り、全ての話が終わる頃には、いつしか3時間程の時間が経っていた。途中10分程、使いが来た時に彼が中座しただけ・・・その時に俺達は厠を済ませた・・・で、あとは殆ど彼の独演会だった。

 いよいよ聞き役の使命がおわって辞去しようとすると、酉関珀は
「ところで御夕食の予定は?」
と尋ねて来た。おそらく、酉関の親父から招待状が届いているのだろう。ここは家内のアドバイスを守るべきだから。
「旅で疲れておりますので宿で休みたいと思います」
と答えると、
「それならば、今、ここで食べて行かれたら如何でしょう? 駕篭でお送りしますよ」
予想外の返事だ。もしかしたら酉関の親父がここに乗り込むのか? 或いは駕篭で何処かに連れて行くのか? こういう時の女としての断り方が分からない。そう悩んでいると、家内が
「堅苦しいところは家内が苦手なので」
と断ってくれた。そうだそうだ、俺が家内連れで出掛ける時に、誘いを断る口実のその2がこれだ。その1はもちろん体調。
 だが相手は簡単には離してくれなかった。
「私と3人だけですけど、どうでしょう?」
「ご家族は?」
「まだ独り者です。だから食膳が寂しいのです。とはいえ、他の連中と食べても面白くありませんし・・・この街は僕たちのような高尚な話の出来る通じる人が少ないですから」
なるほど、この性格なら近づく友人や太鼓持ちはおるまい。俺達のように話を聞く客が来たとなったら、引き止めたいのは分かる。それなら夕食ぐらいは付き合った方が心証が良くなるだろう。ちょっとリスクはあるが、その好印象を闇商人の手みやげにするのは悪くない。
 俺は夕食を一緒に食べる方に傾いたが、家内は更に慎重だ。
「あれだけ立派なお父様がおられれば、話の分かる食客だって居るのではありませんか」
と父親の話に引っ張って行く。
「いやあ、父にも取り巻きにも学なんてないですよ。いつも女と宴会の話ばかり。実は今日だってね、つい今しがた父から使いが来て、貴方達を夕食に招待したいって言ってるんですよ。奥さんが美人だから、それを眺めて酒を飲もうって魂胆なんです・・・」
ここまで聞いて俺は家内と顔を見合わせた。
「・・・こうして僕が夕食に呼ぶのも、貴方がたを父の魔の手から守る為ですよ」
「そ、それはどうも心遣いを有難うございます」
俺はうわずった声を出した。
「だから感謝して下さいね。僕って君子でしょう」
またこれだ。

 食事は決して粗末では無かったが、来客をもてなすには量が全然足りない。これぐらいなら、宿の近くの大衆食堂で食べた方が余程良い。だが、酉関珀は料理の材料が如何に『本物』であるかを長々と説明した。たかが野菜に本物も偽物もあったものじゃない。旬の季節の新鮮な野菜がおいしいに決まっている。魚だって新鮮さが勝負だ。遠くの街から持って来なくても地元の豚で十分な筈だ。もちろんお茶とか乾物とか日持ちのするものは名産地というのがあるが、そういうのは酉関珀に言わせれば本物じゃないらしい。
 そういう話を、例によってもって回った言い方で、はっきりしない声で延々と聞かされた。途中、詩経だの論語だのの句に強引にこじつける話があったりして、思わず吹き出したくなるが、相手が真面目な顔なので、我慢して神妙な顔を維持し続けた。結局の所、単に旅行した時に美味しかった街の材料が酉関珀にとっての本物だという事だけが分かった。今でもそういう街から材料を取り寄せているらしい。もっとも、その街で食べた材料が、その街で出来たものか確認していないようで、野菜はともかく、お茶とかは福建のものに違いない。こりゃ、女の腐ったような奴よりも更に酷い。腐れ儒者だ。
 食事の量が少なかったので俺も家内も奇麗に平らげたが、酉関珀は話す方で忙しいのか皿が少し残っている。或いは小食なのか。生員や塾講師には一日中室内に籠っている者が多いから不思議ではない。現に酉関珀は体が細いし色も白い。優しそうな顔つきと合わさって、少女と見紛うような美少年という弥勒信仰を思い出させるような姿だ。もっとも、その中身は腐れ儒者だが。
 そうこうしているうちに、酉関珀は自分の話に酔ったのか、手許を滑らせて食器の一つを床に落とした。俺の側に転がって来たので、俺が急いで椅子から立ち上がって拾おうとすると、酉関珀も同時に立ち上がり、
「女の人に拾わせる訳にはいきませんよ」
と俺の手首を握って押さえて来た。一体、どんな理由があれ、女の人の手を握る事は許されない行為だ。俺の女装を見破って、それで俺の事を単に男と思って手を掴んだ可能性はゼロではないが・・・酉関の親父からの使いが来ている程だ・・・だからといって、ここで女の自然な態度を取らない法はない。家内に教えられた通りに、俺は驚いた振りをしながら手を引っ込めた。だが引っ込め方が悪かったのか、酉関珀はややバランスを崩して、そのまま見事に食器を踏み割ってしまった。
 一瞬の出来事に驚いた酉関珀は、手を離して床に屈み込み、壊れた食器を恨めしそうに見ている。大して高級には見えない食器で銀1銭(0.1両)も出せば十分に買えるだろう。にもかかわらず、酉関珀が床に屈んだまま、その食器がどれだけ貴重品かを話し始め、更には、俺が手を引っ込めなければ、それに気を取られて食器を踏む付ける事もなかったと、ねちねちを小声で話し続けた。この野郎め、何処まで腐っているんだ。そりゃ、確かに俺の手の引っ込め方が急過ぎたかも知れない。或いは、俺達の変装に気付きつつもそれを面と向かって言えない鬱屈した気分の現れかも知れない。だが、食器が割れた原因の殆どは酉関珀にある。にもかかわらず、愚痴をいつまでもこぼしやがる。挙げ句の果てには、俺達を酉関の親父から守る為に食事に誘ったのに、こういう事になって残念な事だとまで言って来たので、俺もさすがに辛抱出来なくなって金で解決する事に決めた。闇商から貰った銀が2両残っている。
 家内の服のたもとに手を入れると、そこから銀を取り出して、袖の中から家内の手に渡す。それで了解したのか家内は、
「まあ、まあ、これで、どうぞ新しい一組でも買ってください」
と銀を差し出して酉関珀の食膳の横においた。それでようやく酉関珀は席に戻り、一応の辞退を2度した上で銀2両を受け取り、明るい顔に戻った。金で態度が豹変するところをみると、俺達の変装に気付た気配はない。その点は安心したが、それでも食器の話が続くのは止めようが無い。まあ、1銭程度の品物に2両貰った事への言い訳をしたいのはわかる。でも、壊れた食器への愛着度が10両の価値があるぐらいに彼は話を膨らませ続けて何時までも話が終わりそうにないのには閉口した。痺れを切らせた俺たちは話を遮るように辞去を申し出た。とにかく旅の疲れという理由がこっちにはあるのだ。

 大役を終えてほっとした気持で宿に向かった。幸いまだ日が暮れたばかりで、明かり無しに歩いて帰れる。もちろん駕篭なんかお願いしない。どうせ足代は俺達が払わなければならないのだから。
 宿に戻ると、酉関の親父から招待があったと宿の主人に告げられた。予想通りだ。そこで、既に酉関珀の所で夕食を御馳走になった事と、旅の疲れで休みたい事を言うと、
「じゃあ、うちの小僧に伝えさせますよ」
と親切に言って来たので、駄賃を渡して酉関の親父への返事をお願いした。その後は何もない。旅の疲れを癒す為に俺達は早々に寝たが、予想外にハードな午後のため精神的にもくたくたになったせいか、いつ相客が入って来たかも覚えていない。疲れのせいか緊張が緩んだせいか、警戒が薄まっている。もちろん、例によって一番奥の寝台に家内と一緒に寝たから、寝言とかで変装がばれる事は無かったとは思うが、自信は無い。


第14回:帰還そして転戦(妻視点)

 翌朝早く、船着き場に向かう。手早く着付けや化粧が出来るようになったのは良いが、少し変装への緊張が薄れている気がする。こんな時は一番危ないのだ。特に大役を終えた今日は開放感があるから余計に危ない。変装は今日が最終日の筈なので、これが最後と気を引き締め直す。
 船着き場は街から小一時間の距離で、荷車が多く通っている関係から道は良い。緑河に面した船着き場に着くと、20軒ほどの町並みと桟橋が2つ見えて来た。桟橋は商船用と渡し船用だ。長江や黄河と違って高々500メートル程度の川幅だから、渡し船は緑河用も支流用も兼ねており、それぞれの川向こうの葦の中にも桟橋が見える。
 闇商人には渡し船用の桟橋に行けと云われている。その桟橋を見ると渡し船が停泊していて、3人の客が既に乗り込んでいた。だからだろうか、船頭はあたし達を見るなり
「乗るんなら、はよう乗り込みなさいなあ」
と声を掛けて来た。少し急かさせる気分だけど、この船で良いのか分からない。やや焦る。
 ふと裏手を見ると、小舟の中に男が寝ているのを見つけた。顔に帽子をかぶせているから顔は分からないが、服は昨日見かけた気がする。接触したいが、人の目があるので躊躇った。相手はわざわざ顔を隠しているのだ。こういうのは秘密裏にするべきものと相場が決まっているが、目の前の船頭に言い訳しなければならない。こういう判断はあたしには難しい。ためっていると主人が横から女声で
「ちょっと、お尋ね申しますが、今朝、こちらに渡って来たお客さんはどちらに向かわれたでしょうか」
と船頭に尋ねてくれた。そうか、ここは女が声を掛けても構わない状況だ。
「いや、今日はまだ誰も来てませんねえ。岸の向うに人が見えるから、来たら分かるでしょうな」
「それはどうも有難うございます。・・・そうそう、ここまでの道ですが、あたし達の後ろには人は居ませんでしたよ」
と主人が暗に出航を促したら
「分かったまっさあ。こっから街への道が見えるんでね」
と答えて、船頭は綱を解き始めた。
 船が小さくなった頃に小舟の男に声を掛けると、彼は直ぐに起き上がり、笑いながら
「待ち人って誰かな・・・まあ、乗れや」
とあたし達を招いてくれた。一昨日分かれた補佐役だ。単独行動をしている所を見ると、ここは闇商にとって危険ではない場所らしい。
「船頭が見てますよ」
「構わん、半分仲間のようなもんだからな。でも、さっきの会話は気に入ったぜ」
こうしてあたし達は小舟に乗り、そのまま緑河を下った。

 連れて行かれた先は、3日前の船に似て、やや大きめの船だ。案の定、この水域の顔役が待っていた。挨拶もそこそこに早速報告に入る。ミッションが終わり、貰った3両余りの銀を有効に使ったので、主人の口は軽い。先ずは酉関の親父についての報告から。嫌らしい目つきで主人を見て、髪留めをプレゼントし、夕食を招待してきて、息子にすら『女に見境が無い』と言われている事などだ。頭は補佐役達と目を見合わせて頷いている。
 息子の珀の方は、ねちっこくてみみっちくてとても友人の出来そうにない性格である事と、金に煩い事だ。夕食を酉関珀と一緒に無理矢理取らされて、その時に食器を巡って起こった事も詳しく話した。すると頭達は
「おう、やっぱり金に細かいのか。まあ、そういう細かい奴の方が、はした金で喜ぶから好都合だ」
と相好を崩した。あたしも商売の妻だから分かる。1文2文に煩い奴ほど両を越える金儲けが決して出来ないし、1両2両のお金に目の行く奴は100両を越える大儲けが決して出来ない。生活費の節約を得意とする女が大商いに向かないのもこれが理由だ。それはあたしにも当てはまる。だから家計は女、大きな売買は男、と役割分担をするのだ。
 全部話し終わると
「あんたらの我慢強さは、さすが、堅気の商売人だな」
と豪快に笑って来た。
「こんな所にいて、何処が堅気なんですかねえ」
と冗談口をたたくと
「じゃあ、俺達の仲間に入るか?」
「よろしいので? 堅気でないと困るのはどなたさんでしょうかねえ」
「それは困るな」
頭達は上機嫌だ。こころなしか、3日前より待遇が良い気がする。

 小一時間も話をしたところで、あたし達は再び小舟に乗り移った。小舟の中で細かい打ち合わせをする。頭の乗る大舟は漕ぎ手に捕虜を使う事があり、彼らが脱走した場合の事を考えると秘密の話には向かないのだ。打ち合わせの内容は、葉芯洋(包庸鞘)を街から脱出させるミッションと、今後の連絡方法についてだ。
 昨日の録西行きよりも、脱出ミッションの方が遥かに難しい。それは敵の目をかいくぐらなければならないからだ。だから、あたし達の器量を試す意味も含めて録西に行かせたのだと、補佐役は今になって話してくれた。それを聞いて、先ほどの頭達の上機嫌の意味が呑み込めてきた。要するにあたし達は試験に合格した訳だ。となれば、待遇が上がって当然だろう。
 これで今度の脱出ミッションをきちんとこなせば、3日前の救命の恩を返して余りあるから、対等な立場になれる。そう思うや、打ち合わせにも熱が入る。考えられる追っ手、それを見越した街からの脱出ルート、途中の危険な街や川や山。とにかく、何処にどういう罠があるか分からないから、対策は出来得る限り立てておくのが良い。当然ながら、あたし達の素性は街の顔役の所で最終的にミッションが決まるギリギリまで明かさないほうが良いという事で意見が一致した。
 打ち合わせの傍ら、あたしは主人の化粧を拭い取る。そうして白粉の代わりに墨を塗る。あの塾に4日前に行った時の姿に戻る為だ。例の補佐役は、主人の変貌ぶりに目を丸くして
「化けやがったな」
と片目をつぶってみせた。連中は怖いけれども小気味良い。そして度胸のある堅気を大切にしてくれる。役人なんかよりは余程良い。

 小舟はやがて支流の小さな川に入り、録西の対岸から連なる街道・・・昨日までの街道よりは人が少ない・・・と交わった橋のたもとであたし達は降りた。刻は昼ちょっと過ぎ。ここから例の宿街までは2時間程の距離だから、これならば十分に明るいうちに着く。となれば、行き先は宿でなく塾だ。短い日数をおいての再訪だから、筆屋が直接塾に向かうのは怪しまれない。
 街に近づくと、立て札に真新しい似顔絵が見えて来た。よくよく見ると、4日前に見せられた、例の包庸鞘の似顔絵だ。手配書の内容も包庸鞘16歳と名指しで指定している。こんな街にまで似顔絵をばらまくと云うことは、それだけ洪二郎が金を使った事を意味している。その分、ミッションも危険なものになっている。危険と云うキーワードを思い浮かべた次の瞬間、あたし達は闇商売の連中の意図が気になり始めた。
 昨日までのミッションは分かる。確かに実利にかなったミッションだし、確かにあたし達が適役だ。でも、何故わざわざ包庸鞘を助けようとしているのか? 包家の生き残りに恩を売るという目的だけでは理由に少し弱い。主人に言わせると、恩を売るよりももっと強い繋がりが闇商売の連中に包家とあるとか、もしくは洪家が別の裏組織と手を握っていて大きな抗争になりかかっているのではないかとの事だ。ともかく、あたし達には知らされてない裏の事実があるのは確かだろう。だが詮索するなと主人に釘をさされた。女は好奇心を隠せずに喋ってしまうから、破滅を招き兼ねないそうだ。それを言われると反論出来ない。たしかに堅気の立場を守るなら、あたし達は闇商売の連中に言われた事以上をしてはいけない。何も考えず、ひたすら包庸鞘を葉芯洋として救出すること、それだけだ。

 4日前と同じ変装のまま案内を乞うと、そのまま応接間に通された。
「お早いお帰りで。賀村でしたか?如何でした」
向うに行くのに一日半の行程だから、4日というのは確かに早いが、今回はそれで良い。
「知り合いとお互いの健康を確認しまして実りある旅でした。今朝は知り合いのつての舟に乗せて頂きました」
「舟ならば、もっと北まで行けたでしょうに、わざわざのお越し、恐縮です」
「いえいえ、たまたま近くに来る舟があっただけの事です。それに筆屋としては、将来の秀才様に投資しておきたいですからね」
最後の答えで包庸鞘を州都まで連れて行く事を了承した意味が含まれる。このあたりの受け答えは、主人としっかり相談しているから、自分でもびっくりするほど男らしく答える事が出来た。4日前と違ってヒヤヒヤする場面は全然ない。
 あたしの答えに塾の先生も意図を見抜いたと見えて、早速、葉芯洋・・・包庸鞘という本名は決して使ってはいけないのだ・・・の同行を改めで頼んで来た。行き先は州都近くの別の親戚の家。それを快諾すると、今夜の予定を尋ねられた。もしも宿をまだ取っていないなら、顔役の所に泊まってはどうかという事だ。これから甥・・・名目上はそうだ・・・の面倒をお願いするのだから、きちんと歓迎するのは当然だろう。同時にあたし達の素性をもっと詳しく知るには泊まってもらった方が良い。

 顔役の所では離れに案内された。秘密を要する話は離れでするものと相場が決まっている。出席は顔役、塾の先生、葉芯洋(包庸鞘)、そしてあたし達の5人だ、こういう席に普通は人妻は侍らないものだが、女房役の主人は半ば強引に出席した。旅の者であることと、今後の打ち合わせを兼ねているから、主人の出席は道理にかなっている。一方、葉少年をつくづく見ると、確かに4日前に見せられた人相書きの面影を残している。8年近く会わなかったあたしですら思い出せたのだから、知る者が見ればバレるだろう。
 夕食では、試験情報や州街の情報の当たり障りのない話が続いたあと、具体的な日程の話になった。一番楽なのは舟だが、値段がかさみ、同時に危険なものでもある。だから常識的には真っすぐに北北西に向かうコースだ。そういう話になったところで、塾の先生が中座した。ここからは秘密会話だから知る人間は少ない方が良いという意味だ。
 話が再開したところで主人は話を強引に変えた。
「そういえば、この街の入口の立て札で似顔絵を見たんですけど、その件で変な話を聞いたんですよ、包村の洪家が包家の者を冤罪で陥れようとしている、って。あたしたちが次の街で尋問された時の様子も変でしたし」
相手の顔がさっと変わった。それを見て、あたしは完全に確信した。ここは言うしか無い。
「ねえ、庸ちゃんでしょ? 西の山手の」
葉少年は目を白黒しつつも
「人違いではありませんか」
と辛うじて言って来た。主人とあたしは顔を見合わせて笑った。あたし達が敵だったらここで指摘せずに出発後に拉致する筈だ。それをここで指摘するのは味方だからこそ。顔役はさすがに意図を理解したとみえて
「どうぞ、ご内密にお願いします」
と正直に語り始めた。

 始めは純粋に義侠心で彼を匿ったそうだが、そこは人間だ。匿っているうちに愛情が生まれ、しかも彼の勉強熱心な様子を見て将来を楽しみにするようになったとの事だ。さもありなん。向うが襟を開いた後は、こっちが語る番だ。先ずあたしが包村出身である事を告げた。その上で、行きがかり上、変装している事も明かした。ただし今は変装は解かない。というのも、この家には使用人も結構いるから、どこから情報が漏れるか分からないからだ。始めの心づもりでは、今夜にでも本来の恰好に戻るつもりだったが、明日までこのままでないといけない気がする。
 包村出身と変装の2つの秘密を語った後は、変装のそもそもの動機を語る事になる。それは洪家への恨みを語る所から始まる。そうして、包村での事件、闇商売の連中に脱出を助けてもらった事、その恩返しの一環として包庸鞘の脱出に手を貸す決意をした事などを語った。本音を言い合ったあとは、今後の予定だ。
 例の似顔絵が今朝貼り出されたのは極めて不味い状況だという。顔役の政治力で手配書は街外れの街道沿いだけに限定してもらったが・・・顔つきが似ているだけで甥に冤罪の疑いをかけられてはたまったものではない、という大義名分がある・・・手配書の存在が街の人間に知られたのはどうしようもない事実だ。今までは顔役の義侠心に街の者が賛同してくれたものの・・・それは6日前に感じた奇妙な雰囲気からも察せられる・・・街の全員が本気で包庸鞘を助けようと思っている筈も無く、人は金で動くものだ。本来なら味方の者が、手配書の賞金目当てに包庸鞘を売る事だってあり得る。それは顔役の家の使用人ですらあり得る事だ。ほんの4日で事態は随分と緊迫している。
 危険は手配書だけではない。2〜3日前からは変なヤクザが街をうろついていたりするという。なんでも包村で昔見かけた事のある奴らしく、葉少年は昨日一度殴られそうになったらしい。喧嘩ざたを引き起こして取りあえず役所に留め置き、人違いなら示談、本人なら引き渡して貰う・・・これが役人と結託した金持ちのやりかただ。洪二郎にしてみれば、残り少ない包家の者を根絶やしに出来るなら、多少金がかかっても損は無い。だから、疑わしきは全て殴るようにヤクザ連中に指示していると思われる。
 幸い包庸鞘は逃げ切り、その後は塾にも行かずに顔役の家の中に籠っている。でも、いつまでもこうしては居られないというのが顔役の読みだ。ほとぼりが醒めるまで家から出ない、というのが良くある方法だが、それは手配書が出た今となっては厳しい。とにかく一度は殴られかけたのだ。既に顔役の家は目をつけられている。洪二郎の手の者なら、確実に使用人を買収して葉芯洋(包庸鞘)がここに来た時期とかその時の容貌とかを調べるだろう。事態は急を要している。
 幸い、逃げる先については、顔役に心当たりがあるそうだ。彼の家内の妹の嫁ぎ先の葉家だ。ここから十分に遠くて大丈夫だろうという。問題はどうやって連れて行くか。万が一彼が捕まった時は、同行者が巻き添えになる。巻き添えは顔役の家としても出来れば避けたい。それで、何も知らない旅人を物色していたらしい。もっとも、ここまで事態が緊迫して来たので、家の郎党の誰かをつけて出発させる事を本気で考え始めたところだったそうだ。だから、あたし達にも無理は言わないとは言って来た。

 それを聞いて、あたし達は決心を固めた。葉芯洋(包庸鞘)を安全に脱出させる事の出来る者は、あたし達を於いて他にいないからだ。安全な脱出、それは変装だ。もちろん女装。そのノウハウをあたし達は持っている。


第15回:少年救出作戦(妻視点)

 変装による脱出で一番難しいのは着替えの場所の確保だ。一番始めの変装の時は、森で着替え更に道を斜めに逆戻りするようにして、変装の前後に同じ人間の目に触れないようにした。そのくらいに注意が必要だ。その点、顔役の家はあまりに使用人が多く、買収で直ぐに情報が引き出される。だからここで服を変える事は有り得ない。あくまで男の葉芯洋が今の姿のあたし達と出発したという形にしないと変装の効果が薄れてしまう。変装は顔役の家を出た後だ。出来れば人のいない所に数日潜伏して、そこで3人とも着替えたい。そういう潜伏場所さえ確保出来れば、変装は完璧だろう。そういう場所を主人が尋ねたら、さすがに顔役だけあって、街の北西側郊外に荒れ寺を薦めて来た。そこで宿を確保出来るらしい。
 主人とあたしは顔役の家の離れに変装のまま一泊した後、朝のうちに顔役の家を出た。寺への使い・・・単に筆屋夫婦が数日滞在するという連絡をする人・・・は夜明けと同時に寺に向かっているから、あたしたちが村はずれに着くまでには返事を持った使いに出会える筈だ。家を出る時は、洪二郎の手の者が顔役の家を見張っている可能性を考慮して、これ見よがしに顔役や包庸鞘(葉芯洋)と表門のところで別れの挨拶をする。
『今後とも筆屋をごひいき下さい』
そうして街の北口に向かった。
 案の定、不審人物が街角から顔役の家を監視しているのが見えた。来た時と同じ恰好のあたし達は街から出て行く旅人という事で警戒されていない。だから、少し荷物が増えているのにも気付かれなかったようだ。増えた荷物は包庸鞘(葉芯洋)の着替えの分・・・顔役の娘の服を一式・・・だ。彼には身軽な恰好で家を出て貰って、そのまま神隠しとして騒ぐ事になっている。ここで見張っている奴は、別の者が洪二郎に引き渡したと勘違いするだろう。この手のヤクザは成功報酬が大きいから、誰もが一人で包庸鞘を確保しようとして、横の連携がないと見て良い。

 寺は風致の為の樹木で覆われていた。しかも、街に近い荒れ寺だけあって、住んでいる者は一人だけだ。宿坊はあちこち空いてる。この分だと人知れず滞在出来る。早ければ、今夜にでも包庸鞘(葉芯洋)と合流する事になっているが、監視の目のない時に来るとの事だから、明日や明後日になるかもしれない。連泊になるとさすがに怪しまれるので、カモフラージュの為、変装の姿のままで本堂で念仏を唱えた。そもそも、昔の願解きを兼ねた百度参りという口実が滞在の理由だ。案の定、その夜は包庸鞘(葉芯洋)は現れず、翌夜も現れなかった。
 3日目の夜、少しやきもきし始めた頃に、闇に紛れて包庸鞘(葉芯洋)が現れた。顔役の腹心と一緒だ。あたし達の姿を見て腹心は安心したのか、直ぐに村に戻った。その夜は直ぐに5時間ほど寝たあと、朝もまだ暗いうちに起き出した。いよいよ変装だ。あたしは6日ぶりに・・・半日おいてその前も3日変装だった・・・変装を解き、本来の姿に戻った。これは直ぐに済む。問題は包庸鞘(葉芯洋)の変装だ。顔役の娘の服だけあって、主人の女装の時より服も豪奢だ。色物の袴や、値の高い簪などの他に、小袖や下着の胸当(見せブラジャーのようなもの)まである。それらを全部着せるのと同時に、娘の体型を再現させるべく尻や胸に詰め物をして、更に肋骨を締め付ける。骨の締め付けなぞ、効果が上がるのに時間が掛かるが、状況が状況だけに女装が長期に渡るかも知れないから、今からやっておいて損は無い。
 初めての変装というのに簡単に仕上がっていく。あたしたちが手慣れた事もあるけれど、何と言っても素材が良いのだ。とにかく若い。だから主人に比べて発毛は少ないし体型も痩せ形で、肋骨まで弾力がある。だから変装に困らない。雪明かりだけというのに30分程で用意が出来た。まだ日の出前だ。あとは化粧だけ。これはもう少し明るくなってからで良いだろう。

 まだ暗いうちに寺を出た。月明かりで足下は何とか見える。まず、北西に伸びる街道・・・あたし達が来た道だ・・・を越えて、間道を更に東に向かう。行き先は東。最終的な行き先は北北西だが、敵を欺くには味方から。顔役の家の者は勿論の事、塾の先生すら、包庸鞘(葉芯洋)が州都に向かって北北西の街道か、さもなくば西街道から舟に乗ると思っている。そういう情報は確実に洪家の者に流れるだろう。だからこそ、あたし達は東に向かうのだ。知っているのは顔役だけ。緑河の連中すら知らない。
 東街道には日の出前に入った。幸い人はいないし、百姓連中に気付かれた気配もない。街道に出て30分程で日の出になったので、適当な木陰で包庸鞘(葉芯洋)の化粧をする。いや、包庸鞘と呼んではいけない・・・葉芯洋とすら呼んではいけない。女装した今朝からは笙娘という娘になったのだ。あたしたちはそのように彼を扱う。変装で他人にバレない為には、当事者が自ら暗示を掛けるのが一番だからだ。もちろん、このように、いきなりの女装でいきなり娘として扱われれば誰だって戸惑うだろう。でも、彼には大義・・・生き延びて包家の祭司を続けること・・・がある。その昔、楚の大臣家の伍子胥は、乞食に身を落としてまでも復讐の為に生き延びた。落魄するぐらいなら自殺するのが当たり前の時代にだ。それに比べれば女装なんて子供騙し。大きな目的の前に我慢出来る筈だし、そのくらいの男でなければあたしたちも助け甲斐が無い。
 次第に明るくなる田舎道に浮き上がる彼の姿は、主人の女装を遥かに上回っていた。若さは偉大だ。若い言うだけで魅力を増す。それは本物の女でも女装男でも同じ。魅力は若さだけでない。日の大半を室内で過ごす書生特有の色白な膚に加え、衣装が素晴らしい。顔役の娘の服だけあって、単に色が明るいだけでなく、その模様があでやかだ。顔役は娘の服の中で一番地味な奴を持たせて来たが、それでもあたしたちの持っている、単に1色2色だけの明るい生地と全然ちがう。裁断もよく、娘の魅力を高める工夫がなされている。たとえば胸を少し大きめに開けた小袖。その下に胸当(見せブラジャー)をつける事を前提とした裁断だ。庶民は胸当なんてしないから、これだけでも十分に女を強調している。素材の良さと服の良さで、彼はとても男には見えない。そんじゅそこらの娘達よりも遥かに美しい娘に化けている。これなら、彼を笙娘と読んで全然違和感がない。そうだ、今後は彼でなく彼女と呼ぼう・・・変装の基本は自己暗示だから。笙娘は男でなく女。彼女は女。彼女は娘。彼女はあたしの姪・・・。唯一の心配は、笙娘の姿に主人が男色に目覚める事だが、こればっかりは主人を信じるしかない。いや、あたしがもっと女を鍛えて魅力的になれば良いだけの事だ・・・妙な対抗意識が目覚めるのを感じた。

 日の出を過ぎると郊外の農民が野菜等を売りに街に向かいはじめる。それはあたし達3人組の旅行者という情報を洪家の手の者が知るという意味を持つ。何処の宿にも泊まっていないから、もしも洪家の手の者が優秀だったらあたし達の素性に疑いを向けるだろうが、それでも、何処かの農家に泊まっていた可能性だってあって、完全にクロとはならないし、人数も性別も顔役の家と繋がらない。だから、行き違う農民達なんか気にする必要はないが、それでも通りすがる誰もが笙娘をじろじろ見るとなると不安になる。というのも、動作の全てがぎこちないからだ。無理も無い・・・彼女は娘としてはまだ生後数時間の赤子と同然なのだ。もちろん箱入り娘という設定にしているから、初めての旅でおどおどしている、という言い訳はある。でも、やはり男と女の違いはそういう言い訳では埋まらない。相当に努力しないと、それらしい演技にならないのだ。この事は過去10日間の経験で痛感している。
 街道に出てから笙娘に何度も女の歩き方を指導はしているが、焼き付け刃で、ちょっとでも緊張すると歩き方がおかしくなってしまう。だから農民と通りすがったあとは毎回指導し直すのだが、それが却って悪かったのか、彼女はすっかり女装に対する自信を失ってしまったみたいだ。主人が経験者として慰めてくれているが、焼け石に水。まだ、具体的な指導で女装技能を上げて行くしか無いだろう。
 ここはあたしが頑張るべきだ。男装を通じて、あたしは女が女らしく振る舞うという事がよりはっきり見えている。どうよう所作。どういう細かい注意が、女の魅力を高めるのに必要なのかを身を以て知っている。しかもずっと主人の女装姿を観察して来たから、どういう風に主人が振る舞った時に女に見えるかも知っている。変装とは恰好を変えるだけではないのだ。
 ゆっくりと、それでも確実に歩を進めながら、変装経験者の立場から笙娘に女らしい動作を丁寧に教えて行くと、さすがに科挙の予備試験に通るだけあって、綿にしみ込むように覚えが良く、所作が改善されて行く。こうして、その日の宿街に着く頃には、少なくとも主人の3日目並みに女らしくなってきた。この分なら今夜の宿は誤摩化せるだろう。

 宿街に入ると、一番の目抜きにお尋ね者の立て札が出ていた。包庸鞘を手配した奴だ。それを見かけた笙娘はびっくりした顔をして立て札を読んでいる。さすがに試験勉強してるだけに読むのが速く、他人に不審に思われる前に立て札の前を立ち去ったが、彼女の動揺は激しい。
「娘に専念」
と囁いて緊張を保たせそうとするが、それでも心配そうな顔つきは変わらない。不味いので他人に顔を見られないようにあたしの直ぐ後ろを歩かせる。旅なれない未成人娘・・・本人は16歳だが性を変えると14歳にしか見えない・・・という設定なので、ベールは不完全な奴しかしていないのだ。
 ともかく宿に入り、部屋の奥の寝台を確保した。いろいろ考えて、あたし達は一つの寝台にした。寝言の問題を考えると、主人と笙娘がどうしても同じ寝台に寝なければならないからだ。でも、あたしだけが別の寝台に寝るのはちょっと目立つ。そもそも、寝台は十分に広いから、あたしたちのような旅の場合は親子3人が同じ寝台に寝る事がよくよくあるのだ。結局、笙娘を真ん中に挟むように寝る事になった。何も気にする事は無い。あたしにとって笙娘は女なのだから。それでも変な気にならないように、あたしは笙娘に寝る前に女香をしみ込ませたスカーフをさせる事にした。
 落ち着いた所で主人が口を開いた。
「指名手配の事は知らなかったのか?」
「ええ、話は聞いてはいたのですが、実際に見た事はありません」
「遠い街の、たかが窃盗だ、誰も気にしていない」
「いえ、窃盗ではなくて強盗になっていました」
これには驚いた。ここ数日で包庸鞘の罪状が重くなっていたのだ。強盗先は洪家でなく街の商家。既にあの街で目明かしが洪家の為に旅人尋問をしていたぐらいだから、街に気脈を通じる金持ちがいてもおかしくない。そして役人の方だって、一旦癒着して一度でも濡れ衣を着せる事に共謀すれば、あとはいくらでもエスカレートするのだ。
 それにしても、ここ数日での追及の激化は凄まじい。もしかすると、例のごろつきの失踪に洪二郎が何かを感じたのかも知れない。理由はどうあれ、笙娘が包庸鞘として復活する為の環境はますます厳しくなっている。


第16回:不安と後悔(笙娘視点)

 真っ暗だと云うのに、なんだか妙に女の存在を感じる。寝台で筆屋夫妻に挟まれて、女性が至近距離にいるせいもあるが、なによりも、普段と違う夜服で横になっている感触と、その服に女の香が付いている事が大きい。真っ暗でも、いや真っ暗だからこそ嗅覚と触覚が冴えるのだ。しかも、服の感触が女装を意味する事を今日一日の特訓で覚えてしまった。たった一日とはいえ、ぶっつけ本番の女装と女の仕草だったから記憶に生々しい。だからこそ今は体で知っている・・・・・・下着の生地の柔らかい感触と長さが女物である事を、髪の圧迫感が女留めである事を、尻の圧迫感が女のカモフラージュである事を、そして何よりも胸の圧迫感が下着の胸当である事を。他はともかく、胸当だけは女しか・・・大人の女しか・・・必要としないないものだ。それを男の身で使っている。しかも、旅でも寝台でも小娘のように守られて、これでは本当に女の子だ。男らしさの微塵も無い。そう思うと、突然、恥ずかしさに全身が熱くなった。昼は緊張の連続で考える暇すらなかったが、今は違う。考える時間はいくらでもあり、それが恥ずかしさを煽っている。もしかしたら破滅の道を歩いているのではないだろうか?

 親の捨て身の判断で村から逃げ出して早くも6〜7年になる。その間、ずっと匿ってくれた顔役・・・義父だが、身の身辺が騒がしくなって、このまま居ては早晩迷惑を掛けるだろう事が気にかかり始めていた。だから、脱出の準備を義父から言われた時は内心ほっとしたし、更に、旅の筆屋夫婦が手引きしてくれる事が分かった時は大きな味方を得た気分になった。なのに、彼らと2泊目の夜を迎えて、新たな不安がもたげてくる。女装は大きな判断ミスではないかと。
 女装を提案された時は、これこそ人目に分からない妙案だと思った。でも丸一日歩き終えて、その効果に疑問を感じている。というのも、人の目が痛いからだ。経験者の筆屋には
「街道で出会う者は男が多い。そして男は自然と女に目が行くものだ」
と言うが、それにしても不審者を見定めるような視線が多過ぎる。そもそも女装なんて、自然な振る舞いが伴わなければ不審以外の何ものでもないから、他の変装に比べてバレやすいのだ。しかも、女装がバレて捕まったら、それこそ逃亡以外の理由はなく、それは罪状を認めたに等しい。手配書が段々エスカレートしている今、捕まったら確実に処刑される。なんで普通の変装にしなかったのか?
 女装を後悔するもう一つの理由は、それが男の心を奪ってしまうのではないかという危惧だ。今日の筆屋はおかまっぽかったし、奥方はおなべっぽかった。もちろん10日も変装していたのだから、その癖が少し残るのは分かる。でも、寝言までそうなると少し気味が悪い。とにかく、寝言の3分の1ぐらいだろうか、右隣の旦那が女言葉を女の語調で囁いたかと思えば、左隣の奥方は男の雰囲気の囁きを発するのだ。昨日の夜は緊張でそこまで気にならなかったが、2晩続くとさすがに習い性の怖さを感じる。たった10日の女装で寝言まで女っぽくなるのなら、今日のような厳しい指導が長引いたら寝言ばかりか心の中まで女になってしまい兼ねない。この先、どれだけ女装を続けければならないか分からないのだ。男らしさを失ってしまったら包家再興なんて覚つかず、かえってご先祖様の面汚しになってしまう。おかまになってまで生き延びたいとは思わない。
 
 そんな不安とは無関係に女装の指導は続く。朝になると、おかま・おなべ疑惑の筆屋夫婦は無言で服の着替えを手取り足取り指導してきた。そうして朝食に向かうや、歩き方や食器のもち方も手ずから矯正してきた。昨日と違って余分な声を立てられないが、指導は昨日よりもきめ細かい。そして出立して人がいない所まで来るや、昨日と同じように女の仕草について注意してきた。指摘はどこまでも細かい。なんせ筆屋夫婦は寝言にまで反映しているぐらいの経験者だ。男が自然に女を振る舞う術と、それを身につける為の最短方法を知っている。
 昨日は無我夢中だったからそこまで女装が気にならなかったが、今日はすこし疑問を感じている。そこまで徹底して女になる必要があるのかどうか、と。そういう抵抗の心・・・男の自尊心とても言おうか・・・それが態度に出るのか、筆屋に
「女の仕草をする事に抵抗があるのは分かるが、大事の前の小事、つまらない自尊心は捨ててしまえ」
と看破されてしまった。そうして、自己暗示で意識まで女になれとまで言ってきた。自分が女だと思い込めば、女の仕草をする事に抵抗が無くなって飲み込みが早くなるし、何よりも咄嗟の際に男の仕草が出てしまってボロを出すリスクが減るという言い分だ。昨日もそういう事は言っていたが、今日は口調が強い。でも、これはもう洗脳だ。そこまでして逃げなければならないだろうか? 分からない。
 疑問はともかく、中途半端が良くない事は理解している。女装をしている以上、女装がバレる事が一番危険だからだ。現に、やや慣れた筈の昨日の午後ですら、街道で出会った人々の視線に、不審者を吟味する部分があった事は確かで、それに過剰反応して動きがぎこちなくなったのも確かだ。女の仕草を少しでも向上すべく、努力は続けなければならないだろう。だから筆屋のアドバイスにも
「努力する」
と答えるだけ。この先の事は取りあえず白紙だ。そもそも昨日の今日で女の意識を持つ事なんて出来ないし、それが出来るようだと、それこそ家の再興なんか不可能だ。ただ、女装を続けるなら、自己暗示は避けて通れない問題かも知れないとは思う。
 宿から街道を東に向かい人の目がなくなった頃、奥方が
「人に出会う前に直さなくちゃね」
と言って、服の下のカモフラージュ用の布等を直して来た。その要点は尻を厚くし、肋骨を締める事。尻の方は綿入れを余分に着た感じ気にならないが、肋骨は問題だ。腰の直ぐ上をなめし革で包んで、その上を皮紐できつく縛るのだが、それを2人掛かりでやるので、きついったらありゃしない。しかも昨日の朝より昨日の昼、昨日の昼より昨日の夕食時、そして昨夕よりも今日と、だんだんきつく締めている。
 こっちが苦しい思いをしているのに、奥方は
「この人と違って、骨が柔らかくて楽だわあ。体が若いっていいねえ」
と笑っている。この人たち、もしかして女装で遊んでいない? そう文句と云うと、筆屋は
「こういう人目の無い時にリラックスしないと集中がつづかないぞ。大体だな、自然体で女を装えないと不審に思われるだろうが」
と正論を言ってきた。確かにそうだが、なんとなく腑に落ちない。

 筆屋のサポートが良かったお陰か、着こなしや歩きかたや全身の仕草は着実に上達している。それは行き交う旅人や農民の視線が、不審者に対するものから、次第に珍しいものを見ている視線に変わって行く事で実感する。険しい表情の視線が減って、微笑みや媚びを持った視線が増えているのだ。そう、娘として、すなわち魅力ある女として見る視線だ。こんな急造の女装なのにだ! 
 ちょっと気になる女を見る視線・・・それは5日前までは自分自身が女に対して出していた視線・・・を初めて感じた時は、喜びと安堵と、そして新しい漠然とした不安が体中にわき上がって来た。喜びは変装の上達に対する技術的なもの、安堵は女装旅が上手く機能しそうだというプロジェクト的なもの、不安は女として認識されている事を喜んでいる己に対する運命的なものだ。なんと、魅力的な女として羨望のまなざしで見られる事に若干の快感を感じている自分がいるのだ。女である事をあれほど不安を覚えていたのに、その同じ心で同時に快感を覚えている。なんと恐ろしい。女である事はこれほどに快適なのか!
 喜びと安堵と不安の渦に巻込まれつつ、昼ぐらいにやや大きな川に出た。青河だ。当然ながら、船着き場と付随した街がある。ここで進路を青河沿いに北に変えると、その支流に筆屋の住む街がある。舟で1日半の距離で、そこが取り合えずの行き先だ。もっとも、歩くと峠越えがいくつかあるので4日かかる。
 筆屋夫婦にしてみれば、家を出て半月近くなり、隣家に預けた子供の事とかがあるから、取りあえず家に向かいたいという。これは当然だろう。となれば、自宅に暫く滞在したのちに、件の葉家・・・顔役の奥方の妹さんの嫁ぎ先・・・に向かうのか彼らに取ってベストだ。これはこっちにとっても有り難い。というのも、今の手配の様子からすると、葉家が安全かどうか分からないからだ。葉家に行く話は顔役の使用人すら知っている。洪二郎一派に漏れていておかしくない。
 川は物流の動脈だから 船着き場はいつも盛況だが、その分、追っ手に見つかる危険がある。街から逐電が、昨日の夜には神隠しとして騒がれて見張りの連中にバレている筈だからだ。見張りが1人だけなら洪二郎と確認する為に包村に向かうだろう。2人でも、1人は包村に1人は北に向かうだろう。でも、複数いたらこの街道を追って今日にもこの港街に泊まる可能性が高い。だから宿には入らず、そのまま進路を川沿いに真北に変えた。すると、舟乗り風の連中が三々五々に
「安くしますぜ」
「**街に行く客はいませんかい」
「舟が楽ですよ」
と声を掛けて来る。
 舟は高いとばかりに始めは乗り気でなかったけれど、たまたま荷物に余裕の出た舟が破格の値段で3つ先の街まで乗せてくれると言って来た。初老の男と若い男の2人連れの小舟だ。女の船旅は危ないと云うが、こっちは男2人だ。恰好はともかく意識はそうだ。筆屋にしても帰心矢の如しで、僅かの贅沢で楽に2日以上も早く帰り着くなら、それが有り難いに決まっている。話は決まってその舟に乗る事になった。もちろん最終行き先も身元も誤摩化して、家具屋が親戚の姪を連れて旅しているという設定で、明日は青河を更に遡って全然違う街に向かうという話になっている。
 安過ぎる舟賃に、安物買いの銭失いという言葉が頭に引っ掛かる。たとい荷物の隙間に乗り、しかも筆屋が櫂漕ぎを手伝うとはいえ、言われた舟賃が安過ぎた。だから、どういう形で余分な金を失うのか気になる。乗り始めて街が遠くになったところで一回目の緊張をしたが、金を無心する気配はない。となれば荷物を全部か、とばかりに最悪事態を想定する。奥方ともども、身の安全を確保するように構えていたが、舟は何事もなく目的の街に近づいて行った。そうこうするうちに葦と林の切れ目に家並みらしきものが一瞬見え、船頭が
「あの街でっせ」
と言って来た時はホッとした。川は何度目かのカーブにさしかかり、家並みは再び里山の林の影に隠れたが、目的地が近い事には変わりない。

 その時だった、舟がいきなり大きく揺れ、筆屋や奥方がバランスを崩したと思った次の瞬間、
「おっと危ねえ」
と若者が言ったかと思うと、彼もバランスを崩したかの様に筆屋に組み付いて来た。このままだと2人して川に落ちる、と思った矢先に、筆屋が緑河の闇組織の名前を出した。するとどうだろう。それを聞いて初老の男が
「待て」
と若者を鋭く制して、2人は辛うじて踏みとどまったのだ。どうやら、事故を見せかけて川に落とすつもりだったらしい。
 その様子に思い出した事がある。川は下流で繋がっているから、闇の人間同士で知り合いだと。味方とは限らないが、さりとて不必要な喧嘩は避ける。だからこそ、さっき名前を出した時に慌てて助けたのだ。筆屋が泳げて逃げた場合、彼らがどんな報復を受けるか分からないからだ。もちろん、普通の商売人なら大河で泳げないのが当たり前だし、仮に泳げても事故と云う事で誤摩化せるが、あのタイミングであの名前が出たら確かに誤摩化しは効かない。そう思うと、安物買いの銭失いが本当だった事を思い知った。筆屋夫婦が緑河の組と知り合いでなかったら、連中は筆屋を溺れさせ、舟に残った奥方と娘・・・女装がバレていなければの話だが・・・を、売るなり犯すなり自由にしていただろう。

 2人の姿勢が戻ると、初老の男が錨を投げ下ろしながら
「おめえ、どういう知り合いかよ」
と尋ねて来た。手の中の竿はいつの間にか武器を持つ握り方に持ち変わっている。答え方如何ではどう転ぶか分からない。ここで変装がバレてしまうのか? 思わず、手許の木切れと歩き杖をそれぞれの手に握る。奥方の使っている杖だ。幸い、小娘と思われているのを利用して、旅の前半に相手の目を盗んで危険に備えておいた。
 こっちの緊張をよそに、筆屋は平然とした様子で
「この娘をさる屋敷まで送り届けるように頼まれている」
としっかりした口調で答えた。確かに嘘は言っていない。それでいて、本来の目的は何も明かしていない。何となく頼りになる。夜に女っぽい寝言を言い、昼も時折おかまっぽく見える男の癖にだ。
 相手は首を傾げた。
「妙な話だな」
「ああ、妙だ。でも目をつぶって引き受けた」
「引き受けたって、仲間じゃないのか?」
「まだ単なる協力者だ」
「・・・こいつはいい話だ。俺達と組まねえか」
 意外な展開にさすがの筆屋も唖然とした様子で
「どういう意味だ」
と彼が聞き返すと
「その娘、緑河の連中の切り札かも知れねえ。それをこっちらで頂くって事よ」
こいつら、緑河の連中の仲間では無いのか?


第17回:裏切り(筆屋視点)

 緑河の頭たちから、青河の事は少し聞いている。商売仲間であると同時に競争相手だから、緑河の頭の名前を出せば粗末には扱わないだろうが、堅気を通すつもりなら出来るだけ関わりを持たない方が良い、と。要するに青河でも堅実な旅を続けて正体を明かすなという意味だ。それでも、緑川の組の庇護があるという気分で、軽率にも値段につられてこの舟に乗ってしまった。もちろん峠越えの道での追い剥ぎの危険性を考えれば、川を選んだ事自体は間違いではない。値段につられたのが不味かったのだ。中身はともかく、外見上は男1人に女2人の旅なのだ。警戒が足りなかった。

 過ぎ去った判断はともかく、今は裏切りの提案にどう対処するかだ。裏切りを提案してくる以上、相手が戦闘上優位な立場にある事を確信しているのは間違いない。現に初老の船頭は竿を武器のように持っているし、若者も懐に手を入れている。おそらく刃物を持っているのだろう。ここで単純に嫌と云ったら殺される。とはいえ、単純にハイと言ったところで放免される訳ではない。連中にしてみれば、俺が緑河の連中に注進するのが一番怖い。だから、監視付きの生活が待っているだろう。
 舟に乗る前から笙娘に目を付けていた事は間違いない。だから、いきなり俺を事故に見せかけて溺れさせようとしたのだ。そこまで考えついたとき、俺の水泳能力を連中が買いかぶっているに違いないと気がついた。俺は簡単な立ち泳ぎぐらいは子供の頃に覚えたが、こういう河で泳げる訳ではない。でも相手は、俺が緑河の組と繋がっている事だけを知っている。となれば、俺が泳げるという最悪の事態を想定している筈だ。さっき川に落とさなかったのも、そのまま泳ぎ逃れて緑河の組に注進されたら困るからだ。そこに連中の弱点がある!
 となれば、相手が飛びかかれば、家内や娘を捨ててでも泳いで逃げるぞという態度は示しておいた方が良い。男は度胸だ。女装の日々のお陰で度胸だけは以前の倍以上ある。いつでも水に飛び込めるように身構えつつ、取りあえず思考を纏める時間稼ぎに
「娘を何に使う?」
と問うた。
「そんな事、おめえがウンと云う前に教えられる訳ねえだろ」
 笙娘の恰好は良家の娘のそれであり、しかも歳恰好は婚期直前の娘だ。その娘を屋敷に連れていくと咄嗟に答えたが、改めて笙娘をちらりと見ると、座っているお陰で振る舞いなどの粗も無く、権力者の妾として十分に通じる容姿だ。それほどに今は女装と雰囲気が女らしくなっている。この姿なら、妾として贈られる途中と判断されておかしくない。その場合、嫁入りを邪魔するだけで、権力者と緑河の連中の関係を損ねる道具になるだろう。他の思惑もあるかも知れないが、今は考えている余裕が無い。直感で相手の思惑を、妾の横取りと見た。
 単純な横取りなら、俺を殺せば済む話だ。現に相手は刃物を持っているから、そのシナリオも考えているのだろう。
「なるほど。だが、ひとたび引き受けた事を理由もなく保古にしては男が廃る」
再び思考の為の時間稼ぎに強気の事を言っておく。殺されるかもしれないと思うからこそ、殺せと答える。命を惜しんでは相手の思うつぼだ。緑河の補佐役が別れ際にそう教えてくれた。

 この返事に若い男は身構えてきたが、船頭が制した。
「なかなかの度胸、気に入ったぜ。だが、これはその娘の為にもなるんだぜ」
どうやら大掛かりな勢力争いらしい。そう判断するのと平行して、奴らの意図を考える。俺が奴らの立場なら、笙娘を緑河でなく青河からの贈り物として別の権力者に贈るだろう。その為には俺から笙娘への説得が必要だ。でないと、妾になった笙娘が、青河の連中に関してどんな悪口を言うか分からないからだ。
「俺が連れて行く屋敷よりも上の奴って訳か」
そう答えると、若い男は体制を戻して船頭の方を見た。
「分かっているなら話は早ええ。おめえ、商売人なら俺達と組んだ方が良いって分かるだろうが」
それはあたかも笙娘を連れて行く先を知っている口調だ。馬脚を現しやがった。妾なんて連中が勝手に思っているだけだ。ありもしない屋敷を、あたかも知っているかのような口ぶりで、その上の権力者だと断言する以上、相手は推量で話をしている。
 ここはブラフだ。
「知事様を棒に振れとは豪儀だな」
だが相手はその上を行ってきた。
「ふふふ、とうとうバラしたな。行き先は同じ知事様よ。娘の価値を釣り上げてやるぜ」
 話が見えた。やはり輿入れの横取りだ。しばらく何処かに隠して、緑河組が役立たないと知事に印象づけ、その上で青河組が役に立つ所を見せて勢力を拡大する。他の可能性は考える余裕が無い。今は、このシナリオでの俺の立場を考える時だ。あくまで強気を守るべきだ。弱気を見せてはいけない。それは女装も同じ。
「それでは俺の利益が無いではないか」
「倍出すぜ。それともここで妻を見捨てるか?」
「さっきも言った。ひとたび引き受けた事は理由なく保古に出来ない」
一旦強気の態度を取ったら、人質程度でひるんでは相手に付け入れられる。毒を食らわば皿までだ。
「緑河の連中が悪党だとしてもか」
「目くそ鼻くそを笑う。何処が違う?」
 ここまでやり取りをした後、船頭は意外な事を言って来た
「はっはっは、おめえなあ、奴らは余りに阿漕だから官憲に追いつめられているんだぜ」
そう言って、録西街で閉め出しを食っている事、包家村の舟着き場が押さえられた事などをあげて来たのだ。なるほど、こいつらは洪二郎と繋がっていたのか。そういう水面下の動きを緑河の連中が探知したからこそ、対抗馬の包家に肩入れするというのはあり得る話だ。ただ、5日前に連中の別れた際にそこまで言われなかった事を勘案すると、緑河の連中は、青河組による緑河つぶしという最大の目的自体を知らない可能性が高い。
 こちらの思惑を知らずに、船頭は話を続けた。何でも緑河の連中は、闇商売だけでなく人身売買もやっていて、それを摘発しようとした偉い役人の家を襲ったとの事だ。船頭の言い分を聞けば確かに緑河組は悪者だが、この手の脚色は今回の旅で何度も聞いている。冷静に考えれば、何処の闇組織もやっていそうな事だ。だが、全体の構図が見えて来た以上、ここは正義面を被っても良いだろう。
「なるほど、お前達と組んでも男が廃る事にはならないようだな」

 相手の緊張が緩んだ瞬間、後ろから何かが飛び出したかと思うと、若い男が突き飛ばされていた。笙娘が前傾姿勢になって歩行杖を男に突き出したのだ。舟が前後に揺れて、若い男が倒れていた。笙娘は男の急所にめがけて木切れを叩き付けている。男が男の急所を叩くのはタブーだが、女が男の急所を叩くのは常識だ。若い男は苦しそうにうめいている。その間、こっちは、慣れない揺れに思わず片手を床についたが、船頭はなんと言っても川の男だ、
「このアマあ」
と叫んで、竿を持ったまま大股に近づいてきた。腰には短刀を差している。危ない。
 もはや、足下の櫂を取る暇がない。床に突いた片手でバランスを取りつつ、船頭の腰をめがけて飛びかかった。腰に短刀を差しているが、革の鞘に入っているから怪我はしない。俺の飛びかかりに気を取られたのか、船頭が笙娘に向けて打ち降ろす竿は背中でなく尻に当たる。それでも当たりは激しく、しかも竿に角があるらしく服が破ける音がする。そんな音を聞きながら、こっちは構わず船頭に食らいついた。相手は竿を片手に持っているから、もう片手で腰の短刀を守ろうとするが、その手が短刀に届く前に手を掴んで噛み付いた。舟が揺れ、俺の勢いもあって、2人して床に倒れ込む。噛み付いた手が相手の利き手でない事が幸いして、いったん短刀に届いた手がまた緩んだ。とはいえ、相手の腕っ節は強い。竿を捨てた手で俺を殴って来た。
 不利かも知れない。そう思った次の瞬間、
「ぎゃあ」
と船頭が声を上げた。見ると奴の股間に竿が当たっており、その先端を笙娘が握っている。笙娘と格闘していた筈の若い男の上には荷箱と一緒に家内が馬乗りしている。若い男の手にも刃物はなく、これなら家内でも時間稼ぎが出来そうだ。その隙に笙娘の助力を得て船頭の刃物をたたき落し、船頭の足に大きな荷物を落として動けなくし、そうして船頭の首に拾った刃物を突きつけた。
 こっちが一段落した所で、笙娘は若い男の方に戻り、形勢が逆転する前にギリギリ取り押さえた。さっそく荷縄で2人をぐるぐる巻きにして、胴の間の転がす。なんとか勝てたが、これも相手が笙娘をか弱い娘と信じていた隙のお陰だろう。その笙娘が竿で斬りつけられた尻は、幸いに女尻を作る為に布を巻いていた所で、体の方はかすり傷だ。

 修羅場はなんとか切り抜けたが、問題はこれから。敵対行為という青河組の重大な秘密を知った俺達は、下手をすると再び追われる立場になる。幸い、昨日今日は筆屋でなく家具屋という触れ込みで旅行しているので、筆屋の本職はバレていないが、顔が知られている事には変わりない。しかも、この連中だけでなく川旅で出会った川の者全てに顔を知られているのだ。
 取りあえず、この舟をどうするか。宿泊予定の街は、さっき見えた感じからして5〜6キロ先だろう。木の生い茂った山といえども、里山だから3時間もあれば抜けられるが、ここで舟を乗り捨てると不味い。もしも2人を縛ったまま残したら、やがて通りがかる舟に発見されて、後はこの2人の言い立てる事が通ってしまうからだ。たとい2人を殺しても、俺達がこの舟に乗り込んだ事は舟着き場で知られているし、途中行き交う舟の連中にも知られているから、俺達が下手人だと直ぐにわかる。どっちにしても、俺達はお尋ね者になってしまうのだ。さりとて、ここで通りがかる舟を待っていては、川のものは大抵繋がっているから、連中の仲間にやっつけられるのがオチだ。
 どうにかして、この舟で舟着き場まで行かなければならない。もちろん、そこには、荷物を受け取る予定の者が待っている筈だし、他にも青河の闇連中が潜んではいるが、同時に役人もいるし、なんと言っても衆目がある。舟街で濡れ衣を着せられる不安はあるものの、これよりマシな方策が見つからない。だから行き先はどうしても衆目の多い街だ。でも、行き先の街は上流にあたる。そして青河は結構幅があるから流れも速い。
 笙娘は男だから櫂を持つ力ぐらいはありそうだが、この若さでしかも坊ちゃん育ちだから不安が大きい。といって家内に櫂を持つ力は無いだろう。俺が主に漕いで、笙娘にも少し漕いでもらい、家内に進路を見させてはどうか。そう相談しようと
「おい笙娘、お前なら・・・・・」
漕げるだろうと言いかけるのを、笙娘が
「戻りません?」
と女声で遮って来た。そっか、その手があった。下りなら早い。水路は覚えている。
 それにしても俺も軽率だった。格闘に勝った安心感から、笙娘を危うく男として扱う所だったのだから。敵の2人を生かすと決めた以上、相手が聞いているいないにかかわらず、笙娘はあくまで女として扱わなければならない。特にこの2人は洪家と繋がっている可能性が高いのだ。健忘症のせいで、確実に騙せるチャンスをみすみす逃す所だった。

 舟は、舳先の錨を軸に川の流れに任せて流されている。ここで錨を上げるには、まず舟を錨の真上まで漕ぎ上げなければならない。俺と家内とで櫂を持ち、とりあえず漕いでみたが、水流が強くてなかなか上手くコントロール出来ない。見かねた笙娘が
「あたしにやらせて」
とやって来て家内から櫂を受け取った。坊ちゃん育ちで女のような容姿でも、中身はやっぱり男だ。腕力が違う。しばらくして舟は少しだけ動きだした。その間に家内は舟の向きをコントロールする術を手探りで調べていたが、錨を上げる前に笙娘が再びアドバイスしてきた。
「ここで向きを変えるのは却って危ないから、もっと内側の流れの弱い所まで漕ぎ上げましょう」
確かにそれが良い。伊達に学問をしている訳ではなさそうだ。
 錨を上げ舟を水流の弱い所になんとか入れるのに30分以上かかったが、とにかく俺達は舟のコントロールの成功した。もしも緑河で簡単な手ほどきを受けていなかったら、とうてい俺達だけで舟を操る事は出来なかっただろう。この分だと流れに逆らって漕ぎ上がるのも難しくないかも知れない。取り合えずカーブの終わりまでゆっくり漕ぎ上げると、その先に逆向きのカーブが見える。内側に河原が見えるから流れは弱そうだ。山もそこで終わっているから、そこからは平地の緩い流れだろう。結局、行ける所まで行ってみる事にした。幸い、まだ流れは弱い。
 途中で弱向きに流れに乗る形で川を渡って対岸につき、そこから岸沿いにゆっくり上る。そういう風に苦労して櫂を漕ぎながらこの先の事を考える。このまま街に着いたら、成り行き上、この2人が女を乱暴しようとしたと言って役所に突き出すしかないが、その場合とて役所は青河の連中とつるんでいたら一巻の終わりだ。唯一の方法は袖の下だが、一体いくら積めば良いのか。幸い手持の路銀は多いが・・・顔役からと緑河からと州都までの分を貰っている・・・それで足りるかどうか。そういう心配をしながらも、舟は何とか街に着いた。当初の予定より3時間近く遅れ、日没からも既に1時間近く経っていて、空に残光が僅かに残りばかりだ。幸い、舟着き場にかがり火があって、それでなんとか入港した。


第18回:冒険野郎(妻視点)

 港は野次馬が詰めかけていた。女2人が舟を操っているという噂を聞いて集まった連中らしい。これは嬉しい誤算だった。というのも、役人とのやり取りが楽になるから。読書人を相手に良人が商売をしているから、役人の性質は良く知っている。金と女。金は良人がどうにかするだろう。こっちの役目は女の色気と涙だ。最大限の演技で役人の同情を引けば、役人は悪いようにはしない。幸い、夜で顔が見えにくい。ベストの演技は、恐怖から逃れて緊張が解けた瞬間の表情だ。それをあたしだけでなく、若い娘がやると効果が倍になる。笙娘に出来るどうか? いや、笙娘なら出来る!
 岸に上がる前に笙娘に
「安堵の泣き姿を想像して」
と耳打ちすると、緊張からか、笙娘が急に緊張のオーラを放ったので、慌てて
「涙で誤摩化しなさい」
と更に耳打ちして、水で濡れた手ぬぐいを渡した。水の近くである事を幸いと、水で濡れた手で目の辺りを拭い、涙を拭ったように見せかける。あとは顔を隠して一緒に嘘泣きするだけ。涙は女の武器だが、嘘泣きぐらいは男にだって出来る筈。
 こっちの意を汲んで笙娘はわっと泣き出した。上手い。知っているこっちですら、本当の娘ではないかと思ってしまうぐらいだ。これで笙娘もまたひとつ女に近づいた。もっとも、泣き姿は女を演ずる為に必須な技量なのだから、ここで誤摩化せないようでは、いつかは女装がバレる。
 笙娘とあたしとで野次馬の同情を集めている傍ら、良人は役人3人にそれぞれ銀一両ずつ渡している。金を受け取りながら、こちらをちらちらをと見つつ頷く役人の様子からして、おそらく大丈夫だろう。案の定、その場の詰め所で
『娘が浚われかけたので止むなく船頭漕ぎ手を縛り上げたと』
という簡単な口書きを書いただけで
「今夜は遅いから明日吟味する」
と開放された。出る際に、積荷が減っていない事を確認する口書きを船頭に出して貰って後顧を拭う。荷物は役人が見張っている。船頭達2人が有罪となれば、船荷を官の手で没収出来るからだ。
 役人との別れ際に、何を思ったのか、良人は
「安易に舟に乗った私どもも注意が足りなかったと思います。娘を見ての出来心でしょうから、寛大な処置で構いません」
と話しかけた。これを聞いてびっくりした。連中はこっちから見ても緑河の連中から見ても敵なのに一体どうゆう了見だろう? 宿への道すがら尋ねると
「役人と闇商売がつるんでいたら、明日は逆転判決で俺達が悪者に仕立てられるかも知れん。その予防だ」
なるほど、確かにそうだ。つるんでいなければ問題ないが、つるんでいた場合は、こっちに妥協の余地がある事を見せておいた方が良い。いくら汚職役人でも、街である程度噂になった話で滅茶滅茶な判決は下せない。示談の可能性がある場合は尚更だ。
 だが、あの2人を野放しにしたら、緑河への注進を恐れて口封じに走るのではないかという心配がある。その不安を言うと
「いや、青河の連中にとって、船頭達2人が船荷を役人に押さえられたのは不始末だ。それに加えて俺達に秘密が漏れた等と云おうものなら、あの2人が青河の連中にやられてしまう。だからあの2人だけは俺達を追っかけたりはしないだろう。もちろん青河の連中は危険だけど、これはどのみち同じ事だ」
と説明してくれた。なんとも冷静で剛胆な判断だ。あたしの良人ってこんなに頼りになる男だったのか、とちょっと惚れ直す。横では笙娘も感心した様に頷いていた。

 宿に着くと、時刻が時刻だからどの部屋にも先客がいる。そこで、笙娘と2人で泣きまねを演技しつつ、良人が事情を話すと、宿の主人が気の毒がって、相客が1人しかいない小部屋をあてがってくれた。寝台は全部で3つだけ。そのうちの2つの寝台を使えば他の客は来ない。2つの寝台を使わせるとは宿の主人は商売がうまい。良人が寝台2つ分の宿代を払い、ついでに心付けをしつつ宿の主人に役人への対応法を尋ねると、
「なあに、もう鼻薬を効かせているってんなら問題ないですよ」
と言ってくれた。明日は簡単な事情聴取で終わりそうだ。
 部屋に入ると、相客は西方から旅して来たばかりの何でも屋だった。簡単な紹介によると、南蛮船に乗ってアラビアまで行き、そこで船を降りて、別の西洋人隊商といっしょに陸路こちらに戻って来たそうだ。今の朝廷は永楽帝の時代にアラビアに行った事がある。そのアラビアの話を西洋人に聞いて、これこそ商売のチャンスとばかりに冒険に出たそうだ。紹介が一通り終わると、彼は
「舟旅で難儀されたそうですね」
と今日の事件に話を振って来た。女性2人を残して危うく殺されるところだった事だけを良人が答えると
「こう言っちゃなんだけど、これだけ美しい女性を2人も抱えた旅で、ちょっと警戒が足りませんよ」
と忠告して、アラビアの様子を教えてくれた。彼の話によると、アラビアで女性2人に普通の男1人というのは、舟以前に有り得ない旅だそうだ。笙娘はともかく、あたしまで美しいと云われると気分が良い。・・・あれ、笙娘の方が自分よりも美しいって認めてしまって女として悲しくない?
 ちょっとだけモヤモヤした気分を感じているうちに、彼はどんどん話を進めて行く。どうやら長らく異国にいて、その武勇談を他人に話したくて仕方なないらしい。彼から逃れる為に直ぐに夕食に出たものの、彼もついて来て、しかも酒を一献おごるとまで言ってきた。冒険の話は確かに興味あるけど、今晩はそれどころではない。良人が
「いやあ、家内も姪も、疲れで酒どころではないですよ」
と答えてくれて酒の方はナシになったが、食事は一緒だ。疲れているだけでなく笙娘という秘密があるので、ちょっと気が重い。

 それでも、異国帰りの男が話してくれた事は面白かったし、なによりも役立つ話があった。それは異国の言葉を覚えるコツだ。彼に言わせると、自国の言葉・・・それは自国の文化、ひいては自分自身のアイデンティティーと切っても切り離せない・・・を忘れるぐらいに異国の言葉に没頭するのが、言葉を習得する最短の道だそうだ。これを聞いて驚いた。なんと、良人が笙娘に 
「気持として女になり切った方が女装は上達するぞ」
とアドバイスしている内容と同じだからだ。
 もっとも、あたし達の変装の間、良人もあたしも全然そんな事を意識していない。だから、自分がやっていない事を他人に押し付ける後ろめたさを若干感じていたものだ。でも、この冒険野郎の話を聞いて、その罪悪感が無くなった。もともと旅芸人から聞いた変装のコツだ。間違いのあろう筈は無い。それほどに、この冒険男のアドバイスは更に大胆だった。とにかく、没頭の為にはに、自らを異国人だと思って、己の持つアイデンティティーをあえて否定するぐらいまでに自己暗示を掛けるが効果的だと言うのだから。彼に言わせると、一旦習得したあとに、今度は自国の文化を異国の言葉で理解しようとする努力をすることによって、自国の言葉を新しい意味で思い出すのだそうだ。それによって自国の言葉もまた豊かになる。
 彼の話を女装に置き換えると、男である事を否定してしまうぐらいに女になり切ると、女装が上達するばかりか、再び男に戻った時に男が上がる、という意味だ。つまり、完全に心まで女になってしまっても、ちゃんと男に戻る事さえ忘れなければ、男に戻るには問題ないし、それ以上の効果も望めると言っているのだ。なるほど、今日になって良人が非常に頼りがいのある男に感じたのは、良人が女装を通じて、男を上げた為だったのか。良人の場合は女になり切った訳ではないけど、それでも効果は確かに出ている。そう言えば、あたしも昨日今日は普段に増して女らしく振る舞おうとしている。だから、より色っぽい筈だし、それは自分でも感じる。
 あたしたちですら効果があるなら、もしも笙娘が本当に女になり切ったら、それこそ男に戻った時に最高の男になるだろう。そういう男と親戚付き合い出来るのは楽しみだ。笙娘の娘ぶりの成長を楽しんだあとに、最高の男を身近に持つ。なんという贅沢だろう。そう喜んだ時に、冒険男が爆弾を落として来た。
「ああ、言葉と共に異国に染まって、母国を忘れてしまう奴も半数ぐらいいるな。俺ですら自分を見失いそうだったからな」
そう言って、如何に本人の心がしっかりしているかが大切かを説明して、同時に自慢し始めたのだ。
 話を聞くうちに青くなった。これを女装に翻訳すると、女としての自己暗示で問題がないのは、本人の精神が堅固な場合に限るという事だからだ。あたしたちは商売人として世間に揉まれ続けてきたし、何よりも変装の時限が短かった。でも、笙娘はどうだろう? そりゃ、洪二郎に追われて尋常でない環境に育った経験が認めるが、それでも若輩の世間知らずには違いない。それだけ強い精神があるのか? 間違ったら、それこそ恋童・男娼の世界に堕落してしまうかもしれないのだ。
 そう思いつつも、いや、と考え直した。家の再興という目標があれば大丈夫な筈だ。そもそも、自己暗示で恋童・男娼に堕落するようでは、良人の言い草ではないけど、洪二郎に対抗して包家を再興するなんで無理だ。あたしたちは心を鬼にして、笙娘を徹底的に女にすれば良い・・・その方があたしにも楽しいし。

 夜は3人一緒に同じ寝台を使った。相客には、今日の舟での恐怖を鎮める為に添い寝していると良人が説明したので、寝台が一つ余っている事に相客は不審を抱かなかったようだ。翌朝、出発準備を済ませると、3人揃って役人の詰め所に出掛けた。どの舟街にも闇商売の人間も常に潜んでいるから、2人組の捕縛の話は昨夜のうちに青河の連中に伝わっている筈だ。役人への対応を考えると、相手の動き出す前に話を付けた方が良い。
 詰め所に行くと、昨日の役人の上官らしき人が出て来たので、あたしが媚びの表情を見せてるうちに、良人がさっそく1両ねじ込んだ。笙娘を見ると、あたしに負けずに不安いっぱいの娘を演じている。しかも、よくよくみると、あたしの媚びの表情をしっかりと真似ているではないか。いい子いい子、その調子よ、と思う傍ら、漠然とした不安も感じる。女の直感。でもその不安が何なのか分からない。
 先を急ぐ事情と、行き先が匿名の屋敷であって、その名前を言えない事情を良人が言うと、
「お前さんたちは先を急ぎたいだろうから、ここはワシらに任せなさい。お前さんらに実際の被害は無いのだからな。連中が娘をかどわかそうとしていたのをワシの部下が取り押さえた事にしておくよ」
とにこやかに言って来た。
「ありがとうございます」
「この先も舟かね」
「舟はこりごりですので陸路を行きます」
こうして昨日の事件から放免となった。

 川沿いの街道を北に向かう。あたし達の住む街に向かう大きな街道・・・峠も低い・・・はこの2つ先の街だけど、少し峠越えがきついが近道があって、それが北西街道だ。峠が危険か川沿いの道とが危険かと言われれば峠が危険だけど、今日は違う。青河沿いは例の2人の仲間につけ狙われている可能性が高いからだ。少なくとも2人組に話した予定・・・青河沿いの大きな街に向かう・・・は、青河の連中に漏れていると考えて間違いない。となれば、舟だろうが川沿いの道だろうが、何処かで待ち伏せされている可能性はあるのだ。青河の連中は、裏金であの2人を出した後は、あの2人を痛めつけるに違いない。でも、それとは別に、組織の顔に泥を塗った相手も狙っている筈なのだ。
 とりあえず、カモフラージュの為に北に向かい。町外れに着いたところで、林の中に入った。手探り状態ではあるけど、このくらいの里山ならお手の物だ。人が歩いた獣道が縦横に走っているし、あたし達は旅慣れている。でも笙娘は違う。おっかなびっくり歩いている。うん、やっぱり笙娘は深窓の娘だ。暫く歩いているうちに少しは歩けるようになって来たけど、それでもやっぱり娘だ。そのうち笙娘が
「歩き慣れてますね」
と女声で声を掛けて来た。人目が無いところでも娘を装うとはえらいえらい。
 良人は
「ああ、荷物を抱えての長旅が多いからな。山路とかもずいぶん歩いたよ」
と余裕の表情で答える。
「すごーい」
なんの変哲もない会話なのに、突然、モヤモヤしたものを感ずる。女の直感だ。でも、それが何なのかはやっぱり分からない。
 里山を概ね越えて北西の街道が間近に見えたところで、今度は良人が
「そうそう、昨日の相客の話だけど・・・」
と、冒険男の話を引き合いに出して、自己暗示の話の始めた。ははあ、良人も、あたしと同じ事を考えていたんだ。夫婦一体とはこの事だ。そう思った途端、今までのモヤモヤが奇麗に消えて、
「そういえば、あんた、役所であたしの表情を盗み見ていたでしょう? なら、いっそのこと本物の娘になっちゃいなさいよ」
とあたしも突っ込んだ。笙娘は目を白黒させて絶句している。それに追い打ちをかけるように良人が
「自己暗示ごときで見失うようじゃあ、そもそも家の再興なんて覚束ないぞ」
と言ってきたので、あたしも
「でないと子供にバレるわよ」
ととどめを刺した。
 笙娘は
「あっ!」
と小声で叫んだなり、今度はうわの空の様子だ。どうやら、今まで実感していなかったみたいだ。あたし達の所に来ると云う事は子供と一緒に生活する事に他ならないのに。そして、口を塞ぐ事の不可能な子供に、秘密を知られる訳にはいかない事を全く考えていなかったらしい。

 北西の街道の途中にある峠を越えると、そこは緑河の流域だ。そこから小さな峠を越えて、ようやく我が街に帰り着いた。日没まであと1時間と言ったところだろうか。時間を優先したので、笙娘にも女らしい歩き方よりも速く歩く事を優先させたが、それでも一応は女っぽい歩き方になっているから、笙娘の飲み込みは早い。確かに素質はある。
 家に帰ると、早速隣人に挨拶して子供2人を引き取った。6歳と3歳。子供の口は塞げないが、その分、笙娘が裸さえ見せなければ、娘だと言いくるめて、それこそ噂として流す事が出来る。6歳ぐらいまでなら騙す事は可能な筈だ。というか、ここで騙せなければ、この先も危うい。


(作者より−女装アイテムの歴史の注釈)
中国が古来より記録好きで、歴史や思想の記録の多い事は知られていますが、その一方で民族史の資料は異常に少ない事は余り知られていません。王朝が何度も変わって戦乱が多かった為に最重要記録以外が散逸してしまったのでしょう。だから、西洋で古来からあった風習や衣料品が中国の記録にないからといって、それらの風習や衣料品が中国に無かったとは言えません。それどころか四大発明(火薬、紙、活版印刷、羅針盤)のように、近代ヨーロッパが発明(という名の大改良)をして有名になったものの起源が実は中国だったという事はありえます。それは女装アイテム(女性を感じさせる女性の為のアイテム)でも言える事で、ブラジャー、コルセット、脱毛がそれにあたる可能性が大いにあります。

ブラジャーはその原型をフランス人が19世紀末に発明した(現在の形が20世紀初頭)事になっていて、それ以前の歴史は疎かにされていますが、胸をサポートする類いの胸当ては古代エジプトから使われていて、それは中国でも例えば水滸伝では女傑の孫二娘がスポーツブラ状の胸当を使っている挿絵があります。金瓶梅(16世紀)の記述では、この胸当は女性が乳房を守る為の下着という事になっていて、現に、遼(10〜11世紀)の遺跡からは現代のブラジャーに似たデザインの胸当すら発掘されています。同じ胸当でも、女性下着としての地位は、同時代の西洋ではここまで大きくありません。従って、この中国式胸当が、フランスに渡って『特許』(あるいはルネサンス)という形でブラジャーになったと考えるのが自然かもしれません。

コルセットもブラジャーと同じく、古代エジプトやギリシャに原型が見られ、そのまま西洋で16世紀以降に現代的な形に発達した事になっていますが、これとて、シルクロードで繋がっている中国にコルセットが入って来なかった筈はありません。ただ、胸当と違って実用性に乏しいので、西洋人と違って元々体の細い東洋人にあまり普及しなかったと考えるのが自然でしょう。しかし、中国は女性が外見を重視するお国柄で、たとえば、中国春秋時代の楚の霊王が柳腰を好んだが故に、細くなろうと拒食して餓死した女官が多数いたという話が淮南子の『主術訓』に真面目に書かれているほどですから、コルセットが渡ってくれば、それと同じ機能をもつ服がデザインされただろう事は容易に想像出来ます。

最後に脱毛。これも古代エジピトから始まっていますが、コルセットやブラジャーよりも大きく普及したようで、たとえばアラビアでは沐浴の後に毛抜き屋というのがむだ毛の処理をしています。薬を使って抜きやすく(あるいは再生しにくく)して、その上で抜いていた様です。当然ながら昔の中国でも脱毛をしていたと考える方が自然で、現に唐代の絵に風呂屋と脱毛師の様子が描かれたものがあります。更に、鍼の伝統の長い中国では永久脱毛の技術もあったのではないかと考えられます。というのも男娼(中国は世界の中でも本場)だけでなく、権力者である宦官の需要が考えられるからです。たとえば、後発宦官(子供のときに去勢した志願者でなく刑罰で去勢された元犯罪人)が志願宦官を装う(前歴を隠す)為に、あえて脱毛する可能性は大いにあります。そして、この手の技術は弟子口伝の企業秘密だった筈なので、現代に伝わっていない事に不思議はありません。となれば、この門外不出の技術の一部が西洋に渡って、それが19世紀に「発明」された可能性は大きくあります。

イヤリング(耳飾り)は特に歴史が古く、記録だけでも古代ペルシャにまで遡れ、中国でも多くの記述があります。ちなみに、20世紀前半にクリップ式のイヤリングが発明されるまでは、イヤリング=ピアスで、要するに耳に穴をあけるタイプです。これは、入れ墨と同じく体を改造する類いの行為である事から、去勢同様に隣国日本では全く定着しませんでしたが、中国やインドでは全然平気だったようで、清代初頭の小説を読むと、上流階級や役者だけでなく、侍女クラスがピアスをしている記述が多数見られます。一方、欧米ではカツラを多用していた関係からピアスは殆ど普及しておらず、特に米国では20世紀初頭まで、ピアス=髪を伸ばせない奴隷の風習という風に見られていたようです。日本にピアスが入って来たのは米国経由ですが、19世紀までは、ずっと中国、インド、イスラムというシルクロード文化圏が耳飾り文化の中心だったと考えるべきでしょう。

中国が本場の一つという意味ではマニキュアも同様で、古くは女性の社会的地位を爪の長さと色とで決めていたと言われています。実際、農作業のような肉体労働者は、爪を伸ばす事はもとより、爪の染色(ホウセンカや金箔を使っていた)を保つ事は不可能ですから、爪が長くても生活出来るという事は、肉体労働が殆どなく、更に召使いにも恵まれている立場でないと出来ません。もっとも、裁縫や刺繍は上流階級の女性の仕事だったので、薬指と小指だけ伸ばすという事が多かったようです。


第19回:子供の目(笙娘視点)

 ずっと、その場その場を切り抜けるので精一杯で、筆屋夫婦の子供の事と、女装の事とは別々の問題のように思っていた。でも、よくよく考えれば筆屋の所に滞在するというのは、子供と一緒に女装で生活するという意味だ。虎口を脱し、いよいよ一時休憩の場所だと思ったのに、それどころではない。子供は勝手に部屋に現れては、いきなり抱きついたり服をまくり上げたりする厄介な存在なのだ。しかも滞在は長いはず。子供から見れば、半月も家を空けていた親が、椅子を温める暇無く次の旅に出る事は到底認め難いからだ。次の旅まで最低でもひと月は滞在するだろう。子供ゆえに長滞在になる事すら全く思いつかなかった。
 ひと月以上の期間となると、命の危険が直接無いだけに緊張が緩んでしまう。その間には隣家の女たちにも何度も顔を合わせるだろうから、露見の危険は子供だけでもない。そういった事情を考えると、筆屋が何度も自己暗示、自己暗示とアドバイスするのか分かる気がした。確かに、自らを年頃の娘と思い込むのが現実的な対策かもしれないのだ。それに、女を少し装ったぐらいで再び男に戻れないようでは、筆屋夫婦に言われるまでもなく家の再興なんて覚束ない。筆屋なんか女装を半月も続けたのに・・・しかも奥方の帰省に付き合うというつまらない理由だ・・・男に戻って3日も経たないうちに、おかまっぽい口調や物腰はすっかり無くなっているではないか。舟でのやりとりなんぞ、男らしくて格好よかった。
 そろそろ覚悟時かも知れない。少なくとも筆屋夫婦は
「完全に娘として扱い、娘としてしつけないと、近所の目が煩い」
と言って、旅の間以上に娘として扱う事を宣言している。実際問題としても、今まで以上に徹底的に年頃の娘を装わないと、とても長期間に渡って子供を騙す事なぞ出来まい。
 取りあえず、子供にひょんな拍子で胸や股間を見られないように、しっかりと胸当てを付け股間を何かで押さえつける事、尻や二重の服の下に綿入れを当てて柔らかい女尻を作る事、そして、それらの変装を昼だけでなく夜も実行する事などが決まっている。もちろん、髭は毎日剃ってその跡を化粧するし、すね毛や腕手の毛も剃って白粉を塗る。下肢は着物で隠れているとは言え、子供はいつでも裾をめくるのだ。あと、一番鬱陶しく感じている、あばら骨を押さえる革布類(事実上のコルセット)だが、滞在の長さなとこれから本格的な冬を迎える事を考えて、奥方のアドバイス通り昼夜つける事にした。着用3日目の今日はそこまできつく感じなくなったし、こういう肉体的な拘束は、意識的に女になり切るよりは遥かに楽だ。まるであばら骨を纏足している感じだが、長い目で見ればきっと役立つだろう。
 そんな事を考えたり心配したりするうちに筆屋の家に着いて、ついに子供達に対面した。ただし、夜だから子供はちょっと顔を見ただけ。初対面は問題ない。勝負は明日から。だんだん不安が募って来る。不安が募ると、もっと徹底した女装が必要な気がして来る。例えば子供は気付かなくても、その子供から伝わる振る舞いに近所の女たちが疑問を持って覗き見する可能性がある。女は好奇心の塊なのだ。深夜に筆屋夫婦と再相談した結果、覗き見されても女らしく見えるように、簡単な纏足もする事にした。もちろん骨を砕いたりはしない。単に締め付けるだけだが、それでも覗き見の対策ぐらいにはなる。それに、舟での経験で、普通の娘でなく、か弱い娘と思われた方がいざと云う時に便利な事が分かったから、その意味でも纏足は悪いアイデアではない。

 こうして子供達と一緒に暮らし始めた。始めはおっかなびっくりで、いつ女装が露見するか気になったが、1日を無事に過ごし、2日を無事に過ごし、そうこうして3日経つ頃には、子供達はおねえちゃん(大姉)と言ってなつき始めた。子供はなつくとスキンシップを求める。それを避けるのは難しい。もちろん子供にスキンシップを認めないような雰囲気を醸し出している娘もいるけど、それは本物の女だからだ。女装して、女らしく振る舞う事に専念しながら、同時に子供を撥ね付けるオーラを出すなんて不可能だ。
 びくびくしていると、案の定、4日目には下肢を触ってきた。
「ざらざらしている・・・」
と言う6歳児の言葉におもわずぎくりとなる。どんなに丁寧に剃っても、僅かな触感だけは誤摩化せない。そして子供は小さなザラザラを見つけるのが得意だ。幸い、
「・・・白粉を付けてるんだー」
と勝手に納得してくれたので、露見は免れたが、白粉を下肢につけている事が近所の人にバレると、それはそれで厄介だ。とりあえず
「あ、さっき白粉をこぼしちゃったの」
と言って誤摩化した。
「お姉ちゃん、ドジなんだー」
とはしゃいだ子供は暫くして部屋から出て行った。
 ドキドキした心臓が収まったあと、子供に指摘された所を指でなぞる。殆ど無視出来るぐらいのザラザラ感だがmない訳ではない。母親の柔らかさに慣れている子供には十分だろう。白粉を拭ってよくよく見ると、毛穴の所だけが若干色が違い、鳥肌とまではいかなくても少し隆起している。毛穴の直ぐ下に毛が残っているからだ。髭でもそうだが、剃ると却ってザラザラになって、しかも剃り残しの毛で黒い斑点になってしまう。これを無くすには抜かなければならない。逆に、いったん抜いてしまえば白粉で誤摩化さなくても、薄い脂で十分だ。毛は一度抜いてもそのうち生える。男に戻る障害にはならない。
 夜、筆屋夫婦と相談すると、奥方が即座に毛抜きを貸してくれた。毛抜きは上流階級や中流婦人の必携品で、纏足よりも遥かに普及している。理由は白粉と同じ。肉体労働の下層民ほど色が黒くて毛深く、室内に籠る読書人や令嬢が白くて毛が少ないと昔から相場が決まっているから、誰もが上流階級に入りやすいようにと、白粉と毛抜きで本性を誤摩化すのだ。もっとも、中流階級の婦人が毛抜きを使うのは、せいぜい眉やうなじを揃え鼻毛を抜く程度で、上流階級のように体毛まで抜く事はしない。
 その夜、早速すね毛を抜いてみるが、痛いのなんの。奥方に言わせると、始めのうちは抜くのは痛いけど、次第に楽になるそうだ。それでも痛い事には変わりない。気の毒がってくれた筆屋が、腕の良い毛抜き師を捜してくれる事を約束してくれた。そう、わが中華に毛抜き師は少ない。体毛は元々少なくて見苦しくないからだ。これが毛抜きの本場のアラビアともなると、大衆浴場に必ず専属の毛抜き師がいると聞く。そのくらい、向うの人は毛深いそうだ。そして、毛抜き師達は、秘伝の脱毛剤・・・各種薬剤の調合が難しいらしい・・・を使って、如何に簡単に脱毛し、しかも次の毛が生えるまでの期間を長くするかを競っている。
 取りあえず、すねの下半分を抜き、翌日にすねの上半分を抜いて、漸く下肢が奇麗になった。もっとも、抜いた痕の痛みで赤く腫れて、滑らかな膚とは言い難いが、少なくともザラザラはしていないし、白粉を塗らなくても黒い斑点がないから、これなら子供に触られても安心だ。次は手の甲と二の腕だ。その次が太腿。試しに太腿の毛を数本抜いた時、恐ろしく痛かったので、これは最後だ。

 この頃になると、子供の口から近所の子供達に知られ、近所の奥さん連中の噂にも登るようになった。なんでも
『建前は姪だけど、どこかの娘を預かっているのだろう』
と詮索しているらしい。取りあえず安堵した。安堵と共に緊張が薄れて行くのを感じる。もっとも緊張の喪失は安堵だけが理由ではない。女を装うためには何処を注意すれば良いのか、それまで頭で考えていたのを、だんだん体が覚えてきたからだ。それは奥方からの注意が減っているのでも分かる。一日目は奥方が付きっきりで、5分毎に注意を受けていたが、毛抜き騒ぎが一段落ついた頃には1時間に1〜2回程度に減ってしまった。習い性とはよく言ったものだ。
 変化は筆屋夫婦の態度にも現れていた。始めはわざと女として扱ってきている感じがしていたのが、だんだん無意識に女として扱って来るようになってきたのだ。滞在7日目なんか、ちょっと重いものを運ぼうとしたら、奥方が慌てて飛んで来て
「腰でも傷めたらどうするの」
と一瞬真顔で言って来た。こっちは娘らしい動作を意識して運んでいたつもりだったから、なぜ注意されたのか分からず、きょとんとしていると、奥方は顔を赤くして
「あ、そうだったわね」
とかすかに言う。もしかして、本気で箱入り娘と思ってしまったとか? そういう疑問が湧くや、急に恥ずかしさがこみ上げて、こっちも顔が赤くなった。きまり悪いのか、奥方は
「あんたぐらいの娘は重いものは運んではいけないのよ、わかったわね」
どう見ても言い訳だ。ああ、穴に入りたい。そう思ってもじもじしていると、奥方は開き直ったのか
「いい子、いい子」
と頭をなでて来た。一瞬、自分が本当に娘になってしまったような錯覚がした。
 一方、子供になつかれると、自然と一人称も『アタシ(妾)』とか『笙娘』とか『大姉」となって来る。そして、それは段々と習い性になる。10日目ぐらいのある日、自分自身で考えている時ですら『アタシ』と口の中で口ずさんでいる自分を発見した。
 気付いた時は愕然とした。自己暗示を掛けようが掛けまいが、環境の影響で意識そのものが女になりつつある、と感じだからだ。毛を抜く事に何の躊躇いを感じなかったのも良い例だ。この戦慄を機に、自分の一日の思考パターンを復習してみると、針仕事にせよ、掃除や料理にせよ、女ならこうする、という思考でなく、他の娘に女の子らしさを自慢出来るには、こうした方が良い、という思考で行動し始めている自分を再発見した。女の仕草を学ぶと云う意味では正しいのだが、しかしこれは行き過ぎではないか。せめて夜ぐらいはリラックスすべきではないのか? そういう疑問が頭をよぎる。
 結果的に女装にブレーキがかかった。このまま自分を見失いたくないという恐怖が、露見することへの恐れを上回ってしまったのだ。露見はそんな時に起こった。

 ある日、知らない男が筆屋を尋ねて来た。筆屋が男に
「貴方にはお世話になるかも知れないから、笙娘を引き合わせておきましょう」
と言って家の中に招き入れた時、男はこっちの様子をじっくり見て
「おう、美しい娘さんですなあ」
と言って来たので
「お初にお目にかかります」
と挨拶すると、男は小声で
「でも、男と分かりますなあ」
と言って来たのだ。
 ちょうど『自分は本当は男なのに』という疑問を感じていた所だから、そんな事を考えていたのが外に出てしまったのだろうか。こんな事ではいずれはバレて追っ手に見つかってしまう。そういう恐怖と同時に、自分の意志・・・女装の貫徹の決意・・・の不甲斐なさを急に感じて、茫然自失としていると、横では筆屋夫妻は苦い顔をして、男に
「この娘は姪ですよ」
と言っている。男は
「ああ、そうですか」
ととぼけた様子だ。
 男は女装を完全に見抜いている。そう、秘密が簡単に他人の手に渡ってしまったのだ。あれだけ苦労した女装だというのに・・・。幸い、男は筆屋と親しく相談していたので、露見して困る相手ではないとは思うが、質の悪い連中に秘密を握られたら、洪家や青河の連中に知られる危険だけでなく、ゆすり等の新しい危険を抱え込む事になる。
 やがて男は帰って行った。来る時と違って深刻そうな表情で、何度も筆屋に感謝している。奥方が
「青河の事を教えて上げたのですね」
と言うと
「ああ、これで借りは返せたな」
と答えている。その様子から、男が緑河の連中ではないかと見当をつけた。筆屋と緑河の関係がどんなものか知らないが、青河での事件の時に緑河の名前を出したくらいだから、面識ぐらいはある筈だ。そこでカマをかけて
「緑河の方ですか」
と尋ねると
「秘密だぞ。・・・ああ、心配しなくても良い、俺達を助けてくれた事が一度あるだけの関係だ」
という答えが返って来た。なるほど、それほど深い関係ではないのか。筆屋は更に続けた。
「そう言えば、笙ちゃんの事も力になってくれるそうだ」
筆屋の気遣いもあろうが、秘密を握られた相手が味方と分かって安心した。
 不安の一つは取り除かれたが、もっと大きな不安が残っている。女装が簡単に見破られた事だ。筆屋の話からして、男がこっちの女装を始めから知っていたとも思えない。つまり、女装そのものが人目で変装と分かるレベルだったのだ。恐る恐る
「どうして男と分かったのでしょうか?」
と筆屋夫婦に尋ねると、
「雰囲気だと言っていたな」
と返って来た。これはもう技術でなく意識の問題だろう。
 女装や女の振る舞いなどの技術的な事は筆屋夫婦がサポートできる。でも、それでは不十分なのだ。心構えが女になり切れていないから、男の雰囲気を出してしまう。これを避けるには、自己暗示までは行かなくとも、少なくとも女である事を強く意識しないと無理なのだろう。ここが潮時かもしれない。女になりきれない故に露見して、それで包家を危うくするだけならまだ良い。でも、露見して筆屋夫婦に迷惑がかかってしまっては、それこそ取り返しがつかない。筆屋夫婦は何も言わないが、こっちは良心の呵責を感じ始めている。男なら、一時的に女になってりまうぐらいでジタバタするものではない。宮刑を受ける可哀相な連中に比べれば大した事ではないではないか。

 一晩考えて、ついに意識の上で男を捨てる決心をした。それもこれも女装を完璧にする為だ。本心ではなくても『本心』で女になる。いや、女になりたい、というべきか。そのくらいの決心をしないと、些細なこと・・・たとえば自分自身を『アタシ(妾)』と思う事・・・に抵抗して変な男意識を出しかねないのだ。それではいずれは女装が露見する。
 大層な決心ではあるが、半分ほっとした気分もある。中途半端な心持ちが一番危険だからだ。それに、正直なところ、女の武器・・・色と涙・・・の便利さを実感し、更に男だけでなく女からすら感じられる羨望の視線・・・美少女である事の優越感・・・を体験してみて、女と云う役がそれほど割の悪くないと感じているのだ。中途半端な心構えですら多少の快感があるなら、徹底的に女になり切ったら、どれだけの快感を得られるだろうか? 興味半分、期待半分の自分がいる。そんな興味を心の奥底で持っていたからこそ、自意識が女になるつつある事を昨日までは恐れていたのだ。でも恐れていては何も解決しない。


第20回:潜伏計画(筆屋視点)

 俺達が家に帰り着いて10日ほどした頃、ようやく緑河から連絡係がやって来た。どんな男が来るのだろうかと内心不安に思っていたが、蓋を開けたら何の事はない、連絡係は軽いノリの男だった。いや、軽過ぎると言うべきか。もちろん闇商売の全員がいかめしい男とは限らないが、それでも、壁に耳ありの街中で、笙娘が男ある事を口に出すとは軽率だ。よくぞ連絡係が務まるものだ。もっとも、闇商売の連中の実情というのはこんなものかも知れない。それに、彼にしてみれば、葉芯洋こと包庸鞘を俺達が連れ出したという情報だけで、俺達の家にいる娘を男と見抜いて嬉しかったのかも知れない。俺だって同じ立場なら口が滑るだろう。
 男との相談は長引いた。こちらから告げる事が多かったからだ。一つは、笙娘の行き先だ。顔役の奥方筋にあたる葉家について、緑川の連中に話すのは初めてだから、その経緯と共に教えなければならない。もう一つは、ここまでの旅と今後の見通しだ。脱出旅の際に俺達は変装を解き、代わりに筆屋でなく家具屋と名乗った事、包庸鞘を姪という事で連れて行った事、その延長で包庸鞘を女装させたまま笙娘として滞在させていて何時バレるか分からない危険がある事などだ。そうして、最後に一番重要な青河の組の裏切りについて説明した。これはこっちの身にも関わる話なので、どうしても詳しくなるし、いろいろな想像も披露する事になる。連絡係は青河組の裏切りを全く知らなかったと見えて、心配そうに根掘り葉掘り聞いて来た。
 一方、連絡係からの話は、家内の家族の安否と、街の顔役の家から葉芯洋(笙娘)が失踪した事件の顛末だ。家内の家族のほうは、包家が再興するかも知れない将来の事まで考えて、取りあえずが村から逃げない方が賢いので、今は秘密裏の援助で凌いでいるらしい。一方、葉芯洋失踪の件だが、緑河組が仕入れた噂によると、洪二郎は、顔役が親戚の家に逃がしたと思っているらしい。もっとも、洪二郎が葉家という行き先を既に特定しているかどうかは分からないそうだ。そこまで細かい事を調べるほど緑川は暇ではない。いま、ここで俺から話を聞いて、それから調べれば良いとでも思っていたらしい。尤も、当分の間は青河対策が大変だろうから、洪二郎どころではあるまい。

 緑河組の連絡係が帰り、肩の荷が一つ下りてホッとしたところで、ふと見ると、今度は笙娘が深刻そうな顔をしている。聞けば、訪問者に男とバレた事を心配していると言う。彼が緑河の者である事を教え、今でも味方である事を念押しすると、少しは安心したみたいだが、それでも不安を払拭出来なかったと見えて、女装がバレた理由を尋ねて来た。そんなの簡単だ。誰だって、こいつは男に違いないという疑いの目で女装男を見たら、それがどんなに精巧な女装でも、たとい去勢した男娼であっても見抜くのが普通だ。ましてや笙娘は男娼でも去勢者でもない。いかに、ここ10日ほどですっかり『娘』が板についたとはいえ、それでも改善の余地はあるし、雰囲気にも男のオーラが残っている。普通の人は騙せても、内実を知っている人の目を誤摩化せる筈がない。要するに足りないところだらけなのだ。でも、それをいちいち指摘したら日が暮れてしまう。俺は適当に返事しておいた。
 その夜、家内との夜話で、笙娘が女装の露見を気にしている件が再び出たが、家内はあっさり
「そりゃ、連絡係が笙ちゃんを男って始めから知っていたからでしょ?」
と言って来た。そう言われて初めて気がついたが、もしかすると笙娘は
『何の予備知識もない者が即座に女装と見抜いた』
と思っているのかも知れない。笙娘に緑河との繋がりは話しただろうか?
 思い返してみると、笙娘をあの街から脱出させた元々の理由・・・緑川の連中の要請だったいう裏話・・・はまだしていない。余分な情報を知り過ぎると、頭が混乱して変装に集中出来なくなり、それでボロを出すと思ったからだ。なんせ、裏社会の組織が笙娘を味方に引き入れようとしているのだ。どんな言い方であれ、そんな話を耳にした日には、誰だって不安になって注意が散漫になろう。それでは、この前のように難しい変装脱出ミッションは失敗する。だから黙っていたのだが、そのまま、無事にこの家に帰りついた後も、旅行の後始末でバタバタして、いつしか言い忘れてしまった。
「そりゃ説明しとかにゃならんかな」
と俺が尋ねると
「いいんじゃないの? ここ2日ほど、ちょっと女装がだらけている気がするから、ちょうど良い刺激だわ」
との答えだ。さすが女は細かい変化に敏感だ。何かを感じ取っていたのだろう。となれば、ここは黙っておくに越した事は無い。連絡係の話から想像するに、笙娘の女装は長くなる。笙娘の気合いを入れ直すのは悪くない。

 ちょうど良い機会だから、今後の見通しについて考えてみた。まず俺の運命。青河の事件が無ければ、徐々に緑河の連中との関係を切る事が出来ただろうが、今やもう遅い。青河の連中は俺をそのまま緑河のスパイに結びつけるだろう。もちろん、青河の秘密が緑河に知れた今となっては、全面抗争にならない限り、青河の上層部は俺には手出しするまい。しかし下っ端がどう暴走するかは誰にも分からないのだ。そう考えると最低限の武芸の必要を感じた。それは特に水の上で。舟の乗り方ぐらいは、そこらへんの池で訓練すべきだろう。釣りを装えば簡単だ。時間は昼休み。店は朝と夕方の2回開けて、間に長い昼休みを挟む習わしとなっている。その昼休みを充てれば時間は取れる。昼だから、暖かくなったら水練も始めたい。
 次に笙娘のこの先。行き先の葉家の安全を緑河組が確認するのは随分先だ。ひょっとすると5ヶ月後の試験の直前まで安全が確認出来ない可能性だってあり、その場合は試験直前まで笙娘を家に置くことになる。というか、それが最も現実的な予想だ。5ヶ月足らずの滞在の為に、安全確認の取れない葉家にわざわざ出掛ける価値はない。当初の予想を遥かに越える事態だが、ここまで来た以上、ハイさよなら、という訳には行くまい。毒を食らわば皿まで、人を助けるなら最後まで、と言うではないか。家内だって同じ考えだ。
 幸い、余分な生活費は例の顔役に貰っているし、さっきの連絡係も少し余分に置いて行ったから、金銭的な問題はない。連絡係に話した事で、青河の脅威も緑河の組が対応してくれる筈だから、この街の安全も確保されるだろう。となると、唯一の問題は女装をバレないようにする事。今までこそ何とか隠してはいるが、今のままではバレるのが時間の問題という気がする。実際、先日はすね毛が子供にバレそうになった。近所の噂好きな女達の目にかかったら、すね毛だけでなく、他の不自然な所か直ぐにバレてしまうだろう。今でこそ、旅の疲れだの慣れない街だのの理由で、なんとか人に会わせずに済ませているが、そろそろ限界だ。隠せば隠すほど、人は詮索する。特に近所付き合いではそうだ。女装がバレて困るのは笙娘だけではない。女装しなければならないほどの曰く付きの者を匿っていた事がバレると、俺達までも白い目で見られるのだ。それだけはどうしても避けなければならない。客商売では人の評判が命だ。
 翌日、俺達は滞在が長期になる事を笙娘に告げた。だから女装がバレないようにと改めて釘を刺すと、笙娘から驚くべき答えが返って来た。
「アタシもようやく覚悟が出来ました。一から娘修行をやり直そうと思います」
聞き間違えでなければ、笙娘はいま『アタシ』と言った。『覚悟』と言った。そして『一からやり直す』と言った。それは、自己暗示を掛けてみるという意味だ。偉い!
 俺にすら出来ない決意を笙娘がした事に感激して、何も言い切らずにいると、ようように家内が
「内向きの仕事、手加減しないわよ」
と祝福した。家内の声は少し嬉々としている。どうやら、俺のような真面目10割でなく、遊び半分の気分もありそうだ。笙娘のほうを見ると家内の口調にビクッとしている。家内の奴め、不謹慎だな、と思いかけたものの、こういう軽さこそが長丁場では重要だと気付いて、俺も
「気張らずに・・・むしろ楽しめよ! それが長持ちのコツだ」
と咄嗟に家内をフォローした。緊張顔の笙娘がくすっと少しだけ笑ったようだ。これで良い。その表情を受けて家内が具体的な指導内容を伝えた・・・立ち居振る舞いから針仕事や家事まで。せいぜい、しっかり躾けて貰おう。ここからは俺の立ち入る世界ではない。

 笙娘の覚悟が決まったとなれば事務的な話は早い。試験直前まで我が家に潜んで、娘修行の合間に試験勉強もする事が直ぐに決まった。笙娘の話によれば、今度の試験は、今まで学んだ事を復習する程度で良い筈で、一日3時間程度の勉強で十分だそうだ。その程度なら、普通の娘の行う社交の時間や気晴らしの時間を試験勉強に回せば、多少厳しい娘修行とも両立しそうだ。どのみち試験まで5ヶ月しかないのだから、この段階で慌てても意味はない。
 こうして笙娘の娘修行が始まったが、確かに家内は厳しい。娘らしくというだけでなく、上品な娘らしくという意味での躾だからだ。それは、家内よりも上を目指して貰う事を意味する。幸い、笙娘は顔役の所で育っているので、基本的な礼儀作法や洗練な所作というものは分かっている。こういった基本は男女に関係ない。あとは女の色香と娘の華やかさを作り出すだけ。でも、これが一番難しいのだ。というのも、家内の力だけではどうにもならない世界だからだ。それは俺自身の経験から痛感している。家内をいくら真似たところで、不完全な女装にしかならない。家内に無い部分までも女を演出して、はじめて女装がサマになる。だからこそ、俺は包家村に向かう往路で、村や街の娘達の仕草を観察した。そういう意味では、少なくとも笙娘には色々な女を見て貰わなければならない。そして、家内の苦手とする部分、例えば男を籠絡する媚びの表情とか清楚さのカモフラージュとかは、ひとえに笙娘の努力にかかっている。
 女よりも女らしい女装。それを追究すると、衣装や動作や喋り方だけでなく、体型もまた女性に似せなければまらない。否、女よりも女っぽい体型にしなければならない。もちろん、僅か5ヶ月足らずの滞在に、体型作りが意味を成すかどうかは分からないが、それでも出来る事は出来るうちにやっておくのが賢明だ。そもそも、女装が5ヶ月で済むという保証は無いのだから・・・。最悪、試験を受けられない可能性だってあるのだ。
 既に終わった童試一次試験では、笙娘は葉芯洋という名前を使っている。それは、包庸鞘の名前を出す事が既に危険だったからだ。そして、今では包庸鞘は指名手配犯にでっち上げれ、しかも、葉芯洋という名前すら、それが包庸鞘の偽名である事を洪家の者に知られている。その偽名を使った男が一次試験に合格している事だって早かれ遅かれ突き止めるだろう。となれば、洪二郎の手先が、二次試験会場に現れた葉芯洋を捕まえようとするに違いない・・・包庸鞘として役所に突き出す為に。
 葉芯洋にはアリバイがあるから、裁判になれば葉芯洋=包庸鞘の潔白は証明出来るが、怖いのはそんな事ではない。裁判に時間がかかるという事だ。特に、指名手配されている手前、直ぐに釈放という事は有り得ない。確実に試験が受けられなくなり、次の試験まで3年間の浪人となる。その間には、どのような工作だってあり得る。もちろん、牢役人の買収を通じて抹殺されたり、それ以前に暗殺されたりする可能性もあるが、洪二郎は直接殺人に手を染めるような男ではないから、もっと賢いやり方で合法的に・・・裏金は大量に使うが・・・抹殺するだろう。彼が得意なのは経済的に滅亡させるやり方だ。包家の時がまさにそうだった。人を殺すのに刃物はいらない、偽りの投機情報一回で十分だ。その手の工作を今回もされると、商売人の俺達だって巻き添えを食って危ない。

 笙娘がどのように洪家の目を逃れて試験を受けるつもりか知らないが、どう対策を講じても、試験を受けられなくなる可能性は十分にある。そして、試験を受けられない事態というのは、それこそ身が危険なのだから、とりあえず女装を続けるしか無い筈だ。そういう事まで考えると、ここは腰を据えて、体型作りや肌作りもした方が良いのだ。かくて、笙娘の決意の翌々日からは、娘修行に加えて体型作りも始まった。
 その手始めはあばら骨と足の締め付けだ。これらは笙娘の決意の前から始めているが、最近手抜きだったのだ。これからはきつめに締め付ける事となり、特に毎朝毎晩、俺が肋骨全体を締め付けるのを手伝う事になった。幸い、立冬前後の気候で多少の厚着は目立たないから、存分に布や革を使って締め付けられる。それだけのものを安全にかつ徹底的にするには他人の男の力が必要だ。押さえつけると言えば、喉仏も避けて通れない。二十歳前の喉仏は大人ほどには目立たないから、冬の襟巻きで隠せない事はないが、せっかく人目の無い室内で過ごさせているのだから、念を入れて首輪を嵌めて押さえつける。中華の国では首に装飾用の輪を嵌める事はあまりしないが、異国では腕輪や耳飾りと並んで立派な装飾用品だ。なので、首輪を嵌めた笙娘はそこまで異様な感じではない。尤もぴったりでもないから、その上に襟巻きを巻かせてカモフラージュすると、可もなく不可もなくというところか。似合っているという所までいかないのが悔しい。それは他の装飾品でもそうだ。理由を考えるに、おそらくデザインが娘に相応しくないのだろう。例えば日常的に使う髪留めだが、家内のそれはデザインがごてごてしすぎだ。若い娘には、もっとシンプルな方が、本人の魅力を引き出せる。そう思って安くて単純な髪留めを笙娘に買い与えた所、急に若々しい魅力が出て来た。やはりそうだ。余裕が出てきたら腕輪とかも買い替えよう。あとは爪。この10日余りで少し伸びてきたので、ホウセンカを塗らせ始めさせた。
 ここまでは良かったが、家内ときたら夜話に
「耳飾り(ピアス)をさせたたら完璧なのだけれどねえ・・・」
と言い出してきた。耳飾りをするには耳に穴を穿けなければならない。つまり元に戻せないのだ。纏足で足の骨を砕くのと同じ。その位に敷居が高いから、耳飾りさえすれは、確かに変装とは思われないだろう。確実と云えば確実だが、でも普通の男に戻れなくなる。
「おまえ、それじゃ本末転倒だろうが」
と嗜めると
「でも、一生を女装で過ごしたお役人もいるそうよ。ちゃんと子孫も繁栄していて、その子孫も女装しているんだって」
 そういう家系が蜀の地に居ると云う話は聞いた事がある。真という姓だった筈だ。物珍しがって、かえって嫁が簡単に見つかったそうだが、それは元々が有名な家柄の人だったからだろう。包家のような無名人では無理だ。
「それじゃ、お前はそんな男の所に嫁ぎたかったかい?」
と俺が言うと
「・・・うーん、やっぱり化粧する男って嫌だわねえ」
と降参してきた。無責任な奴め。こんな家内に笙娘を任せて良いものか少し不安になる。例えば笙娘の足も家内に言われるままにきつく締めているが、何時、俺の知らないうちに本格的な纏足になってしまうか分かったものではない。普通に歩けるぐらいにはなって貰わないと、いざと云う時に困るのだ。
 明らかに家内は笙娘の躾を半ば楽しんでいる。それは、長続きさせるという意味では決して悪い事ではない。だからこそ家内に任せているのだが、でも遊び過ぎは困る。特に、嫌がる者に無理矢理させるといううサド的な意味合いと、こんな時じゃないと出来ないぐらいの事を試したいと云う破廉恥な意味合いがあるらしいには閉口する。単純に成長を楽しむとか、せいぜい秘密の拡大にわくわくするぐらいに押さえて欲しい。

 体型や装飾品の問題以前に、女装で一番大変なのが皮膚のカモフラージュだ。すね毛等を抜くだけでも大変だが、毛を抜いただけで女の艶やかな皮膚になるわけでは無い。だから抜き痕の手入れ・・・脂とかを塗り込む事・・・は家内がやっているが、それでも、女の皮膚にはほど遠い。笙娘の若さをもってしても、皮膚は簡単には艶やかにならないのだ。それどころか、脱毛で膚を刺激したのか、一旦抜いた所から以前よりも濃い毛が皮膚の下に黒く待機して、しかも皮膚も硬くなっている。
 何か方法は無いだろうかと思っていると、数日後に耳よりな話を男娼から聞いた。今までは男娼という存在は避けていたが、脱毛の情報を集めるのに好都合だろうと思って、旅の途中の男娼とかの話も聞くようにしたのだ。俺の住む街にだって男娼や女郎はいるが、彼らに話を聞いたら、翌日には街中の噂になる。それを避けるため、旅の途中の流しの男娼を選び、しかも単なる話相手を装っている。名目は旅してきた街の治安とかを聞くというもっともらしい内容だから、誰も疑わない。そうして、話のついでにどうやって脱毛しているかを聞くのだ。
 10日ほどした頃だったか、とある旅男娼から耳よりな話を聞いた。彼が前日泊まった街の男娼から聞いた話として、ここから半日行程のところに腕の良い毛抜き師がいるという話だった。
「へえ、こんな田舎でも商売が成り立っているんだ」
と感心してみせると
「だって旦那さま、この小さな街だけでも芸者や女郎が何人居ると思っていらっしゃいます? 皆さん、若返りには興味がありますから」
と意外な事を言って来た。若返り?
「毛を抜くと若返るのかい?」
「単なる噂ですよ。そう簡単に若返られるものなら、そこいらじゅう毛抜き師ばかりになってしまうでしょう? でも、25歳を過ぎると藁にも縋りたくなるものなのですよ」
「そんなものかねえ」
「旦那様は女心がわかっていらしゃらない!」
さすが男娼だ。女心が良く分かっている。

 話を総合すると、毛抜き師というのは、とうの立った女が行くには自然な場所だが、年頃の娘が出掛けるには相応しくない可能性がある。実際の所はどうだろう? こういうのは件の毛抜き師と直接話してみるのが良い・・・果たして、笙娘が女の姿で行って他人に怪しまれない場所か、それとも変装の必要があるか? 幸い、急げば一日でギリギリ往復出来る距離だ。3日後に行ってみると、果たして山村に若い毛抜き師が住んでいた。先代から引き継いで2年との事で、抜いたあと、長期間生えて来ない為の秘訣を先代から学び、あと独力で、抜いた痕の処理を工夫しつつあると言う。男娼からの話の通りなので、毛抜きしたい男の子がいると伝えると共に、怪しまれるかどうかについて尋ねた。二三の問答の後、余り人目につかなければどんな恰好でも同じだとだけ教えてくれた。そして3日後に連れて来る事を約して帰った。
 翌日、さっそく笙娘に毛抜き師の話をした。笙娘は既に太腿まで一通り脱毛を終えていたが、二度目の毛が顔を覗かせ、しかもそれが抜く前より太く、笙娘自身が厄介に感じ始めていた矢先だった。腕が確からしい事を伝えるべく
「この一帯の男娼の間で有名な場所らしいぞ」
と言うと、笙娘は少し渋い顔をする。もしかしたら、男娼という言葉が刺激的過ぎたのかも知れない。でも、それが何だ。別に笙娘が男娼になる訳ではない・・・もしかして、意志不足でこのまま男娼になってしまう事の恐れているのか? そう訝しがっていると家内が横から
「あなた、良家の娘の前で男娼なんてはしたない言葉を使わないでちょうだいよ」
と文句を言われた。ああ、そうか。笙娘は男娼でなく娘だものな。体が目的の淫卑な男娼と一緒にされたくないのは当然だ。そして、この手の話題に対する娘らしい反応の仕方も家内は躾けていた筈だ。
 翌々日、笙娘と2人で毛抜き師を再訪した。朝早く真っ暗なうちに家を出て、明るくなる前に街から見えない所まで行く。恰好は、2人とも男女どちらでもとれるような旅装で、更に大きなベールをかぶせて顔を隠した。ついでに街の中だけは俺の歩き方も女っぽくして置く。これなら、朝の闇の中、出て行ったのが誰だか分かるまい。街の者は旅人の早立ちだと思うだろう。幸い、その日は、夕方しか店を開けない日なので・・・筆屋という商売柄、外商が5日に2日ある・・・店を閉めたままでも怪しまれない。もちろん午後も閉めたままになるから、その時までには近所の連中は俺が商旅に出た事に気付くが、人というのは習慣化した行為に対して余分な詮索はしない。俺が何処に向かったかなど誰も調べないだろう。
 笙娘は娘の恰好だからかなりペースが遅い。それでも早立ちが効いて、午後の比較的早い時間には山村に着いた。滅多に人の来ないこの村に旅籠はないので、俺達は毛抜き師の所に泊まる事になっている。着くと先ず、毛抜き師は笙娘を浴堂(風呂)に連れて行った。なんでも、風呂で皮膚が柔らかくなったところで、毛の手入れをするという話だった。唐代に栄えた風呂は、田地と人口が増えるにつれて、水を確保する目的から段々減り、今では山村に僅かにある程度だ。ここもそういう場所で、もともと寺の一部の浴堂が、寺が寂れたあとも村の財産として残っていた。水質が飲料に向かないぬるめの鉱泉で、しかも山に囲まれて薪に困らない代わりに農業に向かない土地ゆえに、浴堂が今も残っていたのだ。

 風呂上がりにさっそく秘薬とか言うものを笙娘の右手に揉み込み、暫くしてから鍼で毛穴を一本ずつ刺して行く。別に毛が抜ける訳ではないが、笙娘に言わせると皮膚が敏感になった気がするようだ。夕食後もまた風呂に入って秘薬を左手に揉み込み、鍼作業を続けた。毛抜き師の作業の間、俺は風呂の火の管理を任されている。翌日は朝から風呂に入って同じ作業を右すねで、昼前に左すねで施し、午後に太腿を右、左、と済ませると、夜には顔で同じ作業を施した。翌日、最後の風呂に入って、全身に別の秘薬を塗り込むと、そのまま帰路についた。都合2泊3日の湯治といった所だろうか。
 山路を降りて北街道にたどり着いた頃、笙娘の両手両腕から黒い毛がパラパラと落ちて行った。そして、その痕をなぞるとすべすべしたもち肌が現れた。それは女や子供の肌に近い。俺が感心していると笙娘も嬉しそうな顔をして
「ああ、これよ、欲しかったのは」
と無邪気に小声に出した。ふーん、女になる事への抵抗なんて無いのかな? そう訝しがって
「奇麗な肌ってそんなに嬉しいか?」
とからかうと、笙娘は顔を赤くして
「だって、子供達と安心して遊べるでしょ」
と言い訳してきた。可愛い!
 ふと、これが20日前だったら、笙娘は抵抗したいたんじゃないだろうか、と思う。そういう疑問をぶつけると、笙娘は恥ずかしそうに、でも毅然として言ってきた。
「そうだと思います。覚悟が出来ると、変化への感じ方も変わって来るんです」
思えば、随分遠い所まで来たものだ。美しいもち肌を望むのは、娘として当然だ。たといそれが一時的な女装であったとしても。

 毛抜きを終えてから、笙娘は日に日に可愛らしくなっていく。毛抜きの前は女の美しさ、仕草に美しさが日々に増していたが、それはどちらかと云うと芝居的な美しさだった。今は違う。女特有の可愛らしさが出てきた気がするのだ。スキンシップが怖くなくなったお陰だろうか、変装特有のおどおどした感じも、無理な背伸び感もすっかり消えて、自然に娘を振る舞うようになっている。
 笙娘が日に日に愛らしくらしくなって来るにつれて、家内までも色香が増してきた。家内が笙娘に手本を示しているのか、それとも笙娘の魅力に家内が刺激を受けたのか。女は好きな男の前よりも競争相手がいる時の方が魅力が増すという。それかも知れない。そういう意味では笙娘は確かに本物の娘だ。体格と喉仏の問題は残っているか、初冬の今は厚着と襟巻きで誤摩化せる。しかも部屋は薄暗い。いよいよ、近所の女達に紹介する時期のようだ。ここに来て、はや1ヶ月。近所の奥方連中も会いたくてうずうずしている。家内と相談した結果、店の手伝いとしてデビューさせる事にした。但し午前だけ。というのも、公用組は朝に来て手早く要件をすませ、個人組は夕方に来て居座る事が多い。しかも午後は一日の疲れが出るからボロも出やすい。朝が無難だ。


第21回:店の手伝い(笙娘視点)

 いかに決心をしたからと言って、そう簡単に心の底から年頃の娘になり切れる筈はない。それでも日を重ねれば、意識するせざるにかかわらず、振る舞いが自然になり、子供と接する際の警戒も緩くなる。そのせいか、子供達から
「お姉ちゃん、最近とっても優しい」
と言われるようになった。それは純粋に私を喜ばせ、それまでの作り笑いから次第に自然な笑顔が増えるようになった。そういう変化に子供達は敏感だから、ますます子供達は好意的にすり寄って来る。可愛い。子供をこんな感じで可愛いと感じたのは生まれて初めてかもしれない。
 人間とは贅沢なもので、子供への愛着を感じて以来、子供達とのスキンシップが出来ればどれだけ素晴らしいだろう、と思うようになってきた。そのスキンシップを妨げるのが手足や顔の剛毛だ。これさえ無ければ、と本当に思い、ますます剛毛が目障りになってきた。そう悩み始めて10日ほどした頃、出し抜けに筆屋から毛抜き屋の話があった。半信半疑で出掛けてみると、思いがけず素晴らしい。5年前の皮膚・・・子供の頃の柔らかい産毛だけの皮膚が戻って来たからだ。これが何日持つか分からないけど、少なくとも10日経た今も生え替わりの気配は無く、お陰で子供達と気楽に過ごせるようになった。
 スキンシップが怖くなくなると、安心して娘を演じる事が出来る。それは、子供達と無邪気なひと時を過ごせる事を意味する。無邪気になれるというのは、それだけで幸せだ。私が子供の頃は、既に洪家からの圧迫で伸び伸びと遊ぶ事は少なかった。それだけに無邪気な世界を憧れる気持ちは今もある。そんな待望の世界をここの子供達は私にもたらしてくれるのだ。少しだけ子供心に戻る至福は時を止めたくなるほどに心地よい。それもこれも、私が娘を演じている副産物だ。かくて、娘になり切る事は、意識するせざるにかかわらず、幸せを意味するようになった。逆に言えば、それは娘でなければ得られない幸せだ。女は自らに女を感じると笑顔が良くなる。私だって例外ではなく、自然な愛嬌が出るようになった。娘になり切る事が私に幸福な笑顔をもたらしたのだ。そこに、男を忘れてしまう事への抵抗なぞ無い。子供とのスキンシップが、確かに娘らしくなるのに効果的だ。
 女装に対する抵抗、もっというなら心から娘になり切る事への抵抗は徐々に無くなってきたが、それでも、奥方や筆屋から娘らしいと言われたら恥ずかしい。もっとも、男を否定された事に対する恥ずかしさでなく、自分が女を楽しんでいる事を見透かされているのではないかという恥ずかしさだ。そう、恥ずかしさの質が変わってきているのだ。だから、それが変装が上手くなったという意味の褒め言葉であると分かっていても恥ずかしい。昨日、奥方から
「笙ちゃんって、またまた可愛くなったねえ。主人も感心してたよ」
と言われた時だってそうだ。恥ずかしさで今まで以上に真っ赤になってしまった。男の癖に可愛い事が恥ずかしかったのでなく、可愛いと言われた事が恥ずかしかったから。そう、私は可愛いと言われて本心は嬉しかったのだ。まさに娘の心。でも、心底、娘になってしまった訳ではない。少しだけ残った男の心が、可愛いと言われる事を喜ぶ自分自身を、心のどこかで恥ずかしいと思っている。良いのか悪いのか? 包家の希望の担う者として複雑な心境だ。

 そんな事を悩む余裕もあればこそ、娘になりきる為のプログラムは着実に進んで行く。その一つが店の手伝いだ。話を聞いた時は今までに無く心臓がドキドキした。いよいよ公衆デビュー、何時までも部屋に閉じこもっている訳にいかない事ぐらいは私にも分かっていたけど、とうとうその時がきたのだ。奥方に言わせると、近所の女達に顔を見せてもバレる筈がないぐらいに私は可愛いそうだ。私はナルシスストではない積もりだけど、部屋の中なら十分に誤摩化せるだろうとは思う。もちろん不安もあるけど、娘を演じ続けるなら、いつかは試さなければならないのだ。
 店の手伝いは娘修行の、特に愛想の実地訓練とも言える。商い自体は筆や墨に詳しい筆屋でないと務まらないが、売る前に集客しなければ始まらない。そこで女を使う。男も女も、若い娘や若奥さんに興味を持つからだ。だからこそ、どの店も娘や妻を隠すような隠さないようなポジションに置いている。見えそうで見えないチラリズム(注:言葉は無くても概念はあるので使いました)。それが集客の秘訣だ。そういう役割を私にやらせようというのが筆屋夫婦の提案だった。もちろん、これが豪商とか顔役とか富農だと、女は奥に引っ込んで顔どころか声も掛けないのが普通だが、庶民は違う。現に、奥方は平気で来客にスナック(木の実や種)を出したり愛想を振りまいたりする。ちょっと高級な家でも、衝立ての奥で奥方が返事をし、上客にはお茶を用意する。もっとも、お茶を出すには竃に火をおこす所から始めなければならないから、商談に1時間以上かかる上客相手だ。
 私は嫁入り前の姪で、しかも筆屋夫妻よりは少しランクが上の家の娘という設定だから、衝立ての奥での対応が相応しい。そうして夫婦連れの客が来た時だけ、その奥方の暇つぶしの相手をするのだ。この他に、読み書きが出来る事を利用して、注文を読んだり、帳簿を書いたりするのも手伝う事になった。こちらは単純に嬉しい。筆屋夫婦にお世話になりっぱなしで、何か恩返し的な仕事をしなければならないと感じていたからだ。もちろん、店の衝立てて来客の対応をする仕事も、恩返しと娘修行を兼ねる意味で素晴らしいが、へまをして却って迷惑をかけるのではないか、という不安があるので手放しでは喜べない。

 いよいよ、私が初めて客の応対をした日、顔を出した1時間後には近所の者が集まってきた。人の噂は早い。こう云う事態を見越していたのか、筆屋は近所の者が集まる前に私を引っ込め、奥方が対応に出ている。初めての手伝いで熱を出したという言い訳だ。それで近所の者はすごすご帰ったが、いずれは私が対応する事になるだろう。でも、よかった。いきなりこんな多くの野次馬に押し掛けられたのでは、私も何をしでかすか分からないからだ。しかも、奥方ときたら、近所の女達に
「どうせ、あんたたちは買い物じゃなくて笙娘に会いにきたんでしょ? 商売の邪魔よねえ。まあ、いいわ。でも、その代わり、ちゃんと約束してね。普通のお客さんが来たら、商売の邪魔をせずに直ぐに帰るって。そして、一回に1人だけって。あの子、あんまり多くの人にいっぺんに会ったら寝付いちゃうのよ。わかった!?」
と、まくしたてている。これなら安心だ。
 それでも、翌日に近所の女の人に会った時は緊張した。初めてということで横では奥方がガードしてくれてはいるが、如何にも近所に顔のききそうな年増が、しきりに私の顔や服や腰や脚や足や腕を値踏みして来るのですっかり参ってしまった。針のむしろに座る思いで相手の視線を耐えたあとは質問の連続だ。出身に歳に縁談の有無、化粧の仕方とか肌の手入れとかも。答えは前もって打ち合わせしている通りだ。筆屋の従妹の娘で青河の下流から来た事、歳は16歳で、州都の商家の次男と縁談が進んでいるような進んでいないような状態である事などを話すと、だいたい納得してくれた。緊張でだんだんのぼせて来るのを感ずるが、これも娘修行の一環という事で、奥方はなかなか助け舟を出してくれない。
 なんとか40分ほど耐えたところで、今度は
「それにしても可愛らしいねえ」
と私の手を触ってきた。そう、年増の女というのは、不躾に若い娘の体を触るのが普通なのだ。こう云う時は半分だけ引っ込めなさいと言われている。そうしようとしたが、手が震えて少ししか引っ込められない。その様子を見た奥方が、ようやく
「ちょっと、この子、疲れてきたみたいなので休ませますね」
と言って、私に椅子から立つように促してきた。これには相手も手を引っ込めるしか無く、なんとか無事に私は奥の部屋に戻った。私がいなくなると分かるや、年増の来客は直ぐに辞した。
 こうしてやっとの思いでデビュー2日目を終えてたが、部屋に戻るや、そのまま寝台に倒れ込んだ。体が熱っぽい。明らかに緊張のし過ぎだ。結局2時間ほど寝込んで、目を覚ましたのは昼だった。でも、寝込んだのは結果的に良かったようだ。私が華奢だと云う噂が直ぐに広がると、2人目からは本当に挨拶程度の話だけとなり、こうして3人目、4人目と終わった頃には、奥方のガードが無くてもきちんといなせるようになった。余裕が出て来ると、笑顔も出せるし、相手に対して出来るだけ可愛らしく娘らしく振る舞おうという野望も沸いて来る。そうして10日もしないうちには、奥方に
「女の人への媚び方が上手くなったわよー」
と言われるほどになった。媚び方という表現にちょっと刺を感じないでもないけど、気にしない気にしない。
 私が寝込んだ噂は、筆屋の商売にも利益をもたらしていた。というのも、私に会いに来るだけだった女性達・・・大抵は年増の奥さん連中で財布のひもが固い・・・が、帳場で使う筆を一本ずつ買って行ったからだ。増えた客は女だけではない。華奢でなかなか出て来ないという噂のお陰で、普通の客も増えたのだ。衝立ての向うであっても、声は聞こえるし、運良く姿が見える事だってあり得る。男を引きつけるにはそれだけで十分だ。見えるか見えないかギリギリの領域だからこそ、人は惑わされるから。こうして、店はいつにない繁盛を見せるようになり、それに比例して、媚びや愛嬌を実践する機会の増えた私も、だんだん要領を覚えて、デビューから半月もした頃には自然に振る舞えるようになった。奥方ももはや私のガードなんかせずに自分の仕事をしている。

 朝と夕方の合間には長い昼休みがある。それは娘修行の時間だ。針仕事に体の手入れに家事。家事が結構大変で、如何に体を汚さずに掃除・洗濯・炊事をするかを学ぶ。店は、5日に2度は朝も閉めて筆屋が訪問販売に行くが、その時は、女のたしなみや遊びごとを学び、ついでに世の中の娘の間での流行を真似たりする。なによりも重要なのは娘らしい趣味と興味を持つ事だ。物語とが戯曲とかがそうだ。幸い、読み書きの出来る私は、書物から直接物語や戯曲を知る事が出来るから効率は良い。一方、筆屋は長い昼休みに武術を始めたらしい。なんでも、この先、どんな危険に巻込まれるか分からないからだ。元はと言えば私のため。申し訳ない気がすると共に、それこそ迷惑をかけない為にも、今以上に娘らしく、可愛らしく、愛らしくならなければならないと思う。
 それにしても、ここは娘修行に最適の場所だ。洪家の手から一番遠いので安心して娘修行に専念出来る。その安心感は女装に自信が付くにつれ高まるから相乗効果だ。安心出来る場所での子供とのスキンシップが更に無邪気の世界に誘ってくれる。それでいて、近所の目など女装への適度の緊張があり、しかも女の表情を学ぶ相手に事欠かない。特に店の手伝いを始めてからは、多くの女客に会うお陰で様々な女の表情を学ぶ事が出来るようになった。はじめの数人こそ、余裕が全然なくて観察なんでとても出来なかったが、半月も毎日誰かに会っていると、相手をこっそり観察する余裕が出て来るものだ。すると驚くべき事に、ひとりとして同じ『女の武器』を持っている者がいない事に気付く。ある者は目の表情、ある者はえくぼ、ある者は声、ある者は話題、首、髪、肩、丸み、肌、手、、、、女には百以上の魅力があるのだ。それをタダで学べる・・・否、盗めるのだから、これ以上の女塾はない。女の敵は女とは良く言ったものだ。私に至ってはそれ以上の敵かもしれない。元来が男だから、男から見た魅力が即座に分かるし、その魅力の源泉を同時に娘の目で観察しているのだから。
 私に余裕が出て来ると、これまた噂があっという間に流れて、訪問客がだんだんと無礼講になってくる。さすがに触って来る者は少ないが、代わりに「貴女なら、もっと飾りものすれば良いのに」
と言って、自らの飾り物を外して、
「ちょっと、これ、試してみなさいよ」
と、私に付けようとするのだ。そうして、散々褒めた挙げ句、飾り物を回収する時に
「貴女も、そういうのを叔父さまに買って貰いなさいよ」
とそそのかす。言わば、体の良い玩具だ。もっとも、私はそれを嫌だとは思わない。というのも、それは彼女達が私を娘として・・・魅力的な娘として・・・認めた事を意味するからだ。要するに女装が完全に成功しているのだ。嬉しくない筈はない。もっとも、嬉しさの理由はそれだけではない。美しく可愛く、ライバルたちから羨まれる存在になりたいという、年頃の娘として当然の望みを、恥ずかしながら、私も持ってしまったのだ。だから容姿を褒められると嬉しいのだ。私には女心が芽生えているらしい。
 こう云うさっくばらんな日々が何日か続くと、とうとう訪問客の中に、私が纏足をしていない理由を聞く者が現れるようになった。纏足は中流以上の女なら誰でもやっている事で、特に私ぐらいの美人・・・自分で言うのもなんだけど客観的にはそうなる筈だ・・・なら纏足をしないのがおかしい。それ故に私にとっては一番の泣き所でもある。最悪、纏足をしていない事実から女装がバレる可能性すらあるのだ。幸い、誰もが相当の事情がある事を推察して、今まで私への質問を控えてくれていた。でも、それも終わり。自然に質問を受けるようになったのだ。始めての質問は答えるまでがドキドキしたが、一度模範解答をしてしまうと、2度目からは怖くない。その答えは、変な理由をつけるよりも両親の方針で理由は知らないとだけ答えるのが無難で、大抵の人はそれで満足する。そもそも、奥方だってしていないし、訪問する女性の4分の1も纏足はしていないから、私だけが異端という訳ではない。そんな訳で、纏足をしていない事を理由に、変装を疑われる事はなかった。

 店に出るようになって1ヶ月近くたつと、いつしか、彼女達が帰る度に、男だった頃には有り得なかった幸福を感じるようになっていた。優越感と安心感。自分で言うのもなんだけど、基本動作はおろか、細かい指使いや息づかいまで可憐になった私は、そこらへんの娘よりは女らしいと思う。そういう自信に加えて、来客が容姿をいつも褒めてくれるという事実は、お世辞を差し引いても、私の美しさと可愛らしさを保証している。子供達までも
「うちのおねえちゃんが、最近とっても奇麗になって、優しくなって、大好き!」
と言い振らしているみたいだから間違いない。だからこそ、優越感を感じるのだ。女としてこんなに優越感が味わえるなんて、男を捨てる決心をして本当に良かった。もしかすると、ずっと女のままでいた方が幸せではないかと思う事すらある。私だけの人生を考えたら、あるいはそうかもしれない。でも、筆屋夫婦がここまで女装を助けてくれているのは、包家再興という大きな目標があるからだ。それは忘れてはいけない。そうは分かっているものの・・・。
 女装でずっと過ごしたほうが楽だな、という煩悩が生まれたせいか、最近は受験勉強に身が入らない。最後に本格的な復習したのは4日前だっけ? 今日ぐらいは読まなくちゃ、と思いつつも四書五経よりも体の手入れや針仕事などに気が向かう。もっとも、淑女の教養として論語ぐらいは読んで置いた方が良い。だから、最近の勉強は、受験の為の復習と云うよりは教養の為の復習になっている。でもいい、今の私は包家の事を棚上げにして女を磨く事に専念すれば良い筈なのだから。
 もっとも、一旦復習を始めると私は真面目だ。短い時間だから集中して本を読めている。本を読みながら私は自分の記憶力の良さに安心し、模擬試験問題の小論文を書きながら、要領よく書くコツを得ていると自惚れる。独学の場合、自惚れるか落ち込むかのどちらかだが、女の為の教養という気分を半分引きずっている私は、自然と前者になるようだ。いや、確かに、世の中の娘達と比較したら、私はとびきり教養が優れている筈だ。大家の娘の家庭教師ぐらいには十分になれる・・・。
 そう思った時、新しいアイデアが忽然と浮かんだ。

 これより10日ほど前、筆屋が見知らぬ旅人を家の表(注:来客用の場所)に泊めた際に、旅人が持っている本を一晩で写本してしまうように言いつかった事がある。本は東の島国の昔話の簡約だそうで、筆屋が旅人に売ってくれと頼んだら、10両も要求されたので、妥協案で2両で写本する事で話が決まったという代物だ。そこまでして手に入れた理由は、『替性奇伝』(『とりかえばや物語』)という表題と双子のような男女貴族の絵が書かれていた表紙だ。果たして、写本した中身は男女が変装で入れ替わった話で、しかも最後は元に戻るハッピーエンドだった。あとで話の筋を筆屋夫婦に教えると、後日、家内が表紙の挿絵を作り直してくれた。もはや立派な本だ。金持ちに献上したら5両の値打ちはあるだろう。
 この古小説を読んだ時は、彼女らの苦労と、目出たい結末だけに目を奪われていたけど、今、別の場面が気になり出した。それは、女装の主人公が、内親王の世話役になって、結果的にその内親王に子供を産ませたという下りだ。そう、私も、身分ある人の娘の侍女となって、その娘をモノにすれば良いではないか? 
 我が中華では身分ある娘は男に姿をさらさない。だから娘に家庭教師を付けるのも7歳ぐらいまでで、それ以降の知識源は親兄弟か侍女だ。でも、侍女できちんと教えられる者は皆無だし、男の兄弟がいなければ兄弟から知識を得る事も出来ない。もちろん『女は学なきこそ良けれ』という風習はあるが、そこは親心、賢しい娘を持った親なら、或る程度の知識を授けたいと思うのは人情だ。だから侍女と云う名の家庭教師を雇ったりする。
 私ならこの侍女に完璧ではないか! 学問だけならどの侍女にも負けない。となれば、一人娘しかいない権力者の家に入り込んで、そこの娘に近づくチャンスがあるのだ。そして、まさに『とりかえばや』の伝える通りに娘と関係を持てば、その子供は包家の跡継ぎであると同時に権力者の孫だ。もちろん、これは非常識な事実婚だから、娘が勘当されるかも知れないが、それは外聞の為であって、一人娘を内々に援助する事は目に見えている。となれは、私の子供はいずれは権力を持つ立場になれるだろう。このように包家の血が権力者に守られるのなら、私なんかどうなろうが構わない。ここまでシナリオが見えて来た時、私は、自分がもっと女らしくなった方が、包家の為になる事に気付いた。男に戻る必要なんて全然無い!

 男に戻る必要を感じなくなると、もっと女にしか出来ない体験をしたくなる。たとえば耳飾り(ピアス)だ。実は、店に来る女客のうちに数人が、耳飾りを私の横にかざして
「貴女の耳に穴があけてあればねえ」
と惜しそうに言って来ているのだ。それを何度か聞かされると、私の女としての競争心が刺激されて、耳飾りが出来たら、どれだけ鼻が高いだろうか、と思ってしまう。もちろん、耳に穴をあけたら普通の男には戻れない。それでも耳飾りをしてみたい衝動にかられてしまうのだ。別に私は耳飾りが女を美しくするとは思っていないし、それが男を引きつけるとも思っていない。でも、他の女への見栄として、ひとそろいの飾り物を付けてみたい気はするのだ。女というのは、そうやって女同士で密かに自尊心を育て嫉妬し合う存在だ。そういう私だって、魅力的な女を見るとちょっとだけ嫉妬みたいなのを感ずるようになった。ここ数日の事だ。それに気付いた私は、余り女になり切ってしまっては戻れなくなると自らを縛めたものだ。
 でも、家庭教師のアイデアを思いついて、新しい可能性が開けてきた。子供を作る以外に男としての用事がないのなら、耳飾りも構わないではないか? 纏足だってそう。体型だってそう。・・・さすがに行動に移す事はためらわれたけど、もう少しだけ女に近づいても、女の心や体に近づいても構わないのかもしれない。女らしい嫉妬心を持てば、少なくとも侍女(家庭教師)の奉公に上がる先では怪しまれない。もっとも、今の体型では侍女になるのは不十分だ。絶対に他の奉公娘にバレる。となれば、当面の目標は体型を女っぽくする事だ。それは無駄な努力ではない。実際、私の体型は少しずつながらも女のそれに近づきつつあるのだから。それがこの2ヶ月のもう一つの成果だ。

 まず肋骨、革と布とで2ヶ月近くも肋骨を締め付けたせいか、少しずつ細くなっている。その証拠に、毎日締め直す際に、必要な革布が段々短くなって、ここに来た当初に比べて肋骨回りが5センチ近くも細い。奥方に言わせると、若くて骨が柔らかいから簡単に縮むのだそうだ。のど仏ですら押さえつけた効果が少し出てきたみたいで、最近は女声を出すのが楽になってきた気がする。もっとも足先の方は変形のせいで少し痛みを感ずる。最近は余り気にならなくなったが、慢性的な痛みはある。そういう不具合はあるにせよ、2ヶ月でも成果を実感するのだ。となると、これから先どれだけ女の細さに近づけるか興味が出て来る。そうして、自分にとっての理想の体型が何であるかを考えるようになる。その流れで、今では交流ある女性達の体付きを、私の将来の目標として見るようになっていた。プロポーションの良い女性を見ると目が釘付けになる。
 男だった頃の2ヶ月前だって、プロポーションの良い女性に目が釘付けになっていた。そういうイイ女を手に入れたいと切望する意味でだ。男なら当然だろう。でも、今の私は、全く反対の意味でプロポーションの良い女を手に入れたいと切望としてる。そう、反対の意味でだ! そう気付いた時、私は自分の心の変貌に一瞬たじろいだ。私が女になりたいのは文化的な意味であって、肉体的な意味ではない筈。なのに、もち肌に喜び、腰のサイズに一喜一憂し、そうして女のシルエットを切望するようになってしまっている。どうして?
 ・・・好むと好まざるとにかかわらず、現在進行中の努力に目標値があって、しかも、その目標値を既に達成している他人が目の前にいたら、その人を羨望するのは自然な情だ。恥ずかしがる事なぞ何も無い。努力の過程として必然ともいえる。その際、本心が何を求めているかというのは些細な問題に過ぎない。そもそも、女のシルエットこそが本当の意味での女装なのだ。服や装飾品や仕草だけでは所詮は男とバレてしまう。
 女のシルエットを求めるという事は、足や肋骨以外もどうにかしなければならない事を意味する。例えば太腿、例えば肩。それらも細くしなければならない。だから、実は、これらの部位も、毛抜き旅行の直後から革や布で押さえつけるようになっている。当初は全身がぎこちなく感じたが、今では革を上から締めた分ぐらいは縮んでしまった感じだ。
 締め付けるべき所を締め付ける一方で、尻だけは緩めにしている。肋骨も胸だけを緩めにしている。本物の女性のように膨れる事はないけど、それでも膨れたらいいなと夢想する私がいる。女のシルエットに不可欠だからだ。それに、しょっちゅう子供に足とか腕とか触られていると、尻や胸も触れられても良いようになりたいと思うのは自然な感情だろう。もちろん思い通りにならない。簡単に女の体型が得られるようでは、後宮から男を閉め出すなんて不可能だろうから、こればっかりは無理だ。
 不可能な所を除けば、毎日の手入れが効いて、体型や髪の毛が少しずつ女のそれに近づいている。それを実感するにつれ、気分も華やいで来る。そういう華やいだ気分で、筆屋一家の様子をみると、真冬だと云うのに家全体が華やかになった気がする。いや、気がするだけでなくお客さんが
「お店が明るくなりましたなあ」
と言うし、近所の噂にも家が華やかになったという話題が出ている。そのオチは若い娘がいる家は違うというものだ。顔役の義父の所でも体験したが、確かに若い娘がいるかいないかで家の華やかさは違う。ということは、私は若い娘になり切っているという事だろうか? そう気付いて私は単純に嬉しくなった。2ヶ月前なら複雑な気分になっていただろうけど、今は清流のように心が流れているから、素直に喜べるのだ。
 もっとも、家を華やかにしているのは私だけではない。奥方もまた、日に日に色香が増して来ているのだ。そのせいか、筆屋は最近なにかとデレっとしている。もちろんデレっとしていていると同時に男の魅力を出しているから、そういう効果もあって家が明るくなっているのだ。その事を筆屋に言うと、
「ああ、それはお前のお陰だ」
と嬉しそうに言ってくれた。褒められてこっちも嬉しい。

 家庭教師のアイデアを思いついて数日後、2ヶ月前にやってきた男が再び筆屋を尋ねて来た。彼が緑河の闇商売の者である事はこの前聞いているから、私は恩人の筆屋が闇商売に深入りしそうで不安だったけど、密談を終えて彼が帰ったあとに筆屋が教えてくれた真相は、そういう私の浅はかな望みを完全に打ち砕くものだった。なんと、洪家との対抗上、包家を再興させる為に包庸鞘を助けるという目的が先にあって、それに筆屋が巻込まれたというのだ。筆屋に対して改めて申し訳ないと思うと共に、包庸鞘という名前に懐かしいものを感じた。私の遠い遠い昔の名前だ。せっかく娘になり切っている今となっては、その名前は本当に遠い。少し前の私だったら、その名前を聞いて娘になる決心がぐらついたかもしれないという、危険ですらある名前だ。そう感慨に耽っていると、奥方が
「前に会った時に、あんたの事を男って言ったでしょ? もともと知っていたのよ」
とバラして来た。なんだって? あれは露見ではなかったって? あれを露見だと思ったからこそ、あれほど重大な決心をしたというのに!
 そう思う一方で、あの時の決心を良かったと思う私がいる。確かに娘になり切れた。娘の立ち居振る舞いだけでなく、娘の思考を手に入れた。代償として、ぶら下がっているモノを除けば、男の要素なんか全然なくなってしまったが、後悔は無い。娘に生まれ変わったお陰で、今まで10年以上感じていた不安から開放されたのだから。しかも女達の羨望というおまけまでついて。緑河の流域であるこの街に居る限り、青河の連中に追われるかも知れないという不安もない。だから、筆屋が続けて
「騙された気分か?」
と問うたのには、首を横に振って否定した。
 私の答えに満足したのか、筆屋は続けて
「旅に出て貰う。行き先は西だ」
と宣言した。それは私を陰謀の中心に引きずり込むものだった。


第22回:笙娘の変貌(妻視点)

 笙娘の魅力は日々増して行った。少女から美少女、美少女から可愛い少女、そして、今は女の愛嬌が自然に出るようになって、華やかさのある愛らしい娘に変貌した。この愛嬌ばかりは男娼には無理だ。笙娘は本物だ。躾をしたアタシも鼻が高い。スタイルだって少し細くなって、女らしい華奢な感じが出始めている。若いと云う事はそれだけで凄いと思う。と同時に、その若さを既に失ってしまったあたしと比べて少し羨ましくも感じる。男の癖にあたしよりも奇麗で華やかなんてずるい! そう思うと、ちょっと悔しい気がしないでもない。こうなったら、意地でも本物の女の凄さをみせてやらねばならないと、あたしも最大の媚びと愛嬌を家の内外に振りまいた。嫉妬? いやそんな、男に嫉妬しするなんて女の恥だ。女の敵は女だけ・・・そう思いたい。
 嫉妬なのかどうか分からないモヤモヤしたものを感じつつも、笙娘のお陰で店が繁盛する事実だけは素直に有り難い。だから、時折、笙娘がこのまま我が家の娘になってくれるといいな、と感じたりもする。もちろん良人の言うようにきちんと試験に通って出世してもらって、長期的見返りを考えるが筋だろうけど、目の前の繁盛と言う事実には坑がい難いのだ。そう思うのはあたしだけではあるまい。女と云う生物は、現在を大切にするのだ。
 そんな複雑な気持を持ち始めた頃、2ヶ月ぶりに緑河の連絡係がやってきた。2ヶ月も連絡がなかったという事は、青河対策が大変だったのだろう。彼が帰ったあと、良人は緑河との関係が先にあって、その繋がりで包家を助ける事になった事をついに笙娘に説明した。いつかは話さなければならない事だから、今が潮時だろう。となれば、笙娘が娘になる決心をするきっかけになった露見の話もしておいて悪くない。最近の笙娘は娘である事を半ば楽しんでいる様子が見られるけど、それが本物かどうか? それを計るのにちょうど良い暴露話だ。そう思ってあたしが真相を話すと、笙娘は少し驚いた様子を見せつつも、あの時の決心をしっかり肯定してきた。笙娘が現在を束の間の幸せを感じているのが見て取れる。それは包家村に家族を置いてきたあたしとしては頷けるものがある。身の安全こそが安心出来る幸せの第一歩。ここで娘として生活する限りそれは保証されている。もちろん、そんな生活が何時までも続けられる筈がないが。
 緑河の連絡係は、包家村の家族が無事に過ごしているという吉報をもたらしてくれたが、同時に面倒な頼み事も押し付けてきた。それは録西街の顔役と緑河組との橋渡しの続きをして欲しいという内容だ。闇商売の連中に頼まれて無下に断ったら、あとが面倒だし、なによりもあたしの家族の件で不都合にならないとも限らない。そう思って良人が請け合ったが、実行するとなると結構面倒だ。というのも、録西街の件は、話の行きがかり上、2ヶ月半前に男装して白猿堂の使用人を名乗ったあたしが主役だからだ。でも、このタイミングで夫婦揃って4日も家を離れたくない。前回の半月の旅から2ヶ月半しか経っていない上に、この先、笙娘がらみの不測の事態で、いつ緊急脱出になるかも分からない。そんな時に、子供を預けて3泊も離れるのは無理がある。となれば、どうしても良人が留守番しなければならない。
 女のあたしが一人で旅に出るのは危険過ぎる。包家村訪問の際は、あたしの家族に関わる事だったから、危険を覚悟で一人で行って良いすらと思ったが、それでも結局は主人に止められた。今回はそこまで危険を犯す意義がないし、前回の旅で危険との隣り合わせも実感している。誰か男が一緒に行かなければならない。そこで笙娘に白羽の矢が立った。今度のミッションでは緑河の頭とも会うから、関係の深い笙娘が初めて目通りするという意味でも、笙娘の同伴は二重に好都合だ。
 笙娘と一緒に行くと云う事は、宿も笙娘という男と二人きりという事で、お偉方から後ろ指を指されそうだが、そんな腐った倫理観なんか、士大夫階級の連中に任せておけば良いんで、あたしたち庶民の知ったこっちゃない。そもそも、笙娘はあたし達の姪(注:従兄弟の娘も姪と呼ぶ)で初心な女の子だ。2ヶ月以上一緒に暮らして分かるけど、生娘そのものだ。その笙娘が狼の本能を持っているとは思えないし、よしんばあったとて、家の再興を優先して我慢する筈だ。なんせ、その為に男を捨てる決意をしているぐらいなのだから。もっとも、2人だけで旅する話を笙娘にすると言ったらビビっていたが、読書人だから仕方ないだろう。

 緑河の連絡係が来てから3日後、まず良人と笙娘の2人が再び例の山村に向かった。1ヶ月半前の脱毛の効果に若干の陰りが見えたので、どうせ再訪するなら新しいミッションの前にという事で話が決まったのだ。今回の手続きは例の連絡係がやってくれている。2泊3日の脱毛を終えた笙娘は前回の脱毛よりも更に奇麗になっている。見違えるようだ。前回もびっくりしたけど雰囲気は少し男だった。今は完全に娘。娘どころか、13〜14歳の女の子にしか見えない。しかも、情緒不安気味に、自分の体を恥ずかしそうにしている様子は、母性本能を呼び覚まさせる。毛抜きで女の子の本能を植え付けられた? そんな疑問もわくほどだ。
 1日置いて、今度は3人一緒に西街道に出た。あたしは初鼻から男装する訳にか行かないから、男の付き添いという意味で良人が一緒で無いと不味い。歩きがてらに、今回のミッションの背景を笙娘に説明する。今回の旅、笙娘にとってはあたしと2人きりという事で不安が大きいのか、情緒が不安定気味だ。それで、笙娘を安心させる意味もあって、きっちり説明する事にした。元はと言えばあたしの軽率な行為であたし達が包家村から緊急脱出しなければならなくなった事、その際に緑河の連中に助けられた事、その緑河組が西街道の顔役との関係修復を図っていた事、その時の顔つなぎとして商売人のあたし達に白羽の矢が立った事、身元がバレないように白猿堂の変装で出向いて顔役とその息子に会った事、その際に一応気に入られたので2回目以降の訪問はあたし達でなく、代理の誰かが名刺と土産物を門に投げ入れるだけで済ませる予定だった事などだ。
 2回目以降の訪問がない筈なのに、あたし達が呼び出された事について、笙娘は
「上手くいかなかったのでしょうか」
と首を傾げたが、実際はその逆だ。物事、首尾が上手く行きそうだったら追加の資本を投下するのは常套で、要するに、相手側から白猿堂(あたし達)にもう一度面と会いたいと云って来たのだ。笙娘はそれでも
「伯父さま伯母さまが緑河組にそこまでしてあげる義理はないでしょうに?」
と不思議そうな顔だ。確かにそうだ。あたし達の救命の恩は前回のミッションと包庸鞘を助けただけで十分に返している。でも正論だけで世の中は回らない。良人は
「人間、及び腰が一番いけないだ。徹底的にやって、不味いと思ったら直ぐに撤退する。そうでないと商売はやってられないぜ」
と答えた。あたしも具体的に補足する。
「実は、実家の弟一家の救出を緑河の頭にお願いしていたの。今の所、救出の代わりに支援してくれているみたいだけど」
洪二郎の一味から迫害されている笙娘は、やや納得した風だったけど、それでも完全という訳ではない様子で俯き、少し悩んだあと、意を決したかのように
「でも、アタシをずっと匿ってくれている事だって・・・」
と上目使いに聞いてきた。昨日からの情緒不安な様子も合わせた不安そうな様子で、ただでさえ可愛い笙娘にそんな目で見られると、女のあたしですらキュンとしてしまう。良人の目も気にせず、思わず抱きしめた。
「いいのよ、そんな事、心配しなくて・・・」
笙娘は可愛い姪。いやそれ以上。
「・・・貴方はあたし達の娘なのだから」
この娘を守らなければならない! 嫉妬もなにも吹き飛んだ。 横では良人が温かい目で微笑んでいる。

 日の出前から歩き始めて7時間、真冬の太陽が真南から傾き始めた頃に、中ぐらいの川に出た。真冬とは氷は張っていない。街道なので橋は架かっているが、その橋を渡らずに川沿いに森に入ると、すぐに連絡係が姿を現した。彼の先導で森を進むと直ぐに木の合間から河原が見え、その向うに舟が見える。橋から見えない場所だ。舟の位置が分かったので、連絡係に先に行って貰って、あたしは森の中で良人に手伝って貰いつつ男の服に着替えた。これで、緑河の連中におなじみの恰好となる。2ヶ月ぶりだが、やり方は分かっているから簡単だ。笙娘も横で手伝い方を見習ってる。別に裸を見せる訳ではないし、今回のミッションでは笙娘と同じ寝台になるのだから、この程度で騒ぐ事は全く無い。着替えが終わったところで、良人と別れてあたしと笙娘だけが河原に向かう。良人は急いで走り帰り、夕方までには家に帰り着く予定だ。急ぐと云う意味もあったが、それ以上に舟の連中に素顔を見せないというのもあった。あたし達の素顔を知っているのは下流の組で、上流の組ではない。だからこそ、あたしも連中に顔を合わせる直前に着替えたのだ。本当はもっと早く着替えたかったが、街道では知り合いに出会う可能性が高いので無理だ。
 河原に降りると、舟から見覚えのある男が出て来た。いつぞや録西街の渡しであたし達を待っていた小気味良い男だ。笙娘を紹介すると
「こりゃ凄い。これなら頭をかつげそうだぜ」
と、にやりと笑う。大体予想が付く。ここの組の頭にはあたしと包庸鞘が来ると伝えてある。でも包庸鞘が余りに完璧な娘だから、代わりに親戚の女の子が来たとでも言うのだろう。そう指摘したら、
「あんたも同じ考えかね、それなら協力してくれるな」
とますます乗り気だ。断る事が出来ない。というか、あたしも面白そうだから芝居に加わる事にした。
 舟は速い。あっという間に緑河への落合に着いた。本流から見えない澱みに屋形船が停泊している。近づくと頭が自ら
「むさ苦しいところへようこそ」
と声を掛けてきたので、あたしは
「ご無沙汰しております」
と慌てて挨拶を返した。頭じきじきとは想定外だが、慌てるほどではない。あたしの様子に安心したのか、渡しの男はシナリオ通り
「かしらー、包庸鞘は急病で来れないそうですぜ」
と騙しに掛かった。あたしも
「済みません、代わりに親戚の子を連れてきました」
とフォローする。笙娘は恥ずかしそうに身をすくめながらも無言で立っている。どういう反応が来るかと見守っておると、頭は
「ふっふっふ、いい挨拶だ。気に入ったぜ、包の若旦那、いや、笙娘と言うべきかな?」
と簡単に見破った。それに応じて渡しの男が笑い、つられてあたしも笙娘も笑った。緊張が急にほぐれる。そうか、これは笙娘をリラックスさせる為の演出だったのか。あたし達こそ騙されていたのだ。

 屋形船に移ると、頭の横に3人ほど座り、あたし達がその正面に座らされた。頭の後ろに数人の男が立って侍っていて、その中には連絡役の男もいる。その程度の地位らしい。改めて包庸鞘こと笙娘を紹介し、相手も紹介が終わって、ようやく頭があたしへの要件を切り出した。
「こないだは、青河の動きを知らせてくれて助かった」
「対策はどうなっているのでしょうか?」
「ああ、取りあえず向うの頭に事情を尋ねたところ、下っ端が独立を企んで勝手にやった事だと言って来た。今後はお前たちには迷惑をかけないと言っている。もっとも、相手の言っている事が本当かどうかは調査中だがな」
「じゃあ、まだ何も分かっていないと仰るので?」
「ははは、手厳しいな。心配をかけるといけないと思ったが、こうなったら教えておこう。実は、青河の下っ端連中が何か画策しているらしい事は分かっていて、それが下っ端だけの動きなのが青河の小頭や頭が関係しているのかは分かっていない。あと、この下っ端連中がうちのシマの何処とつるんでいるかは分かっていないが、下流の組は洪家が怪しい睨んでいるし、実は俺達も酉関の親父が一枚噛んでいるのではないかと疑って、取りあえず、可能な連絡点をしらみ潰しに見張っているところだ。こんなところで良いかな?」
「ありがとうございます。そう致しますと、わたくし共があっち方面を旅出来るのでしょうか?」
「その点だけは恐らく大丈夫だ。だがな、こないだみたいな無茶はするなよ。あれは本当に運が良かったと思え」
 それはアタシにも分かる。でも、とにかく一安心だ。あたし達の存在が緑河から正式に伝えられた以上、青河の連中は、あたし達にだけは手を出さないだろう。それが全面抗争を意味するからだ。こうなる事は、2ヶ月前、連絡係が初めて家に来た時に青河の事を伝えた段階で予想していたものの、こうやって頭から面と向かって言われると安心感が全然違う。もちろん、頭が警告するように完全に安全と云う訳ではない。でも、その危険は、まあ普通の山賊に襲われる程度の確率だ。そんな事を思いつつ、あたしが
「ご忠告かたじけない」
と答えると、頭は更に笙娘に向かって目配せした。確かに無茶をしたのはあたしでなく笙娘だし、緑河下流組にとって大切なのも笙娘だ。だから笙娘の返事を待っている。でも、すっかり女の子になってしまった笙娘に、闇商売のボスへ返事が出来るとは思えない。だからこそ、頭も問いかけるのでなく表情だけで返事を読もうとしているのだろう。
 注目の中、笙娘は意外な返事をした。
「肝に命じます」
きっぱりと、しかも男の口調で答えたのだ。そうして
「救命の恩、必ず返させて頂きます」
とまで言って来た。頭と笙娘はしっかり目を合わせている。あたしの入る余地はない。


第23回:お見合い(笙娘視点)

 不思議なものだ。つい今まで完全に娘の気持でいたのに、そして、ごく自然に化粧の事とか装飾品の事とか考えていたのに、闇商売の頭に会った途端に、突然、男口調が自然と出てしまったのだ。私の心は娘に成り切っている筈。なのにどうして? 相手が私を包庸鞘と知っているから? もしかして、女になり切ってしまった事を隠そうとしている? 娘の心になってしまった事を恥ずかしがっている? そんな事を考える余裕もないうちに、緑河の頭は
「試験勉強は?」
と尋ねて来た。試験まで3ヶ月半。ここ2ヶ月は勉強三昧という訳にはいかなかったが、一応の復習はしている。それどころか、無駄な気負いが抜けて、四書五経の本質的な部分すら見え始めている気がする。もちろん独りよがりの弊かもしれないが、学力的には問題ないと思う。
「先生こそおりませんが、生員に及第する自信はあります」
としっかり答えた。だが、緑河の頭は痛い所をついてきた。
「試験が受けられなかったらどうするのだ?」
 義父の所で受けた一次試験で葉芯洋という名前を使っているから、今度の試験の受験資格は葉芯洋という名前の男にある。その葉芯洋が包庸鞘と同一人物である事は、既に洪家の者に知られている。つまり、試験を受けた段階で危険に曝されるのだ。この問題はずっと考えて来た事だから、私は既に方針を決めていた。
「新しい名前で県試から試験を受けようと思います」
科挙の前段階の童試は、普通は小さな城市(県)で第1段階の県試を、そして大きな都会(府)で第2段階の府試と第3段階の院試を行って、これに通ったら、始めて生員(秀才)という身分になって、科挙の本試験(さらに3つの試験)を受ける資格を得る。普通は県試と府試は期間が少し開いているが、ここの州都だと、試験場が同じという事から、県試と府試・院試が1ヶ月以内に続けて行われる。つまり州都に行けば新しい名前で一から受けられるのだ。
 もちろん、折角通った県試を無駄にする事になるし、関係者に知られると不審がられるだろうが、試験監督が異なる上に、最後の試験は相手は中央から派遣された官僚だから、名前を変えて再度受けた事情は話せば納得してもらえる。洪二郎のようなヤクザとつるむ田舎役人とは違うのだ。もしかすると、指名手配すら取り消されるかも知れない。もっとも、どこまで真実を話すかは難しく、恐らくは、変名のまま生員にならざるを得ないと思って入る。それは、私は包家の名字を表向きは一生使えない事を意味する。科挙の規則で、いったん生員で名乗った名前は、生員であるかぎり変更出来ないからだ。もっとも、この問題は前から考えているので、出世のあかつきに包家に養子として入り、合法的に包家の名前の子孫を残す積もりだったから問題ない。だからこそ先の県試でも葉芯洋の名前で受けたのだ。

 私のこの案に、緑河の頭は、ゆっくり頷きながらも、更に畳み掛けた。
「まあ、そんな所だろうとは思っていた。でもな、洪家はそんなに甘くないぞ」
そうなのだ。危険は何処に待ち構えているか分からない。私の顔を知っている者を買収して、試験会場の入口に張り付かせる事だってあり得るのだ。そこで、とうとう家庭教師のアイデアを話した。侍女として娘一人しかいない権力者の家に入り、そこの一人娘と関係を作るという、とりかえばや作戦だ。筆屋夫婦にもまだ話していないこの案を披露しつつ、中央の権力者の娘に我が子孫を残してもらえれば、自分はどうなっても良いという覚悟を語ると、横で奥方が
「笙ちゃんったら、そこまで考えていたのねえ」
とため息をついた。そこに、数日前まで見られた、女の嫉妬心みたいな表情は全くみられない。私への同情が明らかに見てとれる。
 奥方のため息に続いて、緑河の頭も
「そこまでの覚悟が出来ているとは、さすが、下流の頭が見込むだけの事はあるな」
と感心したように頷いて話を引き取り、そもそも私を助けた発端から内実を話してくれた。なんでも、私を援助するというのは、ここの下流に隣接するシマの頭の発想だという。目の前の頭目は、それを取り持っているだけで、その代わりに、筆屋夫婦を紹介して貰ったそうだ。なぜ私ごときに目を付けたのかというと、こう云うのは数人の候補に目を付けておいて、その中から選ぶものらしい。となると、科挙の県試に最近通ったという事実から私に目をつけた可能性は高い。という事は、随分前から私の本名を緑河の連中は把握していた事になる。さすが、裏社会は情報力は凄まじい。
 経緯はともかく、下流の頭に目を付けてもらったお陰で、私は目の前の頭の計らいで虎口を脱して、ついにここまで来ている。そう感慨に耽っていると、頭が立ち上がって、私の肩を叩いて来た。
「よっしゃ、俺も応援してやるぜ」
頭の何気ない支援宣言。たったどれだけなのに、その瞬間、私に男の心が急速に甦ってきた。そう、私はやっぱり男だ。使命の為に女装し、自らを『妾(あたし)』と呼んでいるけど、それでも男だ。だからこそ、使命を果たすため、更に娘らしく見せなければならない! 我ながら不思議なもので、ついさっきまで娘の心でモノを考えていたのに、今や、娘の心を持つ私自身を、更に外から客観的な目で眺めている。これを禅機とでも言うのだろうか。あとで奥方に聞くと、この時、私がとても男らしく見えたそうだ・・・姿かたちは完全に美少女なのに、と付け加えて。

 この後は話題が私から奥方に移り、下流の組からの伝言として、奥方の家族にこっそり物的援助をしている話とかがあったあと、いよいよ、今回のミッションの説明に移った。目的は、今朝の道中に筆屋から聞かされた以上のものだった。録西街の顔役が青河の下っ端とつるんでいる可能性すら浮かび上がって来た現在では、もしもつるんでいないなら、その予防、つるんでいるとしたら、それに楔を入れるという、前回よりも重い目標まで加わっている。そこまで可能かどうかは別として、この情勢では、評判の良かった奥方達を再び呼んだのも頷ける。このように目的は仰々しいが、実際にやることは前回より簡単だ。録西街で顔役には会わずに一人息子に当たる塾の先生に面会するだけだからだ。
 ここで、私の恰好が問題になった。女装か男装か。一般論として、無理な女装よりも自然な男装の方が不審がられない筈だ。のみならず、青河の事件の時に私は女装だった。もしも青河と酉関の親父がつるんでいたら、何かの噂が伝わっていないとも限らない。酉関親子が男装の奥方と青河の事件と繋げるとは到底思えないが、危険な要素は一つでも減らすのがミッションの鍵だ。ちょっとでも変に思われる訳には行かないのだ。
 とはいえ、男装にはそれ以上のリスクがある。酉関親子と洪家が何らかの繋がりを持っていたら、直ぐにバレてしまうからだ。別に特別な繋がりがなくても、例えば、洪二郎のゆかりの者が酉関の家で働いているかも知れない。どちらも緑河流域の表の顔役なのだ。その場合、なんの変装もしなかったら私の素性がバレる。だが女装さえすれば、相当に私の顔を吟味しないと本性は分からない筈だ。顔が至近距離になるのは暗い家の中だけ。至近距離から来客の連れの娘の顔をじろじろ見る失礼な真似は中流以上の家では有り得ない。それは筆屋夫婦が無事に包家村に潜入出来た事からも明らかだ。そもそも、酉関の親父と洪二郎が青河という共通の談合相手を持っている可能性を心配している所なのだから、ここで青河を心配して男装になるのは本末転倒だ。女装の私は青河の連中しか知らないし、しかも連中は私は包家の者とは全く認識していない。
 当初の予定通り、奥方が男装で白猿堂の使用人を名乗り、私はその姪(従兄弟の娘)を装って影で女の奥方を護衛する事に決まった。酉関珀の所でも、このスライルを維持する。奥方が女身一人で酉関珀に会う事を避けるという意味もあるが、親密さを演出する為でもある。そもそも、中流以下の親しいもの同士では、家族的な付き合いをしたいという意味を込めて、未婚の娘を会合の場に出す事がある。特に旅の途中ではそうだ。今回の懐柔工作という目的と、匿名を使って禍根を残さないようにしている事を考えると、この種の親密な形式は自然な流れだ。だが、そう改めて決まったとき、私は重大な事に気がついた。未婚の娘として私が酉関珀に会う事で、このミッションに新しい性格が加わる事を。
 家族的付き合いという意味で、女を同伴して訪問すると、男は男どうし、女は女どおしで対応するのが普通だ。特に未婚の娘を同伴する場合は、訪問先の妻女が応対するのが絶対で、中流以下の別室を準備出来ないところでも、座る位置が男と女で離れる。だが、酉関珀は独身で、来客の接待に相応しい女はいない。そうなると、酉関珀と奥方の面会に私が同席する流れになる。そして、私が奥方と一緒に酉関珀の家の応接間に入った段階で、面談が見合いのような性格をも帯びてしまうのだ!
 なべて、未婚の娘を独身男にさらす段階で、見合いと云う性質が生じるのは避けられない。しかも単なる見合いではない。こっちは名目上は一介の使用人、相手は街の顔役の息子でしかも塾の先生。格の違いは明瞭だ。そして、格が違って来ると、見合いは、妾候補の品定めという様相を帯びて来るのだ。正妻でなく妾。つまり、このミッションを遂行するという事は、私が妾候補として酉関珀に会う事を意味する。
 私がミッションの全貌におののいていると、頭目が再び私の肩を叩き。
「応援してやるからな!」
と言って来た。それは、このミッションの成否で、今後の私の運命、ひいては包家再興の行方が決まる事を意味している。ここは覚悟が必要だ。
「ご期待に添えるべく、最大限の努力を致します」
そう、しっかり答えると、頭目がゆっくり頷いた。

 会談を終えた頃には日は傾き、私たちは急いで残りの行程に移った。3ヶ月近く前と違って、既に録西街の上流側にいるから、前回のように録西街を迂回する無駄はない。小舟に再び乗り移るや、矢のような速さで緑河を下りはじめ、半時間後には小さな街の近くの林に上陸した。前回の筆屋夫婦の上陸地点よりも更に上流らしい。なんでも、少し余分に歩いて奥方に男装の感覚を思い出して貰おうという緑河の連中の気遣いだそうだ。日の暮れる前に宿街に着いた。
 それにしても奇妙な旅だ。既婚の奥方と独身の若い男の2人だけ。片や男装で片や女装。そして同じ寝台! そもそも、伯父と姪の旅というのは、ちゃんとした身分の者なら寝台は別にするところだ。私達はしがない商家・・・白猿堂の使用人という立場だから、寝台を別にするまでの無駄な道徳は要求されないが、それでも普通は別の寝台になる。だから、宿の受付でも訳知りの目つきで見られてしまった。きっと伯父と姪が通じている可能性を受付の人間は疑っているのだろう。もっとも、寝台ばかりは仕方ない。奥方の寝言がどうしても女口調になってしまうので、男装がバレない為にも私と一緒の寝台で寝ないといけないからだ。ちなみに、寝言は奥方だけの問題であって、私の寝言は既に女言葉の女の口調だそうだ。たしかに夢では常に女装して女の心で考えているような気がする。
 いかに理由があれ、他人の奥さんと2人だけで同じ寝台を使う行為は、破廉恥としてしか認識できないから、どうしてもためらってしまう。私は四書五経の受験勉強をしている身なのだ。もちろん奥方をどうのこうのする事は有り得ないが、それとこれとは違う。私は世間が怖いのだ。将来の名声に瑕がつくのが怖いのだ。特に今日はそうだ・・・ついさっき男の心を取り戻したばかりだから。これが昨日なら、理屈を言い聞かせて私はあっさり寝台に登ったかも知れない。でも、男という事を意識してしてしまった以上、男女の別というものも否応無しに意識してしまう。
 そう考える一方で、行動だけは、他人に怪しまれないように女を演じ続けなければならない。ぎくしゃくな行動で、奥方に男女を意識させてはいけない。そう、私は奥方に余分な心配を掛けてはならないのだ。結局、私が女装中であるという現実がまさって、何食わぬ顔で寝台に昇り夜具に入った。夜具に入ると不思議なもので、慣れない旅の疲れで何時しか眠り込んだ。旅の疲れとは偉大だ。もっとも、緊張からか真っ暗なうちに目が覚めてしまうのは仕方ない。そのまま、まんじりと夜を過ごす。
 早朝に宿を出て、その道中に奥方から色々な注意を受ける。特に酉関の親父が女ったらしなので、もしも出会ったら女の防備をしっかりする事、酉関の息子が金に細かく、かつ粘着質で、その上、女の体を触って平気という、たちの悪いオバサン性格だから、少しでも体が触れたりしたら強く拒否する事などを繰り返し注意して来た。
「女はね、媚びと防備の姿勢を巧みに使い分ける事が絶対なのよ。特に今回は半分見合いなのだからね」
防備の姿勢は、奥方が過去2ヶ月半に何度も私に言い聞かせて来た事で、店の手伝いだって、その実習を兼ねている。もっとも、店では女客にしか会わないから、男に対して媚びと防備の実践をするのは初めてだ。はたして出来るかどうか? 特に、女の腐ったようなネチネチした野郎に対して。

 店を手伝うようになってから、女達と話す機会が増えて、彼女達の好き嫌いが分かるようになったが、こういうネチネチした男が一番評判が悪い。何故かと云うと、ちょっとした欠点を何時までも話題にするからだ。それを私の場合にやられると、下手すると過剰反応してしまって女装がバレないとも限らない。特に今の私は昨日までと違って、少し男の心を取り戻して混乱していおり、昨日までのように娘らしい娘を演じる事に心から徹し切れていない。その上で女としての防備にも気を付けなければならないのだ・・・しかも妾候補としてのお見合いという状況で。演技がチグハグになる危険は十分にある。
 緊張が高まり、不安が押さえきれなくなって、とうとう、奥方に私の印象を尋ねた。すると、奥方は笑いながら、
「なに心配しているのよ、男っぽく見せようと背伸びしている可愛い女の子そのものじゃないの」
はあ? そうか! 目から鱗が落ちた。
 私はずっと、娘らしく見えているか、娘らしく振る舞えているかを気していたけど、姿かたちさえ美少女で衣装が奇麗だったら、少し男っぽく振る舞ったほうが、かえって娘らしく見える事があるのだ! こんな簡単な事実をすっかり忘れていた。義父の顔役のところでも、そういう女の子は見た事がある。ならば今の私もそうかも知れない。自慢ではないけど、見た目は可愛いくて美しい少女の筈だ。不安が大きく和らぐと共に、その線で今日のこれからの女装イメージを急速に作り直した。そう、私は、自意識過剰な美少女。それ故にわざとボーイッシュなふりをしている女の子。これなら女の防備も兼ね備えられるし、今の私に演ぜられるかも知れない。

 一日弱歩いて録西街に着いた。そのまま泊まって、翌朝いよいよ塾に向かう。男装の奥方が案内を問うと、さっそく塾の中に招き入れられた。出て来た青年は私の2つ3つ年上で、線の細い美青年だ。酉関珀が美青年らしい事は筆屋夫婦から聞いてはいたが、なるほど、確かに色が白く、首や腕が細く、目鼻立ちも優しい感じがする。すらっとした胴は、肋骨を絞った私でも敵わないかも知れない。ちょっと華奢すぎる感じはあるものの、見た目だけなら誰からも好かれそうだ。人に愛されそうな容姿の癖に、性格が悪くなるのが信じられない。
 だが、筆屋夫婦の話が誇張でない事を実感するのに10分もかからなかった。その後は苦痛そのものだ。四書五経を引き合いに出す自慢話も、解釈や出典がデタラメで、これでどうやって童試の三試験全部に及第したのか理解出来ない。もしかしたら情実? 金の力? それとも試験官が馬鹿? そう思うと、突然、自分が及第出来るのか心配になってきた。今まで、余裕で合格出来るレベルと思っていたが、もしかするとダントツ以外は、宝くじみたいなものかも知れないのだ。
 もっとも、その程度の苦痛は、もう一つの苦痛に比べると何でもない。そう、私の最大の苦痛は、酉関珀のなめるような視線だ。まるで芸者を品定めするような目つき。私が応接間に入った段階で、妾候補という扱いになる事は覚悟はしていたが、普通の男はここまで粘着的な視線は出さない。私は段々気分が悪くなり、店を手伝い始めての2日目に、初めて中年女の接待をして体調を崩した悪夢を思い出した。あの時の二の舞になる!
 不安が嵩じると自分を抑えきれなくなる。そんな経験は誰にもあろう。始めのうちこそ緊張でしおらしく黙っていたけど、酉関珀の陳腐な話と視線とに耐えきれなくなって、とうとう口を出した。そう、四書五経の知識の誤りを思わず訂正してしまったのだ。大失態! これで相手が気を悪くしたらミッションが失敗に終わる。そればかりか、男であるとバレてしまうかもしれない。

 だが、それは避けられた・・・もっと大きな犠牲を払って。なんと、酉関珀は
「お嬢さん、私の話が分かるんですか!」
と頓珍漢な事を言いつつ、目が輝かせたのだ。
 一瞬、はっとなった私だが、彼の発言の真意は直ぐに分かった。こんな腐れ儒者が自分の間違いを認める事は有り得ない。だから、私が間違いだと一方的に決めつけ、その上で、彼の話を私が多少とも理解したからこそ反論出来たと解釈したのだ。しかも、私が彼の話に非常に興味を持ったと云う誤解まで加えて。
 筆屋の話によれば、酉関珀は狷介で他人の存在を目に置いていない。それでいて、話し相手がいないといって愚痴をこぼす。そんな男だ。となれば、彼にとっては私は数少ない理解者だ。しかも女。有頂天にならない筈が無い。それは、私が別の意味で大失態を犯した事を意味する。しまったと思った時は遅かった。このあと、彼は奥方と私の2人に向かって、更に激しく知識を披露し始めた。もちろん間違いだらけの知識をだ。披露だけなら良い。時々相槌を要求して来る。・それまでは奥方が一人で受け流していたが、今や私も相槌を打たなければならなくなったのだ。しかも不本意な相槌を。妾候補だという不安をかかえながら。
 もちろん、彼を有頂天にさせる事がミッションの目的の一つだから、その意味では今の流れは決して悪くない。つまり、私のやった『反論』が結果的に正しかったという事になる。その事に気付くだけの余裕が出て来ると、それまでびくびくしていた私は、再び腐れ儒者の嘘八百と尊大な態度が気になって来た。熱した後の冷静な視点だから、さっきよりも鼻につく。間違いだらけの知識を一方的に披露する自慢欲。それに対する相槌の要求。と同時に、更に粘度が増す舐めるような視線。私が彼に気があると勝手に思い込んでいるのだ。私の受ける苦痛はますます増え、かくて30分もすると再び我慢出来なくなって、又も間違いを指摘してしまった。一旦崩れた堰は2度目は簡単に崩れるのだ。そして2度もやってしまったら、もう止まらない。
 かくて、一方的な彼の話を私が時々さえぎるようになって、本当に勝ち気な娘になってしまった。もちろん酉関珀は、そんな流れを歓迎し、話は白熱していって、いつしかここに来て3時間の時が過ぎていた。酉関珀はますます目を輝かせている。ミッションとしては成功かも知れないが、私としては大失敗だ。もしかすると、相手は私を妾に所望して来るかも知れない。その時はどうしよう?

 不安を感じ始めた頃に、奥方が中に入った。
「姪は昔から本が好きで、子供の頃は良かったのですが、何時までも女の常識に欠けたままで、今では少し持て余しております。女は学が無いほうが良いと申します。なので、誰かに嫁ぐより、いっその事、女の家庭教師ぐらいにしたほうが良いのではないかとも思って居るんです」
婉曲な表現だが、妾に出さないという予防線だ。問題は、こういう表現の綾が、この似非儒者に分かるかどうか。
「そういう事ですか。それなら私の従妹がいますよ」
 答えはあっけなかった。酉関珀は字面どおり、家庭教師先を紹介して欲しいと解釈したのだ。単純と云えば単純。もっとも、従妹なら酉関珀が教えれば良い筈なので、奥方がそれを指摘すると
「いやあ、僕は忙しいし、それに従妹と言っても別姓ですんでね・・・」
同じ親戚でも、姓が同じか違うかで扱いが全然違う。姓が同じだと兄弟扱いだから、もちろん結婚もできないが、姓が違うとどんなに血が濃くても他人扱いで結婚の対象となる。だから姪や甥との結婚も可能なのだ。そして、結婚が可能と云う事は、男女の別を守らなければならない事を意味する。もちろん中流以下の階級では、このあたりはいい加減だが、それでも別姓の従妹と2人だけで同じ部屋で勉強するのは体裁が悪い。
 意外とマトモな返事が続いたので、少し安心していると爆弾発言が待っていた。
「・・・それに姪御さんみたいな素晴らしい方とは、今後も親密でありたいですから!」
そう言って、酉関珀は私をしっかり見つめながら目を輝かせた・・・恥ずかしい! 私は思わず俯いてしまった。それがますます男の情欲をそそる行為であると知っていたにも拘らず。


第24回:敵情分析(妻視点)

 笙娘が酉関珀の間違いを指摘した時は心臓が縮む思いがした。だが、それで酉関珀が逆に有頂天になったのだから、学のある者どおしの世界は違う。きっと笙娘はそこまで計算して口を挟んだのだろう。世の中、何が良いのか分からないものだ。その後も、端から見るとハラハラするような笙娘と酉関珀の会話が続いたが、酉関珀を様子を見ると明らかに機嫌が良いから、もはや私がどうのこうの云える立場ではない。
 とはいえ、暫く様子をみると、次第に暴走気味になっていくのが明らかだったので、話に割って入って止めさせた。というのも、頭に血が上るあまり、試験勉強中であると笙娘が口を滑らせるかも知れない思ったからだ。簡単な突っ込み程度は勝ち気な女の子という事で済ませられるが、試験勉強は男だけの世界。それを笙娘が言うのだけは避けたかった。それに、酉関珀の方も放っておくと、婚約したいと云い出すかも知れない。そうなると話がややこしくなる。だから、割って入ったその口で、家庭教師という形の逃げを打ったのだ。それでも、酉関珀の感心を止める事は出来ず、こっちが対応出来るよりも素早く家庭教師の話が出てきてしまい、困ってしまった。緑河の組の話では敵になるかも知れない家系だ。あまり深入りしない方が良い。
 いつかお世話になるかも知れません、と形通りの逃げ口上を打って、何とか酉関珀のところを固辞したのは昼過ぎ。そのままの脚で、前回と同じ船着き場に行くと、渡し船用の桟橋の隅に、前回と同じ小舟がつながれ、前回と同じような恰好の男を寝たふりをしている。正規の渡し船は向こう側に居るから、何の気兼ねも無く声を掛けると
「時間が掛かったって事は朗報かな・・・まあ、乗れや」
という返事が戻って来た。相変わらずだ。

 舟は先ず下流に向かい、そこの森に囲まれた岸で薄暗くなるのを待ってから、今度は上流に向かった。あくまであたしたちは北から南に向かう旅の途中という事になっているから、こうして遠回りしたのだ。それから4時間ほど遡っただろうか、闇の中に屋形船が現れた。場所は分からないが、少なくとも一昨日出会った落合付近ではない。このあたりの機密保持は相変わらず見事なものだ。屋形船では緑河上流の頭目が待っていて、まず、笙娘に酉関珀の印象を尋ねた。
「女の腐った野郎という表現が、まだ穏やかなものである事が分かりました」
「やっぱりそうか。まあ、あの糞親父の息子だからな」
頭目の声は少しいらついているように聞こえる。なんだか、この2日で酉関の親父と衝突があったみたいだ。
 次に頭目は、今日の会談の様子をあたしに尋ねて来た。もちろん丁寧に説明する。特に、酉関珀が有頂天になって、笙娘を従妹の家庭教師(名目は侍女だけど)にどうかと誘って来た下りは欠かせない。また、舐めるような目で笙娘の体を見て、傍目にも気持悪かった事と、従妹の勉強の為といいつつ、こっそり通じようとしている魂胆が明らかだとも付け加えた。
 あたしの報告が終わると、頭目ばかりか補佐役の小頭たちまで口々に
「ははは、男って知らずに口説いてた訳か・・・」
「そりゃあ、女のような腐った奴だからな」
「そんな奴は男にめあわせても良いんじゃねえのか?」
「そりゃ面白そうだぜ」
「でも、酉関珀のような奴を娶るような殊勝な男が居るとは思わねえけどなあ」
と笑い合っている。そんな時、横手に控えてそれまで微笑むだけだった男が
「いや、一人だけいる。ほら、お前達の仇だ」
と突然あたしに向かって言って来た。なんだか見覚えのある男と思ったら、下流の組の連絡係だった。その男に仇というキーワードを聞かされて、直ぐに洪二郎を思い出し、続けて洪二郎の一人息子を思い出した。そうだそうだ、洪親子の陰険さと酉関珀のねちっこさは悪い意味の両雄だ。しかも、洪二郎の一人息子に変装を見咎められた時、奴は男色も許容範囲のような事を言っていた。あまりに衝撃的だったので良く覚えている。確かにお似合いだ。あたしは思わずこう答えた。
「それはいい夫婦になりますねえ」
その言葉に一同が大笑いしたあと、頭目が
「仇の名前が出て来たところで、これまでに分かった事を教えてやろう。一昨日はバタバタして詳しく話せなかったからな」
と語り出した。

 まず青河。青河の連中は下っ端の勝手な振る舞いと言っているが、件の2人を未だに隠れ家で生かしている。もっとも、生かしていると言っても色々ニュアンスがあるから、この情報だけでは青河の上層部の真意は分からない。だから、緑河組としては、取りあえず今まで通りに付き合うのが無難だという判断だそうだ。
 青河と洪家の繋がりは、下流の組からの連絡係が語ってくれた。なんでも、包家村の隣村で、青河の闇塩が見つかったという。塩に区別は無いが、それでも出所が分かるように、ここ2ヶ月ほど下流の組は自分が売る闇塩にちょっとした不純物・・・別に悪いものでない・・・を混ぜていたのだ。そして、それでない塩が闇市場で見つかったらしい。青河の闇塩が出回ると云う事は、明らかにシマを越えての活動だ。そして、その村は洪家が事実上支配している所から、青河と洪家に何らかの関係があるのは間違いない。もっとも、これも青河の下っ端のやった事なのか、それとも青河の上層部の判断かは分からない。はっきりしているのは、事態がかなり深刻だという事だ。
 ここで頭が再び話を引き取って、酉関家について教えてくれた。1年ほど前に酉関家が権力を握って以来、緑河の連中が録西街近辺に近づけない状況が続いているが、それでも情報を集めると、録西街で闇塩が手に入るという。それは、闇塩がどこか別の所から入っている事を意味している。少なくとも川経由ではないから陸路だ。陸路は多いので何処の連中が敵対行為をしているのかは分からない。それで詮索を後回しにしていたが、青河の件が気になって、録西街から東に向かう陸路ルートの要所に当たる川の渡しを手下の者が警戒し始めたそうだ。それが半月前。ところが昨日、突然、上流側の渡しに酉関家の管轄下の官憲が現れて、渡しをこっそり監視していた仲間を1人しょっぴいて行ったそうだ。これは、今まで以上に酉関家が緑河を取り締まる意思を見せた事にもなる。こんな事が昨日あったのでは、頭が酉関家にひときわ腹を立てていたのも頷けた。
 あたしが
「酷い目に会いましたねえ」
と同情すると
「まあ、口の堅い奴だから、その点は心配しておらんがな、問題は、俺達の動向が酉関家に伝わった可能性があるって事よ。ま、俺が至らないせいだがな」
と、更に物騒な事を行って来た。確かに見張りをいきなり急襲するなんて、情報が流れない限り難しい。そして、うっかり流れた情報ならともかく、最悪の場合、内通者の可能性すら考えなければならないのだ。頭目の最後の言葉は、この内通の可能性を念頭に入れての発言だろう。
 回りの小頭達は、突然の話に一瞬唖然としていたが、直ぐに
「お頭、そんな事はありませんって」
「そうですよ、裏切り者がいたら、俺達がとっちめますから」
と口々に言ってきた。小頭たちの言う通りだ。どんなにしっかりした頭を頂く闇組織だって、下っ端を完全に管理出来る訳はなく、裏切り者がいてもおかしくない。だが、と同時に思う。もしもこの裏切りが青河の組による大きな陰謀の一端だとしたら? あるいは青河と緑河の双方の下っ端による下克上の前兆だとしたら? そうあたしが思いを巡らせていると、頭目は
「まあ、お前達の言う事も分かるがな、裏切り者がいて悪いとは俺は言わん。何故なら、敵が誰だか分かった段階で、既に俺達は優位に立っているからな」
と回りの者をたしなめた。さすがに頭目は肝が座っている。念のため、
「と云う事は、酉関家もまた青河と繋がっているという事ですか」
とあたしが確認すると
「ははは、言うのも野暮だ」
と豪快に笑った。

 青河の話が一段落すると、今度は包家村の話に移った。下流の連絡係の話によると、あたしの家族は凍える事も飢える事も無く過ごしており、今すぐに村を逃げる必要を感じていないらしい。それがあたしにとっても一番だ。一方、洪家については、一人息子の縁談が未だに決まらないという話だった。一度は決まりかかったのだが、美人でなかったので息子が縁談を蹴ったという。だからといって郭は10日に一回行く程度との事だ。そうだろう、そうだろう、奴は両刀使いなのだから。そうあたしが納得する間も、連絡係は話を続けた
「そんな息子に業を煮やしたのか、とうとう我々の息のかかった取り持ち婆にも、縁談を紹介して欲しいと云う話が来ました。上手く知れば、我々に味方する娘と結婚させる事ができます!」
 緑河の組の仲間の娘と云えば・・・笙娘を見ると、青い顔をしている。さっき見合いの直後にこの話では、刺激が強過ぎたようだ。ここは少し慰めなければならない。
「笙ちゃん、安心なさいよ。別に笙ちゃんを花嫁に仕立てて輿入れさせようって訳じゃないんだから」
とこっそり耳打ちしたが、その様子を頭目に見咎められた。
「おい、何を相談しているんだ、まさか(包)庸鞘君を花嫁に仕立てようってんじゃないだろうな?」
あたしは咄嗟に洪の息子の事を思い出して答えた。
「お頭、そりゃ無いですよ。彼の顔を洪家は知っているんですから。しかも洪の息子は女装を簡単に見抜くんです!」
あの時は我ながら上手く行っていたつもりだったのに、あたしの男装だけが無事で、良人の女装が直ぐにバレたのだ。それがショックだったから良く覚えている。
「分かってりゃいい。・・・だが、今のその女装でも見抜けるのかねえ?」
そう頭目が首を傾げると、横の小頭が
「こう言っちゃ悪いけど、あんたの旦那さんの女装と、目の前の娘さんとでは月とスッポンですぜ」
とフォローする。
 そこまで言われて、3ヶ月前の洪家訪問の事を更に詳しく思い出した。まだ変装4日目で、試行錯誤の男装女装だったのだ。当時は精一杯だったけど、今から思えばいくらでも改良の余地がある。見抜かれても仕方ない。
「そういえば、洪の息子に見抜かれたのは、まだまだ変装が未熟な時でした」
そう謙遜すると、頭目は
「いやいや、そんな事はない。見事だったからこそ、前回の録西街行きを変装でお願いしたんだ。実際、上手く行ったじゃないか」
「恐れ入ります」
あたしが恐縮すると
「もちろん、今の男装の方が、あの時よりも素晴らしいけどな。それなら確かに男で通じるぜ」
と褒める事も忘れない。さすが、頭目と慕われているだけの事はある。

 あたしが感心していると、今度は下流の組の連絡係が口を出した。
「その変装技術を見込んで、いま、ちょっと思いついたのですが、洪の息子に男の花嫁をあてがうってのも面白いかも知れないと思いまして」
「はあ? ・・・まさか、酉関珀を花嫁に仕立てようって言うのか?」
頭目がそう言うと、連絡係は首をすくめながらも小さく頷いた。頭目は
「そりゃ、俺達に楯突いたらどうなるか分からないって意味での意趣晴らしにゃあなるがよー」
と言って横の小頭達を見回した。頭目の否定的な雰囲気を引き継いで小頭たちは
「そんな事をしたら、酉関の親父と洪の親父が一緒になって俺達を干上がらせようとするんじゃねえか」
「そうだぜ。一時は気分が晴れるが、後始末が大変だろう」
「まあ、下流さんの恨みつらみは分かるけどな」
と口々に否定して来た。確かに小頭達の言う通りだ。敵は各個撃破が基本だ。下手に協力されては攻略が難しくなる。いかに両家とも青河と組んでいるとは言え、まだ酉関家と洪家がつるんでいるとは限らないのが。あたしは瞬間的にそう思ったが、頭目だけは少し考え込んでいる。下流の組の連絡係は何も言わない。
 その時だった。今まで横で小さくなっていた笙娘が口を開いたのだった。
「あのう、よろしいでしょうか」
「なんだ?」
「縁談の間に立つ者が青河の者だったら良いのではないでしょうか」
一同がびっくりして、改めて笙娘の顔を見た。笙娘の表情は次第に力強さを増している。連絡係の
「そこまでは考えていなかった」
という言葉と、頭目の
「庸鞘先生には良いアイデアでもあるかい?」
という言葉に応じて、笙娘は話を続けた。その話を聞くうちに、一同はすっかりそのアイデアの虜になり、目を輝かせ始めた。話が終わると頭目は当然の様に
「さすが、学問をしている先生は違う」
と褒めたが、笙娘は奢らず
「いえいえ、単に恨みが骨髄に沁みた者の戯れ言でございます。それに・・・女の恨みは怖いと申します」
と謙遜しつつもおどけてみせた。一同は大笑いし、頭目も
「そうに違えねえ、洪家だけでなく、酉関家への恨みも感じたぜ」
と相好を崩した。

 その後の相談で、2ヶ月半後の桃の季節に作戦の第一段階を遂行する事が決まった。2ヶ月半と言うのは、青河のどのレベルまでが敵対行為に走っているかを確かめるのと、青河からの潜入者を見つける為の時間だ。そして、2ヶ月半後というのは、再び笙娘がやって来て、そのままの足で州都へ向かうのに都合が良いからだ。童試の第一段階の県試は州都では3ヶ月後に始まる。
 話が決まると、今度は酒を薦められ、そのまま前回と同じように前後不覚となって、目が覚めた時は隠れ家らしきところで寝ていた。そして、前回と同じく今回も隠れ家から出る時に目隠しはされた。ただし、目隠しした相手は
「あんた達にこんな事をするのは失礼なんだけどな、まあ、決まりだから許してくれや」
と申し訳無さそうにしている。そういう安全確保の決まりに例外を作れと文句を言うほど、あたしも笙娘も野暮ではない。かくて、暗いうちに隠れ家を出て、日の昇る頃に、ようやく例の落合についた。あとは家に帰るばかりだ。例の橋の近くであたしは男装から女の普段着に戻り、そのあとあたしと笙娘・・・見た目は女2人・・・は連絡係の付き添いで午後4時頃には帰宅した。


第25回:女の魔力(笙娘視点)

 帰り道は今までに無い複雑な感情に支配されていた。闇商売の連中に認められた高揚感と背徳感。難しいミッションを勢いで言ってしまった後悔。今までと違って逃げ道の無い不安。そして、もしも・・・もしもミッションが成功した時の成果への期待。そんな感情が入れ替わり立ち替わり現れては消え、目が回るようだ。ともかくも賽は投げられた。もちろん、今なら全てをキャンセルする事は不可能ではないが、それは私の信用を失墜させ、ひいては家の再興をほとんど不可能にする。やり遂げるしかない。
 私の役割は、酉関珀を誘惑して家から誘い出す為の美人局だ。誘い出すだけではない。使用人に気付かれる事なく、こっそり家を抜け出るように仕向けなければならないのだ。それだけの美人局となると、本来なら芸妓や女郎など、魅力ある女にさせるべきだが、酉関珀はそんな一筋縄ではいかない。狷介なだけあって、妓館とか郭に行く事が無く、いかも吝嗇だから、普通の女が迫った所で金が目的だと思って警戒するからだ。身持ちが堅いと云えば聞こえは良いが、要は臆病だ。腐れ儒者の臆病。一回しか会っていない私に、彼のそういう内面が分かるのは、他でもない、私に身に覚えがあるからだ。彼のアホ面は、私の分身に見える。
 本物の女を使わない理由は他にもある。女というのは時に愛と身分を優先させて裏切る生き物だという点だ。なんせ、表向きの身分と生活レベルは酉関珀の方が上なのだ。もしも女が闇商売連中を裏切って一網打尽の道を作ったら、酉関珀には大抜擢すら待っている。それは女にとっても栄耀栄華を意味する。こんなシナリオが存在する以上、積極的な裏切りでなくとも、第三者に唆されたり浚われたりした時に魔が差す危険が余りに高い。こんな事情で女を使いづらいところにもって、私と云う『女』が彼に珍しく気に入られてしまった。しかも、計算づくの媚びなんか全然無い『安全』な娘としてだ。男とバレない事が十分に可能である以上、私よりも美人局の役を担える者はいない。だからこそ、私も『先ずは隗より始めよ』の通りに提案し、それに緑河の連中が大賛成したのだ。
 だが、冷静になって考えると、バレないだけでは不十分な気がして来た。美人局作戦を成功させる為には、酉関珀が一人でのこのこと危険な場所に出て行くぐらいに、奴の判断力を失わさせなければならない。そして、男が判断力を失なうのは女にのぼせた時だ。だからこそ、女の『魔力』という。だが、私には生娘の魅力はあっても、女の魔力はない。それは、緑河の連中からの褒め言葉でも感ずる。誰もが私を可愛い娘だの美少女だのと褒めるが、肉体的な意味で褒めた者はいない。つまり、情欲をもたせるような『イイ女』にはほど遠いという事だ。
 他の方法は? この手の肉体的魅力の薄い女は、普通は媚びの姿態で男を誘惑する。だが、今回の美人局では禁物だ。決して私の方から誘ってはいけない。というのも、酉関珀は、ちょっと気に入った女であっても、媚びの姿勢を見せた途端に警戒し醒めるに違いないからだ。それは金持ちや社会的地位の高い者の宿命だ。少しでも油断すると、計算高い女に捕まって、金を貢がされるか、さもなくば結婚してしまって悪妻に嘆く半生が待っている。だからこそ、この手の男は、寄って来る女でなく、逃げるか逃げないかの位置にいる女にしか興味を示さないのだ。そんな男への美人局役は、最後の最後まで男なんかどうでも良い振りをしなければならない。それでいて、同時に男に情欲をわかせるべく適度の誘惑しなければならない。

 そういう視点で過去の娘修行をよくよく振り返ると、私は女達から見られてバレない努力はしているけれど、男達がどういうふうに私を見るかについては、何の努力もしていない事に気がついた。当たり前だ。そもそも、身を隠す為の娘修行だったから、男から見た女の魅力というものを考える意味が無いし、実際考えなかった。そんなのは男娼の世界だ。だが、美人局となると話は逆だ。男娼を全く理解しない私が美人局作戦をやること自体に無理がある。焦るあまりに不自然な誘惑をしようとして綻びが出るだろう。下手すると下心を疑われかねない。となれば、答えは一つ、女の魔力の修行をするだけだ。それが出来なかったら、作戦は一番始めの段階で失敗しかねない。
 美人局作戦を緑河の頭に披露した時は、単に今までの娘修行の延長で良いと簡単に考えていたが、ここまで考えると、今までとは別の意味で女を磨かないと駄目な事に気がついた。それは男の情欲をそそる容姿と仕草。酉関珀が私に対して男の情欲を強く抱くぐらいにまでに魅惑的な女装。それが私に求められているものだ。
 そういう女装への挑戦は、ゼロからの再出発を意味する。今までのように服で誤摩化すのでなく、中からにじみ出て来る雰囲気で女を感じさせる事が要求されるからだ。恐らく、男装の時ですら女を感じさせるようにならなければならないのだろう。そのくらい難しいが、それでも私はやらなければならない。そして、ここ2ヶ月の経験から、不可能ではないだろうと感ずる。というのも、どういう要素が必要か、おぼろげながら分かる気がするからだ。おそらくは体型と肌と体の動き。たとえば上半身は、少なくとも酉関珀よりは細くならないと、男は自分より太い男に情欲は持たない。そういったものを追究するだけだ。

 こんな事を考えながら帰り着いた翌日、改めて作戦を考え直すと、現在の環境が娘修行ならぬ女修行に不十分な事に気がついた。日常空間に男がいないと言う事だ。緑河の連中に会ってはじめて気付いた弱点・・・男から見ての女になり切れていない点は、男の目のない世界で改善は難しい。仕方なく筆屋夫婦に相談すると、しばらく考えあぐねた後、唄や楽器の稽古に行ったらどうか、と筆屋が言って来た。稽古の場に男はいないが、行き帰りで男の目に曝される。しかも、稽古の場には若い娘達・・・その半数以上が色香を出す事を求められる芸妓だ・・・がいるから、娘特有の魅力ある動作や姿を十分に観察出来る。しかも、そういう彼女達と行き帰りの途中を一緒に歩く事だってあり得るのだ。それは、男の目にさらされた娘の仕草を学ぶ絶好の機会だ。筆屋の言いたい事は私にも分かる。
 私が『男』だった頃、稽古に行く娘たちを眺めるのは一種の楽しみだった。もちろん大家の娘が外を出歩く時は駕篭の中に隠れてだし、その以前に、芸事を習う時は芸妓を家に呼びつける。だが、筆屋程度の市井の店・・・奥方が纏足しない程度の中下流のクラス・・・では、せいぜい付き添いを付ける程度だ。昼に女が連れを伴って出歩くのに危険も何も無い。中華は世界の文化の中心なのだ。もちろん近づいて無遠慮に顔を眺めるような野郎も希にいるが、そんな輩は付き添いから直ぐに排除され、その噂が直ぐに街に広まるから、女達はそういう男を遠目に見た途端に避けるようになる。だから、男達は、無礼の無い程度に、やや距離を置いて女を鑑賞するのだ。そうして女を品定めする。その時の記憶をたぐり寄せると、私や勉強仲間たちは、女の品定めの時に、清楚さや顔立ちだけでなく、むしゃぶりつきたくなるようなシルエットと動作の組み合わせもまた評価の対象だった。そういう男の目を意識しながら街を歩く事は、確かに良い勉強になる。
 筆屋の案に対して、奥方は
「でも、笙ちゃんの話だと、酉関珀は芸妓の美人局には警戒するんででしょう? そういう雰囲気を笙ちゃんが持ってしまっては不味いんじゃないの?」
と心配して来た。これは大丈夫だ。
「いや、既に気に入られているから大丈夫だと思います。それに媚びる気は全くありませんから」
話は決まった。

 それから3日目、奥方に付き添われて、私は弦の先生の所に向かった。真冬とは言え、昼は暖かいから習い事にはちょうど良い。これから2ヶ月間、5日に2度出掛ける予定だ。
 先生の所には他にも若い娘が7〜8人来ていていたが、大抵は芸妓の見習いで、嫁入り前の修行に来ている娘は2人だけだった。それでも私の目的には十分だ。というのも、こういう若い娘たちが店に来る事がなかったから。そもそも好奇心で店に来るのは、奥さん連中であり年寄り年増連中だ。そういう女達を見て私は女の仕草や魅力を学んだけれど、それを娘という設定に翻訳するのは難しい。もちろん、それでも私の女修行には確かに役立ったし、今も役立っているけど、ここに比べれば雲泥の差といえる。皆が皆、娘の魅力を発散し、しかも店と違って、女どおしの競争心を煽るような女向けの魅力だけでなく、娘の無邪気な魅力や、将来の結婚を夢みての男向けの魅力を発散しているからだ。まさに娘の為の塾だ。
 例えば椅子から立ち上がる時の体のふらつき、座る時の躊躇い、尻を強調するような纏足特有のふらふらした歩き方、弦を実際に鳴らす時の体の全ての部位の女らしさ。その全てがごく自然に為され、まさに男の心をそそる仕草になっている。それは、娘になり切っている筈の私にすら作用し、男としての情欲・・・店で年増連中に会った時には決して感じなかったもの・・・が時々むらむらと出て来る。もっとも、そのつど
「私はこういう娘を目指すんだ」
と思い直して辛うじて心をバランスを保つから、大事には至っていないし、それどころか、こういう葛藤で行動を押さえ気味の私は他の娘から見ると奥ゆかしいという事になって、とりあえず稽古は上手く行った。過去2ヶ月、私が心から女になっていたなんて飛んでもない、今まで男の情欲を感じなかったのは、店で食指をそそるような相手に会わなかった為だ。
 帰り道にさっそく纏足の歩き方を真似てみた。尻を単に振るのではなく、ゆらりゆらりと不安定さを感じさせる歩き方。百合の花。それは纏足していない女にとっても習得したい歩き方ではある。というのも、男の情欲をそそる為には、正面からの姿よりも、後ろ姿が大切である事を女の誰もが知っているからだ。正面の姿が勝負なのは愛らしさや可愛らしさの演出の為であって、それは単に愛でたくなる娘を作っても、魅力的な女は作さない。後ろから見た時の細身の上半身と、それによって引き立つ尻の丸みの組み合わせが、女特有の微妙な動きをした時こそ、女の雰囲気を漂わせて男をのぼせ上がらせるのだ。この事情、知らぬは初心な若い男だけだろう。そういう私だって知らなかった。店での接待の時にやっとこの秘密を感じた程度で、今日の女たちの会話と仕草の観察でようやく納得した。だからこそ、その歩き方をさっそく試してみたのだが、頭で分かっていても体は簡単には反応しない。内股歩きこそ過去3ヶ月で慣れている私だが、こういう微妙な歩き方は難しい。どんなに頑張っても、足をけがしている人間がそれをカバーするような歩き方しか出来ないのだ。幸い、通行人は殆どいないし、奥方が後ろをブロックしてくれているので、私の妙な歩き方は人目にはつかなかった。家に帰るやさっそく歩き方を練習し始める。3日後のお浚いまでには、少しはサマになる歩き方がしたい。

 こうして、私の娘修行は新しい段階を迎えた。数回稽古にいくと、他の娘達とも打ち解けて、行き帰りも彼女達と一緒に行動するようになり、奥方と一緒に外に出る事は再び無くなった。というのも、人目の付く所で私と筆屋夫婦が一緒にいるのは不味いと筆屋が忠告して来たからだ。現在、青河の少なくとも下っ端連中が未だに敵対行為を続けていて、彼らの間諜が録西街と青河を行き来する可能性のある陸路の一つに、この街を通る東西街道がある。そして、彼ら敵対組にとって、3ヶ月前の青河事件の当事者である家具屋夫婦とその姪は、反逆のプランに水を差した危険人物だ。現に、私たちは緑河に連中の動きを教えている。だから、私たちの名前は確実にブラックリストに乗っている。あの時に直接乗り合わせた船頭と漕ぎ手こそ謹慎中だが、彼らから私たちの年格好は反逆仲間に伝わっている筈だ。
 幸い、よもやこの街に私たちが居るとは誰も思っていないだろうから、ブラックリストの説明に合致する人物を一人だけ見かけても、たまたまと思って気には止めまい。だが、2人以上の組み合わせとなると話は違って来る。人間とは組み合わせになると途端にピンと来るのだ。今までこそ、ここは半中立地帯の、どちらかと云うと川で繋がっている緑河のシマに近いという事で安心していたが、青河の間諜が時折この街を通過している可能性が高くなった今、用心に越した事は無い。
 行き帰りのそうした用心を除けば、稽古は順調にすすんだ。初回や二回目こそ、娘の若い姿態に男の情欲を感じた私も、回数を重ねる毎に、純粋に見習う対象として見るようになってきた。そういう強い意志もあってか、今までよりも遥かに無心に女らしさ・・・女としてどうやったら男の視線を喜ばせる事が出来る・・・を追求できている。目標は一言で言えば無邪気。無邪気な娘ほど男の心を惑わす者はない。もちろん、君子であえば、無邪気な者にだけは手を出さないが、相手は、あの酉関珀だ。しかも私の事を既に気に入っている。となれば、私が身につけなければならないのは、まさしく彼女らのような無邪気な動き。それと体付き。
 こういう風に女の境地を無心に目指している私だが、だからといって、過去2ヶ月のように意識の上で女になろうと努力している訳ではない。むしろ、男の意識は今の方が強い。だが、それ故に無我の境地になれているのだ。今までの女装は、女の振りをすることで目の前の問題から逃げる、という意味合いがあった。こういう逃げの背徳感・・・逃げる為に女になるのは卑怯だと思う背徳感が、男か女かという意識の葛藤を生んでいた。でも、今度は皆の為に、ミッション成功の為に女装すると云う使命感・いわば自己犠牲のような高揚感があるから、女になりきる事への箍が外れている。だからこそ意識すらせずに女を目指せるようになったのだ。成果は当然あがって、1ヶ月もしないうちに娘の仕草と魅惑的な女の仕草の両方を同時に出来るようになった。
 歩き方や仕草だけでなく、女装にも工夫を加えた。酉関珀よりも細い体を目指した肋骨締め付け(コルセット)のお陰で上半身のシルエットは漸く満足出来るものとなり、それに伴って、尻のカモフラージュもサイズでなく形に専念出来る余裕が出てきた。尻は形だけの問題ではない。魅力的な纏足歩行を演出する為には、それに相応しい強度というのがある。それを模造する為の、布や綿の使い方もまた上達して、今まで以上に魅力的な後ろ姿と歩き姿を作れるようにもなった。これら、女の仕草やシルエット以外にも、弦やそれに伴う唄もまたそれなりに上達して、見習い芸妓程度には色っぽい音色を出せるようになった。これは将来もしも家庭教師作戦を実行するなら役に立つだろう。1ヶ月で大きな進展だ。もっとも、これほど急速に上達したのも、今までの基礎・・・奥方による躾がしっかりしていたからである事は言うまでもない。

 そんなある日、弦のお浚いからの帰り道に、私たちに声を掛けて来る男がいて、連れの護衛役の人がちょっと油断した隙に私の尻を触って来た。
「キャ」
となんとか女声で反応したものの、その後は、どう対応して良いのか分からずに、カカシ状態になってしまった。衆目の手前、男は直ぐに手を離したが、私の金縛りは止まらない。意識が硬直し、心臓まで激しく拍ちはじめた。
 恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい!
 今までは口で魅力を褒められるだけだった。しかも女性達から。しかし、今は実力行使だ。しかも男から。それは、『男にとってイイ女』になってしまった事を意味する。女から見た女でなく、男から見た女。それを目標にして努力して来たとはいえ、そういう『女』になってしまった事を身を以て実感させられると、その衝撃はとてつもなく大きい。その瞬間、今まで蓋をして考えないようにしてきた不安が吹き出して来る・・・私はとうとう女になってしまったのか? このまま男社会に戻れなくなるのか? 冷静さを失った心は悪い方への暴走しつづける。私は金縛りのまま立ちすくんだ。
 「よしなさい!」
と同行者が男の手をぴしゃりと叩いた音で、私は意識だけようやく回復した。一方、男はと言うと
「わりい、でも、こんなにイイ女から目を離したおめえ達にも問題があるぜ」
と非難を流している。手慣れた遊び人だ。同行した娘は
「しっしっ」
と男を追っ払ったが、男はちょっと離れつつも一緒について来た。私は同行の娘に肩を抱えられるようにして・・・胸で女装が暴露するへまはしない・・・一言も喋れないまま、やっとの思いで筆屋の家に帰り着いた。そのまま熱を出して寝込んだ私は、一晩中うなされた。

 今回の件は、痴漢への対応が全く出来ていない事を意味する。深窓の令嬢ではないのだから、この程度の事は、市井の娘と同じぐらいの対応・・・女らしく、それでいて毅然とした反撃・・・が出来ないといけない。だが、咄嗟という事で、体が硬直してしまったのだ。
「女装を見破られてはならない」
という潜在意識の不安も金縛りの一員だろう。
 翌日、筆屋夫婦と相談したら、奥方が
「なら、いっその事、男っぽい反応をしたら?」
と提案して来た。なんでも、先日の録西街ミッションでボーイッシュな娘を演じたのが良かったから、その延長はどうかと言うのだ。しかし、話は簡単ではない。言葉遣いと違って、体の動きは男女で決定的に違う。男の動きを見せる訳には行かないのだ。そう反論すると、今度は筆屋が思い切った提案をしてきた。
「じゃあ、護身術の訓練の為に武芸を学ぶか?」
「えっ? そんな事したら、バレるのでは・・・」
痴漢対策の余りに女装がバレては元も子もない。
「そう思うだろう、だが実際は逆だ。とくに他の娘とつるんで学べばな」
 なるほど! 言われるまで気付かなかった。女が武芸を習うのは確かに普通ではない。だが、だからこそ、武芸を学ぶような女は、勝ち気な女、或いは男になりたがっている女という事になるのだ。目立ってすら護身術を学ぶ人間が実は女装だったなど誰も思わないだろう。もちろん、たった一人で武芸を学べば、話半分に男ではないかとか男女とか噂され、その噂が一人歩きする事もあろう。だが、それすら、あくまで噂とか冗談のレベルであって、脱毛をきちんとして上半身を細く絞っている私なら、男のシンボルさえ隠せば問題は無い。その上、もしも仲間を見つけて一緒に学べば、そんな噂すら起こりえない。世間は娘達の流行、若い娘特有の世間に理解出来ない趣味として片付ける。それは私の行動すら普通の娘のものである事を証明する事にもなる。
 利益はそれだけではない。女という立場で武芸を学ぶ事が出来れば、確かに大きな動きをする時ですら女とバレる事はないし、それが街の噂になれば、多少男っぽい動きをしても見逃される。加えて、同輩がいれば年頃の娘の大きな動きと言うのをしっかり観察できるのだ・・・一緒に訓練しながらだ。確かに『勝ち気な娘でありながら同時に魅惑的な女』を演ずるという当初の目標にぴったりだ。となれば、あとは仲間を見つけて、教えてくれる師匠を見つけるだけ。仲間の方は、この1ヶ月で習い事の同輩とは仲良くなったから、私が誘えば、なんでも群れたがる娘の習性そのままに、一緒に習ってくれる可能性は高い。だから問題が師匠だけ。女に護身術を指導する先生なんて見つけるのは難しいだろうが、物事、始めから諦めてはならない。

 筆屋夫婦と私は、このアイデアにすっかり乗り気になった。聞けば、筆屋も武術を学びたく思って、既にそれとなく捜していたそうだ。というのも、ここまで闇組織と関わってしまった以上、彼自身が護身術を学ぶ必要を感じているからだという。それを聞き、私は当初の目的を思い出した。そして、その一里塚である、次のミッション成功へ決意を新たにした。男に触られたぐらいで恥ずかしいなんて言っていられないのだ。もっとも、筆屋と一緒に外に出るのは不味いので、行動は別になる。
 話が決まったので、次のお浚いの時に同行者に話を持ちかけると
「ああ、こないだの事が気になっているのね。うーん、でもよく、そんな大胆な事を思いついたわねえ・・・」
と一旦は呆れられたが、全く否定する訳ではなく、
「・・・意外と面白いかも知れないね。それで、習うあてはあるの?」
と聞いて来る。稽古ごとに出掛けるぐらいの積極的な娘だから、やっぱり心の奥底でそういう事に興味があるようだ。
「うん、叔父さまが捜してくれるって」
そう答えると
「考えておく」
と玉虫色の返事をくれた。
 稽古場に着くや、他の仲間に話してみると、すでに痴漢の時の話が大げさに伝わっていたと見えて
「うんうん、あんたは余りにお嬢さんお嬢さんしているから、そういうのやるといいかもね」
という反応が大半を占めた。少なくとも私が武芸を習う事に不審を抱く娘は一人もいない。もっとも、大半は
「あ、でもアタシは駄目、ごめん」
「忙しいの」
という返事で、参加しそうな人はそこまでは多くない。

 そうこうしているうちに筆屋が師匠を見つけてくれてた。拳法と棒の得意な退役軍人だそうだ。そこで改めで志願者を募ると、よその家の娘さんが1人と芸妓見習いが2人。私を含めて4人だから上々だ。これなら女の身であっても堂々と護身術を学ぶ事が出来る。


第26回:噂の表裏(主人視点)

 美人局作戦の概要を笙娘から聞いたとき、そういう視点で改めて笙娘をながめると、全然足りない事を痛感した。一度は女装ミッションをやった事のある身だから、そのあたりの過不足はかなりドライに見る事が出来る。笙娘に魅力不足の部分を指摘すると、本人も気にしていたのか、それが最大の壁だと即答して来た。
 自覚があるなら話は早い。より多くの若い女性に会わせればよいのだ。笙娘の事だから自ら学ぶだろう。俺だって、旅の途中の遠目に見かけた娘たちを見て勉強した。ここには、もっと良い場所がある。習い事の稽古の場所だ。案の定、笙娘が稽古を始めるや、見る見るうちに、振る舞いや女装の細かい部分が改善されて、すっかり女を感じさせる姿になった。歩き方だって、あたかも纏足しているかのような魅惑的なものになっている。一皮むけたのはそれだけではない。僅かに残った悲壮感が奇麗に消えたのだ。2ヶ月前、笙娘が女になるという決心をした後、確かに全てが急に良くなったが、それでも決心と本音との差はどうしようもないらしく、無理して女になろうとしているところがあった。今はそういう葛藤すら感じられない。素直に娘になりきっているのだ。あたかも、心から女になってしまったみたいに。その様子は、傍から見ている俺でさえ、男に戻れるかどうか不安に感じるほどのものだ。さすが、命がけの向上心のある者は違う。
 そこまでは良かったが、こうもあだっぽい風情が備わって来ると、今度は街の男を気を付けなければならないという問題が生じた。そもそもが愛嬌のある美少女なのだ。世の中の男どもが黙っている筈が無い。そして、心配は的中した。習い事を始めて一ヶ月ぐらいだろうか、遊び人風の男に尻を触られる羽目に至ったのだ。
 ここで市井の娘のあっさりした対応が出来れば良いのだが、女らしさを追求する事に専念している笙娘にそんな余裕がある筈も無い。同行した娘の話によると、まるで男性恐怖症のように怯えていたと云う。それは、勝ち気で快活な娘を目指している笙娘には相応しくない。幸い、笙娘の街での評判は逆に近く、引っ込み思案の、それでいて心の底では快活な世界を目指している女の子と思われていたら、女装の秘密はバレずにすんだが、それでも、こんな極端な対応を続けていては矢張り不自然だし、何よりも笙娘が萎縮してしまう。早急にどうにかしなければならない。
 色々考えた末、笙娘に女の護身術を学ばせてはどうかと思いついた。唯一の懸念は一人で学ぶと目立つ過ぎるという事だが、笙娘には稽古事を通じて同年代の娘の知り合いがいるから、彼女達を誘えばどうにかなるだろう。となれば、残るはどの護身術を学ばせるか。元来が男である以上、筋肉がつきやすい。だから、筋肉を鍛えすぎないタイプの武術でないといけないのだ。例えば反射神経を育成するタイプ。その中から、痴漢対策の護身術にピッタリの武術で、街に先生のいるという条件でさがす事になる。ついでにいえば、出来れば俺自身の武道訓練もしてくれる先生が良い。習う時刻は別の予定とは言え、同じ先生だと、笙娘の進展具合などの情報を何かと得やすいのだ。
 数日尋ね回った挙げ句、拳法と短棒の得意な退役軍人と話がついた。還暦間際で、既に息子に軍の仕事を任せて、本人は名目ばかりの骨董屋を営んでいるから、時間は十分にあるし金もそんなに掛からない。一方、笙娘のほうも稽古仲間に声を掛けて、よその家の娘さん1人と芸妓見習い2人から色よい返事をもらっている。このうち、娘さんの方は纏足もしておらず、それもあって笙娘とは仲が良い。だから今回も一緒になった。
 こうして話がまとまり、10日に3回、店の昼休みの時間に習いに行く事になった。そればかりか、そこの親も一緒に参加する事まで決まってしまった。となると、俺と笙娘だけでの外出という形になりそうで、青河の連中に見られる事が気になるが、幸い、行き帰りとも他の親娘と同行する事になった。念には念を入れて、親は親どおしで少し離れた所で歩くようにした。かなり前を歩く笙娘と連れの娘には、代わりに練習用の短棒を手に持って貰う。名目はもちろん実地訓練だ。これなら、たとい笙娘が痴漢に会ってカカシになっても、俺達が追いつく前に連れの娘が棒でひっぱたくだろう。

 こうして練習が始まった数日後、緑河の連絡係がやってきた。前回は2ヶ月もの音沙汰無しの挙げ句にいきなり新しいミッションを要請されたが、今回はそんな事はない。次のミッションが既に決まっているから単なる中間報告の筈だ。今や関係者そとなった笙娘も交えて話を聞くと、案の定、連絡係は酉関珀に白猿堂の名前で筆の土産を門番に渡した話とか、家内の実家の様子とかを伝えて来たが、それだけでなく、緑河の頭目から言付かった重要な相談をしてきた。それは、酉関一家と通じている青河の間諜が誰なのかまだ分かっていないので、ここで見張る後方援助をして欲しいという内容だ。単なる後方援助なら簡単だが、相談内容は更に一歩踏み込んで、囮をやって欲しいとのこと。
 緑河の頭目の考えでは、笙娘の噂を立たせて近隣の興味を引かせようというものだ。録西街から青河に通じる東西の街道は、ここを通る街道の他に南に2つある。顔もかたちも知らない間諜を、全部で3つある街道の、全ての街で見張るのは難しい。となれば、確かにおびき出すのが有効だ。その餌として
「青河の親分が首ったけの美人がこの街にいる」
「その美人は娼婦なんかでなくて、立派な商家の娘らしい」
という、少しだけ事実からずらした噂を撒こうと云ういうのだ。この噂を聞けば、青河の間諜は、道ついでの偵察に笙娘を見ておこうと思うだろう。それを狙って、俺と笙娘が一緒に街の中を歩けば、間諜ならピンと来る筈だ。そういう不審者を徹底的にマークするのが頭目の考えらしい。敵は間諜だから平静を装うに決まっているが、目利きの出来る者なら見分けられるらしく、実はその為に腹心の子分を3人ほど潜入させていると云う。もちろん機密の為に子分達は我々には顔を見せない。
 このアイデアに俺は魂消てしまった。4ヶ月前の青河での事件は、緑河と青河の頭の申し合わせで復讐しない事で手打ちになってはいる。だが、下っ端は何をするか分からないし、現実に録西街や包家村でシマ荒らしが続いている。もしかすると手打ちだって偽装かもしれないのだ。そんな連中に、俺達の身元までもバレてしまっては、とてもこの街には住めなくなる。だからこそ、笙娘が弦のお浚いや護身術の訓練に出る際は、俺や家内が一緒にならないように気をつけたのだ。そういう苦労をして来た身だけに、作戦の意味は分かる。確かに敵を引きつける為の餌にはなろう。でも、引きつけた敵を確実に捕まえられる保証が何処にある? もしも敵がこっちの網をくぐり抜けて青河の本拠に戻ったら、俺達が酷い目に合いかねないのだ。
 作戦のハイリスク・ハイリターンに、私が思わず
「それは危な過ぎるでしょう?」
と答えると、連絡係は俺の反応を予想していたのか平然と説明して来た。
「なあに、美人ってだけで名前は言わないから、この街に来なければ身元は分からないし、そこまで調べるくらいなら、ついでにあんたらを一目見ようとするだろう。間諜の経路は東西街道って分かっているから、そんな旅人なら、俺達の網に引っ掛からない筈が無いぜ・・・宿と云う宿に金をばらまいているからな。あんたらを一目見てピンとくるような不審な旅人も同様だ」
なるほど、確かに噂が『商家の娘』であれば、簡単には俺達には繋がらない。
 だが、問題はそればかりではない。笙娘が実は青河の頭の囲い者だったという裏設定は、次のミッションで使うアイデアだ。ミッションの前にそれが録西街に伝わると、筆屋の姪というキーワードで、酉関珀に感づかれてしまうかも知れない。それを指摘すると、連絡係はこう答えた。
「酉関の親父の耳には届くだろうが、笙娘は親父には会っちゃいねえから、親父は気にも止めるまい。人間、会わない奴の事なんか気にしないもんだぜ。そして、酉関珀はあんな奴だ。学問の出来る娘が闇商売とつるんでいるなんて思う筈がねえ」
なるほど、連絡係というか、緑河の頭目の言い分は実情を良く把握している。確かに、噂の『商家の娘』と、会った事のある『白猿堂の使用人と姪』が簡単に繋がるとは思えない。
 だが、ああいう家の事は本人だけでなく使用人まで考える必要があるのだ。
「酉関珀が笙娘に異常に興味を持った事は、酉関珀の使用人から父親に伝わっているでしょう」
「ああ、そこだけが問題だ。酉関の親父が酉関珀に、身元の確認などの指示を出しているかも知れん。だが、それで事情が変わる訳でもあるまい」
冷静に考えれば連絡係の言う通りだ。身元の確認の確認をされたとて、酉関一家にとっての筆屋は『白猿堂』の使用人であり、しかも家内の男装だ。小売りの筆屋の俺ではない。
 それでも、と思う。身元の確認が笙娘に及ぶと不味い。笙娘は向うでもこちらでも同じ恰好だ。・・・いや、こういう細かい問題ではなく、大局的なリスクとリターンを考えよう。この作戦は割に会うのかどうか?
「緑河の頭が焦る気持は分かるが、別に敵をあぶり出せなくても、笙娘の立てた作戦に支障はないんじゃないのか」
「まあ、お前達を危険に陥れかねないアイデアって事は確かだ。だがな、それを言うなら作戦もそうだ。世の中は囲碁将棋と違って、一ヶ所でも予定からずれると忽ちオジャンになるような作戦じゃあ心もとないだろうが。それを防ぐ為に間諜を押さえるのさ。その為に多少は博打を打たなきゃならないが、男なら、たまにはいいんじゃねえか?」
連絡係はそう言って、片目をつぶってみせた。相変わらず軽い男だ。

 その時、今まで黙っていた笙娘が口を開いた。それは、作戦提案者からの重い意見だった。
「美人局が成功した時に、酉関の親父に、しまったと確実に思わせるには、確かにこのくらいの細工が必要かもしれません」
そもそも、次のミッションでは、酉関珀をおびき出した後、笙娘が実は青河の頭の囲い者だったと酉関珀に思い込ませる事で、その後の酉関珀への復讐の理由付けをする予定だった。その上で、更に青河の内部闘争に巻込まれたように思わせる。この作戦だと、酉関珀は自らの軽率さを悔いるばかりの筈だから、緑河の陰謀とは決して思うまい。後日、酉関珀は父親の元に帰された時だって、父親にそう言うだろう。一人息子の危難に父親が後悔するところを、緑河が助け舟を出して、完全に青河と関係を切らせる。これがミッションの大まかな構想だ。
 ミッションの最終ターゲットは、あくまで酉関の親父であって、酉関珀ではない。ならば、直接、酉関珀に青河の仕業と思い込ませる方が早いし安全ではないか? 笙娘は、そう説明をしたあと
「だから、噂作戦は悪くないとは思います。ただ、迷惑をかけっぱなしの筆屋さんにこれ以上の迷惑がかかってしまうかも知れない事だけが気がかりです」
と言い切った。ここまでいわれたら俺も男だ。最悪の時は緑河の連中が俺達に新天地をさがしてくれるだろう。
「分かった、博打に乗ろうじゃねんか」
こうして決まった作戦では、噂は俺達からでなく、ここよりも南の街道にいる緑河の協力者から出す事になった。しかも単に青河の小頭と通じているというだけでなく、それに相応しくなるべく、武芸訓練までしているという尾ふれまでつけて。もちろん、武芸の訓練での行き帰りでは、半月後ぐらいから俺と笙娘が並ぶようにして歩く予定だ。
 もっとも、噂の効き目がどのくらいかは分からない。なんせ、この街で笙娘を知っている者なら、笑い飛ばすに違いない内容だ。意外に全然伝わらないかも知れない。

 武術の練習の方は、男は屋外で訓練し、女は室内で訓練するから、笙娘の練習の様子を直接見る事は無い。もちろん格子の窓越しに中の様子を伺うは出来るが、格子に張り付いて中を見るような無作法な真似をしたら、即刻破門だ。せいぜい、格子から少しは慣れた所・・・明るい屋外・・・から暗い室内を見るのが関の山で、顔は肌もちろんのこと、細かい動きも分からない。とはいえ、大きな動きだけは分かるから、どういう練習をしているのかぐらいは伺い知れて、始めは引っ込み思案だった娘達が次第に積極的に棒や挙法の型を習い始めている様子が分かった。笙娘ひとりだけではないという事が分かるだけで十分だ。
 動きだって取りあえずはシンプルな奴だから男女の違いはそこまで目立たない。俺は笙娘が男であると知っているから大きな動きでの他の娘達との違いが見分けられるが、知らない人には、ちょっとおどおどした女の子ぐらいに見えるだろう。というのも、男っぽい動きを避けるべく、他の娘の動きを真似る事に専念しているからだ。笙娘が引っ込み思案に見える事は、師匠の説明からも聞き取れる。笙娘に対して
「君は纏足していないのだから、もっと思い切って踏み出して! はしたないと思われるぐらいに!」
と声を掛けている。纏足の娘と同じぐらいしか踏み出していなければ、そう言われるだろう。一方、纏足の芸妓見習いに対しては
「纏足でも、もう少しは踏み出せる筈だ。始めは痛いだろうが、身を守る為だ、我慢しなさい」
と言っている。
 こうして始まった練習だが、いつまでもおどおどしている笙娘ではない。2回目の練習からは、数回に一回ぐらいは思い切った動きを見せ始めた。女の動きを真似している事は分かるものの、どうしても動作に男っぽさが混ざってしまう。しょせん、男と女とでは関節の向きや肉のつく位置が違うのだ。だが、そういうアンバランスな動きも、傍目には、女の子が頑張って男っぽい動きを真似しているように見えるらしく、
「その調子」
という師匠の褒め言葉と
「今の、ちょっとかっこ良かったわよ」
という娘達の喝采が続けて聞こえて来るので、あまり心配は要らない。
 こうして5回目の練習を数える頃には、基本的な動きを覚えた笙娘は、かなり女の動きが出来るようになった。もはや、男が女の動きを真似ているというより、女が男の動きを真似ていると云う感じで、これなら多少の立ち回りをしてもぼろを出さないだろう。上達したのは動きだけではない。痴漢に触られた時に、足を瞬間的に動かして、同時に相手の腕を捻り上げる技術も上達したようだ。その手の暴漢対策は、彼女達だけでなく、屋外で練習している達もまた上達していて、俺ですらかなり自信がついてきた。

 もっとも、一つの訓練に集中している時は、他の要素が退化するものだ。その例にもれず、せっかく過去1ヶ月で笙娘があだっぽい歩き方を身につけたのに、そういう色気が若干失われてしまって、普通の色っぽい女程度の歩き方になってしまった。あばら骨だって練習の副作用で全然細くならない。もちろん尻などの女装が依然として上達している分、体型は更に男を惹き付けるものになっているが、歩き方まで含めるとあと一息だ。次のミッションまで半月しかないから、そろそろ考えるべきだろう。そう家内ともども相談すると、笙娘は
「それはアタシも感じておりました。でも、感じは掴めているから3日も専念すれば、ちゃんと歩けるようになると思います」
との答えだ。本人が分かっていたのなら忠告は無駄だったかなとも思ったが、実際はそんな事はなく、翌日からさっそく、あだっぽい歩き方で、かつ防備の心得のある歩き方と云うに心を砕いていた。向上心のある者に、無駄な忠告と云うものはないようだ。
 気になる事はもう一つある。それは、間諜おびき出しの囮作戦の成果が全然出て来ない事だ。もちろん、間諜と分かっても、次のミッションで警戒されない為に、この街で騒ぎを起こす事だけは無いと云われているから、水面下でどういう動きがあるのか分からないが、連絡係は来ないし、関係のありそうな噂すらしない。それどころが、笙娘と青河との関係がどうのこうのという噂すら全然聞かないのだ。もしかしたら、俺達の耳に入らないだけなのかも知れない・・・街の常識的な連中からすれば、どうみても誹謗中傷の類いだから・・・が、こうも回りが静かだと、作戦そのものが中止になったのではないかとすら思えて来る。

 このように気になる事を抱えながらも、前回のミッションから2ヶ月が経ち、桃のつぼみが膨らんで、そろそろ次のミッションの準備をはじめた矢先、とんでもないハプニングに巻込まれた。たまたまお忍びで領内巡回にやって来た市知事親子(注:正式名称は県知事だけれど、当時の中国の県という行政管轄は日本で言う市や郡に近いので、ここでは市知事という言葉を使う)に笙娘が見初められたのだ。全ては笙娘の努力の成果。身近にいる俺の方が、身近すぎて分からない事だってある。
 市知事から派遣された仲人婆の話に加えて、うわさ話や近所の者からの情報を吟味すると、知事の息子は当年20歳で、既に4年前に生員に合格している秀才らしい。初めての郷試こそは落としたが成績はそこまで悪くなかったと云う。その御曹司、子供こそいないが既に妻帯していて相手は2つ年上、金の草蛙を履いてでも捜さなければならない正妻が既に居る。ただし、年上で良家の娘だけあって頭が上がらず、気楽に可愛がれる妾の一人も欲しい所で、そういう安らぎが彼に必要な事は正妻も理解している。そんな折に見かけたのが、武芸の手ほどきからの帰り道の笙娘だった。
 見初めたのはまず後ろ姿らしい。纏足と見紛うほどのふらつく歩き方で魅力的な尻をゆらりゆらりと振りつつ、隙のない足運びで細い胴体をしっかり固定している歩き方に、興味・・・男は情欲をそう言い繕うものだ・・・を覚え、わざわざ道を替えて、追い抜きがてらに振り返った容姿が、美少女でありながらも冷たさが全然なくて愛らしく、着ている華やかな服にピッタリだったのが目に焼き付いてしまったそうだ。あとはお決まり通り、さっそく我が街に一泊する事に決めて、同時に連れの者に相手の名前の確認から身元から婚約者の有無まで調べさせ、読み書きまで出来るという話を聞くに及んで
「彼女こそ私の伴侶だ!」
と叫んだとか叫ばなかったとか。翌朝、正式に仲人婆を店に派遣し、俺は家内共々話を聞く羽目になってしまった。この手の刺激に弱い笙娘は今朝から寝込んでいる。まさに、過ぎたるは及ばざるが如し。女装が完璧過ぎるのも考えものだ。唯一の成果は、『商家の娘と青河と頭』の噂話が実際に街に広がっていたと云う事を知ったぐらいだろう。しかも、より厄介な形で。

 流した噂では商家の娘というだけで、俺達と笙娘を直接さす言葉はない。だが、街の商家に該当しそうな美少女がいなかった事と、笙娘が俺達よりは上のランクの家の雰囲気を漂わせている事から、噂がねじ曲げられて、笙娘は実は立派な商家の娘で、青河との関係が親にバレて追い出されたところを、俺達が匿ったというような噂になっていたらしい。いかにも噂らしい尾ひれだ。もっとも、噂は単なる話のネタとして楽しまれているだけで、本気で青河と関係があると思っている者なぞ一人もいない。というのも、誰もが笙娘の人見知りする様子を知っているからだ。引っ込み思案で如何にもお嬢さんお嬢さんしている笙娘は、とうてい闇商売と結びつかない。その上、そんな噂が笙娘の耳にでもはいったら、それこそ高熱を出して寝込んでしまいそうで罪作りだから、俺達の耳に入らないようになっていたらしい。恐らくは余所者にも伝わっていないだろう。それどころか、余所者が『商家の娘と青河と頭』の噂を尋ねでもしようなら、
「ああ、女の嫉妬がらみの話かね」
と軽く流されて、青河の間諜も調子抜けするに違いない。
 そこまでは良いのだが、問題はこれからだ。市知事との縁談で風向きが変わり、玉の輿への嫉妬まじりで噂が再発して、昨日の今日で噂が俺達の耳に入ってきたのだ。しかもピンポイントで。もはや『商家の娘』でなく、俺たちの所に居候している笙娘が、青河と頭と良い関係だったという噂に変貌している。いかにこの手の嫉妬にぴったりの内容だったとは言え、名指しと早さは想定外だ。その位に凄い玉の輿という事になるが、だからといって手をこまねいている訳にはいかない。というのも、こんな噂が、俺達の耳に簡単に入るぐらいに急速な広がりを示している以上、青河の間諜が笙娘や俺達を探索しない筈が無いし、そうなれば、見られたら最後、俺と笙娘が一緒にいようがいまいが、5ヶ月前の青河事件と結びつけられかねないからだ。となれは答えは一つ、早くこの街から姿をくらますだけ。

 姿をくらます前に、厄介ごとが一つ残っている。目の前の仲人婆だ。こいつは噂よりも厄介な敵だ。俺は定石どおりに、今まで近所に話してきた設定そのままでに、州都の商人と縁談が進んでいる話をして
「折角のお話ですが、先約がありますので」
と断ったが、それで引き下がる相手ではない。海千山千の仲人婆なのだ。
「その縁談はどの程度すすんでいますの?」
とか
「州都と言ったら魔の巣窟、正妻という約束で嫁いだけど、扱いは妾以下って事がよくありますよ」
とか
「断って困る相手でもございませんでしょうに」
とか言って、しきりに知事の息子との縁談を薦めてくる。何度も
「約束は約束ですから、無理ですよ」
と繰り返して、やっとその場は引き取ってもらったが、仲人婆の様子では、相当金額の成功報酬を約束されているみたいだから、明日も明後日もやってくるだろう。
 厄介ごとは他にもある。内容が玉の輿だけあって、仲人婆が帰った後は、近所の連中がひっきりなしに店にやって、仲人婆と同じ口調で縁談を勧めてくるのだ。笙娘に許嫁がある事は、以前から彼らに仄めかしてはいるものの、誰もが嫁ぎ先を同業者程度に思っているから、それよりは身分が高くて将来も嘱望出来る者への鞍替えを薦めるのは当たり前だ。こうなっては、一刻の猶予もない。明日にも雲隠れしよう。
 不幸中の幸い、次のミッションが近いから、その前に毛抜き師の所に籠る用事がある。それを明日に無理矢理繰り上げた。予約はしていないが、この時期に向かう事は緑河の連絡係から既に伝わっているから、先客があったとしても数日待たされるだけ。俺達の不在については、突然の話に笙娘の気分が悪くなったので、数日養生の為に保養地に行く、という理由付けをすればよいだろう。実際、笙娘は寝込んでいるし、近所の連中もそれを知っている。不思議に思う者があったとしても、留守役の家内なら納得させられる。

 翌朝、熱が引いた笙娘を連れて、暗いうちに家を出た。城門は閉まっているが、出て行く分には乗り越えやすい場所があって、そこから出て行く。今までと同じだ。この近くはそれほど盗賊がいる訳でもないので、警備は非常に緩い。いったん外に出てしまえば、前回前々回と違って春分に近い気候は歩きやすく、しかも笙娘も3度目と云う事で、道の悪い所は大体覚えていて、暗くても旅程ははかどる。しかも、北街道は青河の間諜が行き来している危険もないから、ひたすら歩く事に専念すればよい。かくて、昼過ぎには例の山村に着いた。タイミング良く、先客が帰ったばかりで予約は無いと言う。さっそく、笙娘は風呂に案内され、俺は風呂焚きと薪の準備に専念した。2泊の間に、すね毛や髭は言うに及ばず、眉や髪の生え際までも清楚な娘風に整えた笙娘は、過去2回の毛抜きの後とは比べ物にならないほど美しい。


第27回:縁談騒動(笙娘視点)

 女装を続け、それを美人局目的に極めるという事は、ターゲット以外の男からも言い寄られる事を意味する。そういう当たり前の事をすっかり失念していた私は、突然の縁談にすっかり動転してしまった。ただでさえ心構えも対策もないところに、玉の輿と云う大波だ。このままずるずると男に戻れなくなってしまいそうな不安と、それほどまでに女になってしまった事への恥ずかしさにさいなまれ、挙げ句はミッションへの自信すら失ってしまった。こんな精神状態で物事に冷静に対処できる筈が無い。現実から逃げるように、高熱を出して寝込んでしまった。
 それほどに、男から女と見られる事は怖い事なのだ。それは自分の身と自由を奪われる怖さ。女から女として見られる不安とは異質で、何十倍も精神的負担を強いる。今にして初めて女装の怖さを思い知った。1ヶ月前に尻を触られて熱を出したのも、元はと言えば身を奪われる怖さを本能的に感じたからだろう。幸い、別の理由で、筆屋が私を毛抜き師の所へ緊急脱出させてくれたが、さもなくば気が狂って全てをさらけ出していたかも知れない。
 辛うじて街を脱出した私は、毛抜きで束の間の平穏を得た。女装の怖さを思い知ったにも関わらず、更に娘らしくなる行為で心が休まるのも変な話だが、場所が変われば気分も切り替わるものだし、慣れとはそんなものだ。そう、毛抜きも既に3度目なのだ。しかも3度目となると抜く量が減ってるから、毛を抜く事に妙な喪失感がない。それにしても、この毛抜き師は一流だ。これが薮の毛抜き師だと段々に毛が太くなるそうだが、特殊鍼と秘薬のお陰で、毛までも薄くなっている。だから、今回は作業が早いし、そのぶん細かい所まで毛を抜いてくれる。眉や髪の生え際だって娘風に揃えてくれた。
 1回目の毛抜きこそ、若干の抵抗があって、服だって男女どちらともとれるような旅装にしたけど、今は違う。女装の怖さを思い知ったと云っても、少なくとも美人局ミッションが終わるまでは娘でいなければならないと覚悟しているから、女装を止める事なんて思いもよらないし、それどころか、もっと魅力的な、いや蟲惑的な娘になれるものならなりたいと思っている。男に奪われる事への恐怖と、それでも蟲惑的な娘になりたいという女心は両立するものらしい。だから、プロの毛抜き師からみれば、私は前回以上に娘らしく・・・男娼らしく・・・感じられる筈で、それで今回は今まで以上に完璧な毛抜きになった。そうして仕上がった娘風の髪の生え際というのは気持がよく、更に娘になれたような幸せな気がする。きっと私は更に美しくなれただろう。他人から無理矢理自由を奪われてしまう怖さはあっても、自らが美しくなる事の喜びを止める事はできない。怖くても幸せ、いや怖いからこそ幸せなのかも知れない。

 3日目の午後、身も心も刷新して家に戻ると、直ぐに近所の連中がやってきた。それまでの僅かな時間に、旅装から普段着に着替え、さらに奥方から不在中の様子を聞く。1日目は私たちの不在を幸い、仲人婆は奥方を説得にあたったけれど、奥方が
「約束は約束で、それを主人に無断で破る事は出来ません」
と突っぱねると、すごすご帰ったそうだ。2日目は、養生という雲隠れした理由について疑い始め、
「隠れてばかりじゃ知事さんが気を悪くしますよ」
と脅して来たそうだ。そして今朝。私達の不在を確認すると、今度はいつ帰って来るか尋ねてきたので、奥方は明日か明後日という無難な答えをしたそうだ。
 そういう説明も終わらないうちに、近所の連中が揃ってやってきた。応対に出て行った筆屋に
「なんで、勝手に雲隠れするんだい?」
「逃げるなんて意気地なしだぞ」
「知事が気を悪くしていたぜ。俺達にまで迷惑がかかるだろうが」
と、奥にいる私にも聞こえるような声で詰問してくる。ちなみに、市知事は始めから逗留していない筈だから、最後の言い分は想像に違いなく、要は説明責任を放棄して逃げた事を非難しているのだ。筆屋は、奥方と同じ説明を繰り返した・・・私が店に出て2日目に来客に会っただけで寝込んだ事や、1ヶ月前に尻を触られただけで熱を出した事を引き合いに出して、私が落ち着くまで一時的に避難していたと説明した。同じ説明でも、私が実際に戻ってきたという事実が決定的で、誰もが掌を返したように
「なるほど、そりゃそうだ」
「それなら若様も納得するぜ」
と褒めて来る。やりとりが一通り終わると、市知事の息子があと数日逗留する積もりらしいと、相手の熱心ぶりを、これまた奥にいる私に聞こえる声で教えて来た。そこまでは良いが
「焦らし切った今がチャンスだぜ」
と煽ててくるから厄介だ。筆屋と市知事が親戚になれば、彼らも権力者と地縁となる。そうして玉の輿にあやかろうと云う下心が見え見えだ。

 噂が走るのは早い。夕方には仲人婆がやってきた。旅の疲れを理由に面会を断ったものの、脱毛の旅の間に私も筆屋も腹はくくっている。翌日、朝の商いが終わる間際にやって来た仲人婆と、私たちは対峙した。仲人婆はさっそく相手方の最新情報を伝えてくる。それによると、読み書きが出来るだけでなく纏足や耳飾りもしていないという話が彼の正妻に伝わるや、正妻までもが帯妾に大賛成し、第2夫人として厚遇すると約束したという。結婚4年にもなって未だに懐妊の兆しのない正妻の立場からすれば、いずれは跡継ぎ作りの為に妾が家に入るのだから、それならば、あまり寵愛を独占しそうな妾は避けたい。だから、飾り物をしていないような娘は大歓迎なのだ。
 交渉では正論をタテにした強硬姿勢が基本だ。というのも、いくら断っても、仲人婆というのは、条件を変えてはスッポンのように食いついて人種だからだ。特に今回は近所の世論という味方を得ているだけに、いかに筆屋が正論をかざしても引き下がらない。まさに膠着状態。だからといって、話を物別れにするのは、筆屋がこの街に気持良く住む上で問題があるから、実は私たちも着地点を探している。そんな折、仲人婆は
「じゃあ、どうでしょう。2ヶ月以内に、先約との縁談(注:結納以上)が整わなかったら、若様の方にいらっしゃるとうのは」
と条件を出して来た。少し妥協点に近づいた気がする。もちろん、正論からすると、正妻として呼ぶ訳でもないのに失礼な話だが、正論は正論、妥協は妥協だ。それを感じ取ったのか、筆屋も、単なる否定でなく、条件の悪さを指摘した。すると、相手も何かを感じたのか
「相手は将来の官僚ですよ。第2夫人の何処に不満があるというんです? 男の子でも生んだら、それこそ正妻以上じゃありませんか」
とまくしたてた挙げ句
「じゃあ、いいでしょう、2ヶ月でなく4ヶ月って事で」
と強引に話を決めて来た。この分なら、相手は始めから半年猶予の予定だろう。
 断る口実はいくらでもあるが、しかし、と考えた私は、筆屋の袖を引いて、相談の為に奥に入った。半年もあれば試験の結果も出て、通ればよし、落ちた所で、落ち着き先が決まっている筈だ。そもそも、ここに何時までもお世話になるべきではない。となれば、ここは承諾しても構わない。私の落ち着き先が決まった段階で、仲人婆には、縁談が決まった、と復命すれば良いのだから。筆屋も同じ考えだったと見えて、筆屋一人で表に戻った。
「わかった、わかった、1年猶予なら考えないでもないから、今回は引き取ってくれ」
「じゃあ、3ヶ月先にお話を伺うって事で」
「1年だ」
「じゃあ4ヶ月」
「駄目だ、10ヶ月」
「相手は知事さんですよ、半年以上待たせて駄目だったらこっちの首が危ないですよ」
「じゃあ、半年以内に約束先と話が整うように努力だけはするから、帰った帰った」
 筆屋の話では、仲人婆はしてやったりという顔で帰ったそうだ。街で生きて行く為にはこのくらいの妥協が必要らしい。それでも、街の人々には私が知事の息子を手玉にとった事になるらしく、その日の午後にはこういう囃し唄が私の耳にも聞こえてきた。
「筆屋自慢の小娘は、闇大尽を袖にして、御曹司すら掌の上」
危険な噂だ。下手をすると青河の間諜に全てを悟られて、筆屋夫婦までもこの街に住めなくなる。
 仲人婆が帰ると、即座に奥さん連中がやって来た。まず、毛抜きで更に奇麗になった私の肌とかを褒め
「雲隠れなんかして相変わらず弱い子だねって思ってたら、まあ、ちゃっかりしてるわねえ。気に入られる為に気合いを入れていたの? 感心感心」
とからかってくる。私が顔を赤らめると、今度は
「その様子じゃ、本音は知事さんの方がいいのね?」
「いつ州都にいくの?」
「半年と云わず、直ぐにぶちこわしてきたら?」
などと言って来る。その度に
「そんな、今まで待って下さった方に不義理な事は出来せん」
と答えて、やっと
「やっぱり笙ちゃんは良い子だねえ。いいお嫁さんになるよ。」
という反応を引き出すものの、直ぐに
『でも、奇麗に身繕いしちゃってさあ。いやいや、言い訳なんてしなくていいから。おばさんは笙ちゃんの味方よ」
と言って来るという具合だ。あっという間に日が暮れた。

 翌朝早く、私たち3人は近所の意表をついて出立した。こういう時の行動は迅速さが命だ。出立は私にとって街とのお別れを意味していたが、別れの挨拶は一切無し。意表をつくとはそういう事だ。突然いなくなって不人情と誹られるのは心苦しいが、ここまで噂になってしまった以上、物好きに道の途中まで同行される危険があるから、それは避けなければならない。私が出発を告げれば街の者は州都に向かうと思い込むだろう。でも今の私たちの行き先は違う。それだけでも疑惑を生むのに、更に私たちは途中で姿をくらませないといけないのだ。そういう困難を避けるには、こういう隠密行動しか無い。もっとも、稽古の師匠と護身術の師範には前々から春分近くにいなくなる事は伝えているし、挨拶の手紙も毛抜きの合間に書いていて明日にでも筆屋に持って行って貰うつもりだから、最低限の儀礼は果たしていると思う。
 ちなみに筆屋は、2ヶ月前と同じく、私と奥方を送った後、その日のうちにとんぼ返りする。子供を受け取るためだ。なんでも、筆屋夫婦が日帰りで何処かに行く時は、子供が勝手に隣家に行って夕方までそこで過ごす習わしになっていて、出発前に近所に根回ししなくて良い案配になっているらしい。それは相手の子供も同じで、筆屋の所で過ごす。商売人は急な用事が出来やすいのだ。でも、さすがに泊まりがけは緊急事態限定で、だから筆屋も日帰りの予定だ。もっとも今回は、子供の件以上に、私が急にいなくなる事を回りに説明する意味合いが大きい。市知事の息子や近所の連中をいつまでも待たせる訳にはいかないからだ。出来るだけ早く説明しないと、無礼な筆屋という噂が立って後々の商売に差し障る。
 その説明だが、2ヶ月前のミッションの際に
「私の親戚の所に行って来た」
と説明した事を利用して、今回も私がいったん親戚の所に現状報告がてらに行って、そのまま州都に向かうという事にした。これならば市知事や仲人婆の面目が立つし、近所も納得する。ともかく近所連中は、私に気ありと思っているのだ。そういう噂が市知事の息子に入れば、突然の出立だって大目に見てくれるだろう。何より、私だって、好きな女が出来れば同じように大目に見るに決まっているのだ。こんな恰好こそしているけれども、同じ男として男の心理は良く分かる。
 もちろん、これらの設定は、私が街に戻らない事を前提に進めている。その意味では、私は試験後の身の振り方を考えなければならない。取りあえずは安宿に下宿するが、それは試験の間だけ。その試験は今から20日ほど先に始まり1ヶ月半後に終わる。そして結果は今から3ヶ月以内に分かる。その後は試験次第だろう。通っていれば、運が良ければ学校に行けるし、そうでなくても仕事を探すのには困らない。問題は落ちた場合だ。義母の親戚の葉家に世話になるか、緑河の客人になっているか、はたまた、再び女装して何処かの侍女になっているか。天のみぞ知る。

 急な出発と言う事で、緑河の連中との連絡が取れていない。そして、彼らとの約束の日より数日早い。だから、本当に連絡が取れるのか不安がある。のみならず、今回は
「筆屋自慢の小娘は、闇大尽を袖にして、御曹司すら掌の上」
という囃し唄の為に、街の外でも青河の間諜を心配しなくてはならないのだ。昨日の段階で私の耳に入るという事は、私たちが不在の間に唄は出来ていたに違いなく、既にこの街以外にも広がっていると思われる。もちろん、街をこっそり出てきた私たちを、囃し唄の当事者・・・筆屋と小娘・・・であると、余所者が判断出来る筈も無いが、青河の連中がマークしているのは、緑河の息のかかった自称・家具屋の商人風の男とその姪だ。囃し唄のせいで、連中は街から出て来る親子連れ全般に気をつけるに違いなく、そういう目で見られると、私たちは該当者そのものだろう。如何に私たち3人とも5ヶ月前とは異なる衣装と髪型とはいえ、ピンと来る可能性が高い。
 夜明けと共に旅人や農民と出会うようになると、彼らが間諜ではないかと心配になり、野良作業に出ている百姓を見ては、見張りではないかと緊張する。朝8時を過ぎると、後ろから駆け抜けている輩も出てくる。あと2時間もしたら、早足の旅人にすら追いつかれるだろう。とはいえ、むやみに急ぐ事は出来ない。私たちは表面上は夫婦と嫁入り前の娘だから、それに相応しい速度以上で歩くのは不味いのだ。そして、追いつかれる時の事の考えていると、ある不安がよぎる。もしも録西街に向かう途中の青河の間諜が、5〜6日前に急に広がった私の噂を聞きつけたなら、街で吟味しようとするだろう。そして、その私が突然姿を消したら怪しむに違いない。その場合、彼が探すのは、順路である緑河方面の可能性が高い。というのも、噂程度で大きく旅程を崩すと思えないからだ。
 そういう不安を抱えつつも、行程はすすみ、すれ違う人々も追い抜く人々も無難そうな連中ばかりで安心していたころ、突然、正面のにわか茶屋の婆さんが
「筆屋さーん」
と声を掛けてきた。筆屋は直ぐに商売人の笑顔を作って
「なんですー?」
と返して、先に茶屋まで駆けていった。
 婆さんは茶屋の中に向かって何かを言い、続けて商人風の男が2人出てきた。彼らがこっちを向いた頃、私たちも婆さんの普通の声が聞き取れる所まで近づいた。
「ほら、あのお嬢ちゃんが噂の子ですよ・・・」
と婆さんは男達に説明し、更に筆屋に向かって
「・・・そうですよね? でも、なんでこちらに?」
と問いかけている。筆屋は質問の前半には答えず
「あの街にいると縁談を押し付けられるんで逃げているんだ。だから急いでいるって訳さ」
とだけ答えた。街中でないから、こういう言い訳も可能になる。親戚とか言うと、街の名とか聞かれるから、逃げるとだけ言った方が説明としては無難だ。それは良いが、商人風の連中が気になる。というのも、私だけでなく奥方をも品定めしている気がするからだ。もしかして間諜? 疑心暗鬼の私がそう思っていると、筆屋も確認の為に、
「それより、この方々は?」
と婆さんに尋ねた。本来なら、こんなやぶ蛇になりそうな質問で時間を潰すのは避けたいが、会話の流れとしては自然だ。
「あ、この人たちは、そちらの街に向かう所だそうで、筆屋さんとこの噂を聞いて、それほどの美人かって聞いてきたんですよ・・・でも、あたしゃ知らないから、困っていたら、筆屋さんが運良くいらしたって訳で」
こう答えている隙に、私が会釈だけで通り過ぎようとすると、婆さんは
「それにしても可愛いお嬢ちゃんね」
と言って無理矢理引き止めようとする。この手に乗っては話が長くなってしまう事は筆屋の店の手伝いで身に沁みて分かっているから
「有難うございます」
と簡単に答えて通り過ぎた。後ろで
「こりゃあ、闇商売の輩にはもちろん、市知事さんにだって勿体ない美人だぜ」
「そうだそうだ」
という男達の声と、筆屋の
「先を急ぎますので失礼します」
という声が聞こえてきた。男達は、例の囃し唄を隣町で仕入れたのだろう。4〜5日もあれば噂は隣町でも十分に広まる。それどころか、もしも2人が間諜なら、4〜5日前に私たちの街を通過した時に元の噂と縁談の話を仕入れ、いったん録西街に行き、用事を済ませて今が帰る途中だという可能性だってある。
 そういう不安を覚えながら、人の耳の無い所まで歩いて来ると、ようやく筆屋が口を開いた
「あいつら、商売人じゃない気がする。雰囲気が少し違うんだ」
物騒な話に驚いていると、奥方までも
「なんだか、船乗りみたいな体格じゃありません?」
と言って来た。やっぱり青河の手先? 不味い!
 そう思って、私も連中の視線が気になった事を云うと、筆屋も奥方も、妙な視線に気付いたという。もちろん、こういう事態は想定済みだ。問題は街の中でなく、街道で起こっただけ。街なら緑河の頭の腹心が見張っているから、あとの事は任せられる。でも、ここには誰も味方はいない。となれば、私たちが騙しおうせたかどうかだけが問題だ。もしも正体がばれて、彼らに青河へ報告されたら、私は女装を続ける事が不可能になるし、それ以前に筆屋夫婦の安全すら危なくなる。
 心配していると、筆屋は
「俺達の心配はしなくて良い。取りあえずは目先の作戦を済ませる事だ。緑河に直ぐに連絡すれば、少なくともあの2人が酉関親子に連絡するのは阻止出来る。心配なのは、連中が一旦青河に戻って別の人間が録西街に連絡に向かう事だ。連中が急げば明日にも青河にたどり着くからな。でも、緑河の連中が警戒を強めておけば7〜8日は稼げる筈だ。その間に酉関親子の片をつければ良いじゃないか。少なくとも緑河の縄張りだけは安全になる」
と言って来た。最後は緑河の縄張りで住む事を暗示する発言だ。要は私の為に街に住めなくなる事は覚悟しているらしい。まさに命がけ。こうなったら私も全力を尽くのみだ。


第28回:青河の影(主人視点)

 疑わしい2人連れに出会った事は、良い意味にも悪い意味にも取れる。悪い意味は云うまでもない。俺達の事が青河にバレたかも知れないという事だ。だが、そういう2人組を見つけたという事は、こっちに取っても、青河の間諜らしき者を同定した事を意味する。今日の目的地まで5〜6キロという距離だから、そこで緑河の連中と連絡を取れれば、この2人組に追いつけるかも知れないのだ。もっとも、同じ事を連中が考えている事は十分に考えられる。もしも5ヶ月前の青河事件と繋がってしまったら、街の外である事を幸いに俺達を捕まえに来るだろう。目の前の仇を見過ごして、報告の為だけに青河に戻るなんて考えられないからだ。少なくとも俺達を尋問して、5ヶ月前の事件とか笙娘と青河の頭との噂を尋問するに決まっている。俺が連中の立場ならそうする。
 不安はそれだけではない。そもそも、秘密を要する間諜活動で、2人が一緒にいるという事がおかしい。と云う事は、2人のうちの1人が緑河からの裏切り者で、2人が落ち合っている所に出くわした可能性だってあるのだ。そういえば、前回のミッションの時に、緑河の頭目が、裏切り者のいる可能性を家内に話していた。その裏切り者は、5ヶ月前の青河事件の話を、緑河の仲間から噂として聞いている可能性がある。いや、それどころか、俺達の身元・・・白猿堂でなく街の筆屋であるいう情報が、とうの昔に青河に流れていた可能性すらあるのだ。緑河の連中が機密に気を付けていて事は知っているが、その機密が裏切り者の前で何処まで通用するのが怪しい。そんな事を考えると、将来が真っ暗に見えて来る。
 いけない! そういうマイナス思考は、行動を萎縮または暴走させるから、考え過ぎてはならないのだ。今の俺に必要な事は、2人の来襲の可能性を考える事。それだけだ。
 村境の林にさしかかった。隣町と小川で繋がっているから起伏は少ないが、開墾されていない事からも分かるように、こういう林は大抵は小さな峠になっている。その下り、ひとけの無い林の中を急いでいると、後ろに人の気配がした。しかも走っているような雰囲気だ。前の2人にそれを告げるべく
「道あけて」
と声をかけつつ後ろ振り返ると、なんと例の2人が走って来ている。やはり連中も、ここで俺達を見逃したらヤバいと感じたようだ。
 荷車や馬が通る道なので道幅は3mほどあるものの、木立と灌木で両脇を塞がれているから、人が並んだらリーチの長い武器の届く距離になる。幸いそれらしき武器は見当たらないが・・・商人という触れ込みでの間諜なら当たり前だ・・・闇組織の者なら短い刃物ぐらい持っているだろう。
 もっとも、まだ敵と決まった訳ではないし、俺達を追いかけていると決まった訳でもない。建前だけは全く他人で、俺達を追い抜く勢いだというだけだ。薮蛇行為はギリギリまで慎まなければならない。俺達は、即座に荷物を降ろし、道の脇に3人で固まった。相手は既に5m手前まで来ている。ここは、質問を掛けるしかない。
「おふた方は道が逆ではありませんか? なにか忘れ物でも?」
そう言うと、相手のひとりが
「忘れ物があるんでね」
と言いつつ私たちを通り越したが、もう一人は留まったままだ。逃げられないように道の両側を塞いだらしい。こうなっては、闘いは避けられまい。

 相手は屈強な男が2人。一人でないのが誤算だった。こっちに可能性があるとしたら、笙娘を女と思い込んでいる点だけだろう。もちろん、俺や笙娘がここ1ヶ月ほど武芸を学んでいる事も役に立つかも知れないが、元々の噂に武芸訓練の話が入っているから、それは相手の油断を減らすというマイナスの意味しかない。となると、選択肢は2つ。こっちが十分な訓練を受けていると思わせるか、或いは武芸訓練が上っ面のものだったと思わせるぐらいに下手な構えをするかだ。もちろん、下手と云っても、普通の商人が取りうるギリギリの防衛体制ぐらいはすべきだが。
 取りあえず、俺は道に横向きになって、家内を左肩の後ろ、笙娘を右肩の後ろに控え、2人を守る形で腰を少し落とした。これば別に特別な警戒でなく、普通にやる体勢だから、上手いとも下手ともとれる。家内と笙娘はというと、家内が気丈に立っているのに対して、笙娘はへっぴり腰で、とても護身術の手ほどきを受けたとは思えない。練習と実戦との違いなのか、それとも笙娘なりのカモフラージュなのかは俺ですら分からないが、こうなったら、ごく普通の商人を装うしかないだろう。何も知らない風に、後ろの男・・・俺から見て左手の男にも
「お先にどうぞ」
と声をかけた。俺の声に応じて、相手は俺達を抜き始める。だが、俺の前に来た相手は、いきなり俺の鳩尾に向けて右手の拳骨を出してきた。
 油断していれば確実に一撃でやられていただろう。辛うじて体を捻りつつ右腕で守るも、相手の腕は俺の手の甲を激しく打ってきた。手首に革を巻いていたお陰で怪我は免れている。
「な、何をするんです」
横で家内が叫ぶと、もう一人の男がいきなり家内に飛びかかり、歩行杖を持っている腕・・・俺から見て反対側の右腕・・・を掴もうとした。一瞬、俺の注意がそっちに向かった隙に、一人目は俺でなく、なんと笙娘に向かって踏み出し、いったん引っ込めた右手に匕首を掴んだ。こうなっては笙娘だけが頼りだ。その笙娘は、腰が抜けたのか、娘っぽいへっぴり腰のままだ。訓練はまずまずに見えたのに、実戦には向かなかったようだ。だが、そんな事は言ってられない。俺は笙娘を放っといて、家内に向かった男に荷物用の棒を繰り出した。
 相手は俺の行動を予想していたと見えて、軽く避けて、俺が棒を戻した隙に匕首を取り出している。この隙を与えずに家内が歩行杖で突いてくれればありがたいが、家内にそんな余裕はなく、相手が匕首を取り出したのと家内が歩行杖を漸く持ち上げたのが殆ど同時になってしまった。後ろでは、何かが投げられている気配がする。視界の中に僅かに俺達の荷物が散乱して行くのと、一人目の男が半歩だけ後ろに下がるのが見える。
 俺は両手で棒を握り、体を捻りながら一人目の男めがけて思い切って振った。だが、棒は相手の左腕に弾かれ、逆に俺の体に隙を作ってしまった。このまま相手が右腕を伸ばしたら俺の脇腹に当たってしまう! そう思う間もないうちに、匕首が俺に向かって来るのが見えた。俺は慌てて左手でカバーしようとするが間に合わない。最善でも手を刺される!
 そう観念した瞬間、それまで怯え切った娘そのものだった笙娘が、懐から護身棒を取り出して、相手の喉に向かって打ちかかるのが見えた。まさに不意打ち。お陰で相手の突きの勢いは弱くなって俺に届かず、その隙に俺は左手で相手の右手を握る事ができた。激しい動きの中だから、腕に軽く匕首が当たり痛みが走るも、かえってそのお陰で思い切りが出来て、右手の棒を、もう一人にめがけて投げながら、匕首を避けるように一人目に飛び込んだ。笙娘の不意打ちで相手の体制は一瞬だけ腰が引いているから、俺が全体重を掛ければ相手も倒れる筈だ。だが、敵もさるもの、足を引いて体勢を立て直そうとする。このままでは、俺だけが倒れると思った瞬間、またも笙娘に助けられた。奴の膝を左手で抱え込んだのだ。これには相手もどうしようもなく、どたんを仰向けに倒れ込んだ。同時に倒れ込んだ俺は、この際とばかりに奴の顎に頭突きし、それで相手がひるんだ隙に笙娘が相手の右手に大きく噛み付いて、ついに相手は匕首を離した。

 だが、俺にはもう一つの匕首が迫っていた。殆ど一瞬ともいえる格闘とはいえ、それでも、もう一人の男が、家内を後回しにして俺を攻撃するという判断をするには十分な時間だったのだ。男の近づく気配と、それを止める気配。おそらく、家内が歩行杖で牽制しているのだろう。俺は右手で相手の左腕を押さえつつ、家内の方を見ながら、膝を相手の鳩尾に立てて急いで立ち上がる。相手だって黙ってはいない。仰向けとはいえ、両足をもちあげようとしている。だが、そこは笙娘が素早く肘で弁慶の泣き所を叩いて、相手の動きを押さえた。そうこうしているに、もう一人の男が、家内の歩行杖を掴んでしまった。このまま、家内を攻められて人質にされると困る。だが、奴はなんと家内を棒ごと向うに突き飛ばした。奴は俺達をやっつけられると思ったのだ。確かに、今、下に敷いている男が少しでも復活するとこっちはヤバい。
 そう思った瞬間、下の男がうめき声を上げた。見ると、笙娘が、奴の股間を護身棒で思い切り突いている。こういう笙娘を見ると、こいつは本当に男なのか疑ってしまうが、そんな事は後まわしだ。俺は奴の一瞬の隙をついて、両手で奴の喉を落としにかかった。意識だけを落とすという護身の基礎だ。だが、問題は数秒の時間がかかるということ。もう一人の匕首が先か、こいつを落とすのが先か? そう焦っていると、笙娘は時間稼ぎに、拾った匕首を、先ずはもう一人の牽制に使い、そのまま切って投げた。またもだ。笙娘のやる事と来たら、女のやるような向こう見ずだ。反射的な行動すらここまで女になり切ってしまっては、将来まともな男に戻れるのか不安になる。もっとも、それで時間を稼いだのだから文句は言えない。
 相手が体勢を整え直した時には、こっちも一人目を完全に落として立ち上がっていた。荷物棒すら右手に持っている。笙娘も腰を思い切り低くしている。そればかりか、今しがた突き飛ばされた家内ですら、立ち上がりかかっている。尤も歩行杖は明後日の方向に投げ出されているから、家内に武器はない。もしかしたら不味いかも、と思った時は遅かった。相手はいきなり家内に向かって踏み出したのだ。捕まえて人質にしようと云う魂胆だろう。家内は金縛りに近い。俺は慌てて走り出したが間に合わない。笙娘は走りかけて、諦めて屈んでいる。
 家内は横に避けたが、それでも相手に腕を掴まれるのは拒めなかった。幸い、人質の体勢になる前に俺の荷物棒が届き、相手がよけた隙に、家内は相手の左手・・・家内を掴んでいる手の噛み付いた。だが、相手もそれを予想していたのか、一瞬顔を顰めたものの、掴んだ手は緩めず、逆に匕首を持った右手を家内に近づけた。俺はと云うと、棒を急いで突いた為に、体勢が崩れて、二の棒が直ぐ出せない。その隙に相手は
「女がどうなっても良いのか!」
と脅して来た。人質直前、と思われた時、相手は思わず右腕を振るった。その横を石が飛び去って行く。笙娘が投げたものだ。これに力を得た家内が、自由な方に手で、相手の左手を叩き、又も噛み付き直した。その隙に俺も相手に棒で突きかかる。3人掛かりの攻撃には相手も溜まらず、匕首で牽制した隙に家内を握った手を離して逃げ始めた。
 これで俺達の負けは無くなったものの、ここで逃がしては後が困る。俺は家内に
「後は頼む」
と声を掛け、更に
「笙娘」
と後ろも見ずに叫んで走り始めた。後ろから笙娘も走っている模様だ。

 緩い下りの競争は、始めのうちは引き離されつつあったものの、何と言っても相手にはここまで走って来た疲れがあるのと、旅慣れた俺と河で舟を操るのが得意な男との違いという事で、俺には追いつける自信がある。笙娘は俺より少し遅れているが、それは全然構わない。案の定、300m も走ると相手のスピードが衰え始めた。差は7〜8mと言ったところ。ここで一気に詰めても良いが、ここは呼吸を整え、且つ相手を消耗させるべく、こっちも少しペースを緩める。それでも差が次第に詰まり、4〜5mほどの差になったところで、相手はとうとう観念したのか、振り向きざまに足を止めて、匕首を構えた。
 止まるといっても走った勢いがあるから相手はへっぴり腰だ。これをチャンスとばかりに、俺は匕首を持った腕の肘を目がけで、走り抜け様に棒を振るった。もちろん、その程度は相手も避けるが、俺は空いた左手を相手の首に巻き付けようとする。走った勢いでそのまま倒してしまおうという魂胆だ。さすがにそれも相手の左手に遮られたものの、相手は大きくバランスを崩した。もっとも俺の方も腕による急減速でバランスが悪い。早く立ち直った方が有利だが、その時はやく、笙娘が相手の体にタックルした。その勢いで、相手の匕首がたまたま俺の腕をなぞったがこれは仕方ない。俺は直ぐに両手を使って相手の右腕をねじ上げて、ついに匕首を離させた。武器が無く、しかも体勢を完全に崩した上での2対1では、さすがの腕っ節男もどうしようもなく、俺達は完全にねじ伏せて、最後は気絶させた。
 そいつの監視を笙娘に任せ、俺が家内の所に戻ると、既に縄を取り出して足を縛っている。相手は仰向けだから、腕を後ろに縛るには体をひっくり返さないといけないが、その時に気絶から目を覚ましては困るの。俺が戻ってようやく手を縛り、口に猿ぐつわをし、念のために目隠しと耳栓もした。それから家内に荷物の片付けと奴の監視を任せて、笙娘の所にもどり、こっちもしっかりと手足を縛る。それが終わってから、又も家内の所に戻って、そこから笙娘の所まで男を引きずって行った。
 とりあえず、敵の2人を捕獲し、俺達も出発準備が出来たが、問題はここからだ。ここから緑河の連中との合流場所・・・前回と同じ河原・・・まで、まだ5〜6キロあり、途中に村が2つもある。こいつらを俺達が連行すると、それだけで目立ってしまう。役人に連絡するのももちろん不味い。そんな事をしたら足止めを喰いだけでなく、この2人が俺達と緑河との関係について何を言い出すか分からないからだ。とは言え、口封じの為に殺すなんて論外だ。殺し自体がどんな理由であっても人生を変えるし、特に笙娘の心を崩してしまう。笙娘のさっきの闘い方を見ると、女の防備を思わせる手加減無しの攻め方になっていて、既に残酷という感覚が麻痺し始めている印象を持った。女の顔を傷つけるのは男でなく女。男の股間を狙うのも男でなく女。防衛本能の女は男の数倍も残虐だ、そういう女に笙娘はなりつつある気がする。恐らくは女を演じるという強烈なストレスのせいだろう。これ以上残酷な事を体験させるのは笙娘の精神にあまりにもむごい。 
 色々考えて、結局、誰かが見張りで残り、誰かが緑河に連絡して、緑河から下っ端をここに派遣してもらう事にした。蛇の道は蛇だから、この2人を緑川まで運ぶ上手い方法を知っているに違いない。なんと言っては大事は証人だ。青河との交渉の切り札と行っても良い。殺すとは思えない。話が決まった所で、2人を林の中に引きずり込んで、道からは見えないような別々の木に、2人がお互いが見えない位置に縛り付ける。ここまで合わせて僅か1時間のロス。朝が早かったから時間的には問題ない。

 林の中で家内の男装を手伝う。そう、男装の家内が笙娘を連れて行くのだ。この先の村には、俺はもとより、家内の顔も知っている者もいるが、そういう百姓連中の直ぐそばに寄る訳でもなく、しかも俺達も男装女装はここ半年で相当に上手くなったから、誤摩化せると判断したのだ。もちろん俺が一人で行って緑川の連中を呼ぶ手はあるが、その場合、見た目で女2人をこの場に残す事になり、変な第三者が絡んで来る厄介な可能性がある。それを防ぐ為に家内を男装させると、相手は目を覚まし、しかも何らかの理由で逃げられた時に、家内と男装と家内が同一人物である事がバレてしまう。
 家内達が出発して一人になった所で、さっきの闘いを振り返る。3対2とはいえ、こっちより遥かに腕っ節の強い連中を捕まえたのだ。興奮は醒めない。勝因は笙娘だろう。敵が笙娘を女と思ったからこそ、そこに油断が出来て、俺達は1対2のいう状況を生み出せた。始めから笙娘を男と知っていたら、こんな油断はしなかっただろう。そう言えば包家村で俺と家内でならず者をやっつけた時も、青河の舟で敵を2人やっつけた時も同じパターンだ。それに加えて、女で無ければ使えないような業を笙娘が使ったのも大きい。笙娘の将来の事を考えると気にならないでもないが、笙娘が敵の男の急所を狙わなかったら、ここまでの戦果は出ていないだろう。諸刃の刃と言うべきか。
 そんな事を考えているうちに、2人が気絶から目を覚ました。いずれも暫くもがいた後に、闇の人間らしく観念したと見えて大人しくなる。それからは、2人を警戒しつつ、緑河からの助太刀を見逃さないように、灌木の向うの街道を見張った。新緑直前の季節だから結構見通しは良いが、だからといって街道から少し入っているから、こっちは見えず、現に何人もの通行人があるが誰も気付かない。そんなだから、緑河からの助太刀もまた俺を見逃す可能性がある。もちろん、家内や笙娘が場所は教える筈だが、林路の場所を説明するのは、目印を置いてすら難しいのだ。
 2時間ほど待っているうちに、男が3人、緑河の方向から小走りでやってきた。小走りの割にはあたりを見回している感じだから、おろらくは連中だろう。そう思って合図しようと思った時には既に通り過ぎていた。不味いなあ、と思いつつ更に待っていると、似た雰囲気の3人組が、こっちの方を捜しながら歩いて戻って来るのが見えた。姿こそ過去の記憶にない3人だが、間違いないと思った俺は、近くの木を少し揺らす。大雑把な場所と目印と木の音と言う合図があれば、大抵は大丈夫だ。案の定、相手は道端の目印に気付いて、そのまま入って来た。近くにどんな旅人がいるか分からないから全て無言だ。そういう緊張感はあるものの、それでも味方が来た事は嬉しく、ホッとする。

 その一瞬だった。相手がいきなり俺の鳩尾に入れて来たのは。全く防備していなかった俺は、その場にうずくまり、そのまま腕を後ろにねじ上げられてしまった。
「おい、何をする!」
と俺が叫ぶと、男は
「よくも青河に泥を塗ってくれたな!」
と怒鳴ってきた。えっ、敵は2組? でも、どうしてここが分かった?
 そう思う暇もあらばこそ、相手は更に強く腕をねじ上げて来た。俺が仕方なく黙ると、今度は今まで縛っていた2人の目隠しや猿ぐつわを外して縄を緩め、
「おい、兄弟、酷い目に会ったな」
と声を掛けた。
「助かったぜ、見ねえ顔だが、おめえさんもこっちの仕事かい」
と答えた2人は自己紹介をし、残りの3人もそれに合わせて自己紹介をして、それから情報の交換を始めた。
 こうなった以上、俺は何も出来まいが、それでも話には興味がある。もしかして運良く逃げ出す事が出来れば、連中の話は貴重だ。3人がここに来た理由は
『小さな街の小娘が、市知事の御曹司と青河の親分を天秤にかけている』
という噂話を気にして真相を調べに来たとの事で、今朝、街から姿を消したという情報の元に慌ててこっちに来たと言う。そして手前の村で見慣れた荷物を見かけたので、そこの婆さんに事情を聞いたら、いきなり走り出して、しかもいつまでも戻らないと言うから、それで探しに来たら此処についたそうだ。という事は、さっき味方と思ったのは俺の早とちりらしい。この3人と始めに走って行った3人は別人物だったのだ。最後の最後で逆転され、悔やんでも悔やみ消きれない。
 こっちの悔しさと反比例に、今度は縛られていた2人の一人が嬉々として今日の事件を発端から話し出した。笙娘の噂は録西街への行き路で既に耳にしており、その時の感想は、単に、青河の親分ならそういう隠し妾が居てもおかしくない、というものだったらしい。ところが、ついさっき俺達に出会った時に、笙娘と5ヶ月前の事件が繋がったのだそうだ。やはり人間は組み合わせでピンとくる。
「どうだい、俺達の眼力。こいつらだと思って追っかけたらビンゴさ」
「でも、なんだい、捕まっちまって」
「面目ねえ。あのあまっ子が、えろう度胸があったからなあ。女って怖えーぞ」
「それこそ、二の親分に献上すべきだなあ」
そう言って5人が笑ったあと、2人組は録西街での話も始めた。
「酉関の親父に会っていろいろ打ち合わせた後に、例の小娘の噂話もしたんだがな、あの時はてっきり小娘を親分のレコだと思っていたから、『市知事さんとこにも内通者が出来ますぜ』って調子の良い事を言ってしまったなあ」
それを受けて3人組のひとりが、
「ちょっとまて、その娘っこは今、何処にいるんだい」
と2人に尋ねると、2人は俺を指差し
「そいつに吐かせてみな。でも、この街道を西に向かっていた事は確かだぞ」
と答えて来た。
 3人のリーダーらしき者は
「ふん、こいつが正直に言うものか。だが、女の足だ、直ぐに追いつけるだろう」
と答えて、
「おい、兄弟よ、顔を知ってるなら、こいつらと一緒に追いかけてくれないか? 緑河の連中にかち合うかも知れんから、人数が多い方が良いだろう。こいつの面倒は俺だけで十分だ」
と2人に提案した。その間に残りの2人が俺を縛っていく。
「合点だ、この恨み、晴らさずにはおられんからな」
と言って、俺に唾を吐いて出て行った。例の2人組と、3人組のうちの2人の合わせて4人がいなくなり、残るは俺と敵のリーダーだけだ。そのリーダーは、気味の悪い笑顔を見せて
「相棒」
と声をかけてきた。


(作者より)
大立ち回りといえば、格好よい剣法や挙法を描くのが常套ですが、この物語では市井の貧弱人間が奇策と度胸とで豪傑クラスと対等に渡り合う様子(白戸三平『カムイ伝」の正助のイメージ)を描いており、その意味では、闘いでの勝ち方もそういう『汚い』ものになるのは仕方ありません。格好よい筆屋や笙娘を出したいのは山々ですが、この点お許しのほどを。


第29回:綱渡りな美人局(笙娘視点)

 相手が2人という不利な状態で私たちが対峙した時、私はあえてへっぴり腰で構えた。元の噂に武芸の訓練をしているという設定を入れてあったからだ。だが、噂と現実は違う。武芸の訓練をしていたのでなく、護身術の師範に1ヶ月習っただけで、その情報も相手が知っている可能性が高い。なんせ、わざわざ追って来たぐらいだ。5ヶ月前の青河事件と関連づけたに違いなく、そこまで繋がるほどならば、噂を十分に調べていた筈だ。緑河の頭の腹心が街を見張るなどと言っていたが、追いかけられた現実を見れば、その網の目をくぐって調べられたに違いない。もっとも今回の縁談騒ぎは緑河の想定外に違いなく、あれほど騒ぎになった噂を餌に敵の間諜を調べるのがそもそも無理だ。
 ともかく敵は、武芸の訓練という噂と、1ヶ月ほど護身術の手習いだったという現実の違いを知っている。となれば、恐らくは
『噂なんてそんなもんよ』
と油断している可能性が高い。この油断をいかに拡大するか? 私達にチャンスがあるすればそこだ。だからこそ私はへっぴり腰の構えにした。これを見たら、私の護身術の練習すらも、
『しょせん子供の遊びさ』
と、さらに安心するかも知れない。
 もっとも、いかに相手を油断させても、ここの戦いは痛み分けが関の山。それが私の予想だから、相手にあくまで女と思わせる事は重要だった。ここさえ逃げ切れれば、男の姿に戻った時に、青河の組から狙われる心配が無くなる。もちろん、女と思わせる事に専念する余りに引き分けられる試合を負けてしまっては意味ないから、実際の闘いでは何でもする積もりだ。結果的には、私の無我夢中の攻撃が、最も女を感じさせたらしく、筆屋に言わせると、あそこまで露骨に男の急所を攻めるのは女以外に有り得ないとのこと。この言葉に私は少し凹んだ。なぜなら私には当たり前の攻撃だったからだ。心から女であると意識し生活しつづけると、男の感覚が麻痺してしまうだろうか?
 手段はともかく、私達は2人を捕まえた。間諜を捕まえた事で展望が大きく開けた気はするだけど、旅の途中だから処理が問題だ。結局、筆屋を見張りに残して、私と奥方だけで秘密の落合場所に向かった。田舎でもあり、しかも目的地まで5〜6キロしかないなら、奥方が男装してもバレないだろう。変装ついでに私も墨で顔を黒く塗り、少なくとも知事様に一目惚れされるような娘でない容姿にする。こんな事は始めてなので少し妙な気分だ。今までずっと、化粧とは魅力を高めるものとばかり思っていて、こういう化粧があり得るとは思いもよらなかったのだ。奥方の話では、私が美少女だからこそ意味の出て来る逆化粧だという。誇らしいような、悲しいような・・・。ともかく、これで奥方も私も見咎めらはしないだろう。尤も、落ち合う予定日よりも早いので、緑河の連中に直ぐに会えるかどうかは分からない。その時は、私達は河原で野宿で、筆屋は街に帰れるギリギリの時刻まで待ってから、それでも誰も現れない時に、2人をほったらかして家に帰る事になっている。

 1時間余りで例の橋に着いた。その横を森に向かって歩くと、前回小舟が停泊していた近くで漁師が魚をとっているのが見える。男装の奥方が漁師の前に出て、白猿堂の名前を告げると、相手は直ぐに認識して、下流に漕いで行った。さすが闇商売だ。こう云う事態に対応出来る柔軟性がある。30分ほどで遠くに見慣れた舟が現れる。連中が着くや、挨拶もそこそこに、さっきの大立ち回りの件と、その背景を手短に話して、至急人を送るように言うと、相手は要点を再確認した後に、3人連れで出て行った。残るは顔見知りの一人だけ。前回も舟を操っていた男だ。
「あの連中に任せて、先に頭の所に行きやしょう」
と促され、そのまま舟で前回と同じ落合の手前の澱みに向かった。
 快速に1時間ほど下った先の落合には屋形船はなく、やや大きめの荷舟と小舟がいくつかあって、緑河上流の頭目が荷舟を自ら繰って手下に指令している。私たちの舟が荷舟に近づくと、頭目は指示に一旦区切りをつけて、こっちの小舟に乗り移って来た。さっきの漁師から話が既に伝わったのか、頭目は直ぐに私達に拝礼して
「これはこれは、先ほどは素晴らしい土産を頂きまして、いや、有り難てえ、有り難てえ」
と何度も感謝してきた。本当に恐縮している風だ。
「いや、私達は運が良かっただけですよ」
と奥方が答礼すると、頭目はいきなりきな臭い話をしてきた。
「大事なお客さんに来て頂いたのに、野暮用に掛かりっきりで申し訳ない。実は、酉関の下衆親父が不意打ちに仲間を2人ほどしょっぴいて行ったんで。そんな時に、間諜を捕まえたと云う朗報、こんなにゲンの良いこたあ、ありませんぜ」
私はびっくりしてしまった。本腰を入れて緑川をやっつけようという訳だろうか? そう言えば、今日の相手も1人でなく2人だった。かなり大規模な勢力争いに発展しそうな予感がする。問題は、その勢力争いの中で、私たちが不利な方に加担している形になっている事だ。もしかしたら緑河の連中、不利を悟ったからこそ、私みたいな役立たずにも目をかけるようになったのかも知れない。そう考えると、今まで私に好意的だったのも頷けるというものだ。
 そう私が考える横で、奥方が
「間諜が2人連れとは、どういう事でしょう」
と私の不安を代弁してくれる。筆屋によれば一人は裏切り者だろうとの事だが、果たして緑河の頭目も同じ事を言って来た。
「1人はうちの裏切り者だと睨んでいるが、会ってみなけれりゃ分からない」
そう答えたつつ、頭目は私達の小舟を操っている男に
「で、その2人は?」
と尋ねた。
「仲間を3人、護送に送ったので、おっつけ引き連れて来るでしょう」
「おう、賓客か。なら、話を聞き出してから相談といくか・・・」
なるほど、間諜は秘密の宝庫だ。賓客には違いない。
「・・・それまで賓客を大事にしてくれ」
親分は指示を出すと、またも荷舟に戻って、手下達に色々と指示を始めた。

 それから1時間ほどしただろうか。大きめの平舟が来たので、それに乗り移った。春の陽気に、舟の男達はみな半裸だ。彼ら特有の力強い上半身を見ると、急に恐ろしさを感じた。逞しい男の裸が怖いのだ。理由は分からない。今までこんな事は無かったのに、今回に限って生理的な恐怖を感ずる。もしかすると、1ヶ月前の痴漢事件や今回の玉の輿騒ぎで、一種の男性恐怖症になってしまったのかも知れない。いつ、我が身を奪われてしまうのではないかという、処女の恐怖心。しばらく意識した事は無かったが、私の情緒はこの1ヶ月で更に娘のそれに近づいたのかも知れない。一瞬の戦慄と共に、この先、男の心に戻れるのか不安を感じる。
 こういう、前回と違う感覚に戸惑いを覚えていると、奥方が気付いたのが、
「笙ちゃん、どうしたの」
と囁いてきた。それを聞いて正気に戻ると共に、急に恥ずかしさを感じ、慌てて気丈な娘の演技に戻る。だが、そういう立て直しも、男達の私を体の線をなぞるような視線ですぐに霧散した。墨で醜い顔にしている筈なのに、彼らは私を娘として、獲物を見るような物欲しそうな目で見ているのだ。思わず身をすくめた時、奥方が私の手を強く握って来た。ああ、奥方は、さすがに娘の不安というものが分かって下さっている。そう思うと同時に、
『いや、私は男だ、こんなので挫けてどうする』
という心の声が聞こえて来て、私は辛うじて踏みとどまった。冷静に考える。今は娘を演技中なのだ。男である事を忘れて、娘として、こう云う時に身を守る態度を取らなければならいのだ。必死に娘の防御を思い出す・・・毅然とした態度。それが出来て、初めて女装は完璧な演技となる。
『気丈夫で怖いお姫様』
勝ち気な強い視線を復活させて、あたりを強く見回す。
 その時、支流の上流から小舟が近づいて来た。中には、先ほど橋の近くの河原で別れた3人が乗っていて、胴の間には例の2人らしき者どもが目隠しされて縛られている様子だ。予想外の早さに驚いていると、舟はみるみる近づいて来る。その時、奥方が親分に
「私は変装前の姿を見られていますから、今、あの2人にこの姿を見られるのは困りますが」
と注文すると、
「心配せんでも、此処には上げねえ。あの手のお客さんには、それ相応の座敷があるんでな。そこでしっかりもてなしを受けて貰って、そのあとは、俺達の為に一肌脱いで貰う事になっている」
闇商売のそれは相当に過酷なものだろう。そんなやり取りをするうちにも、例の小舟の中の1人がこっちの舟に乗り移り、小舟はそのまま本流の方に入って行った。

 こうして、皆が座った所で情勢の報告があった。
 まず、小舟で来たばかりの男からだ。私と奥方に向かって、いきなり叩頭するなり、
「あっしを殴ってくだせえ。筆屋さんに飛んでもない事をしましたんで」
と謝って来る。あっけに取られた私たちが回りの者を見ると
「ああ、それでこんなに早かったのか」
と納得顔だ。良く分からないが、何か妙な計略を使ったのだろう。それを察して奥方が
「頭を上げてくださいな。そして説明して下さいな」
というと、ようやく男は語り始めた。
「俺達3人で例の場所まで向かう途中、ずっと考えていたのが、どうやって2人に口を割らせるか、って事でしたんで。それで思いついたのが味方のふり。何でも、そちらのお嬢さんの凄い噂が立っているって言うじゃありませんか・・・」
この男は私が実は男である事を知らないらしい。念のために頭連中を見遣ると、私に目で合図してニヤニヤしている。機密って訳か。
「・・・これなら、噂を調べに青河の連中が、別の手下を調べにやってもおかしくないんで。幸い、あっしら3人は仲間うちでも顔を知られてませんから、裏切り者相手でも騙せる筈だと思ったんでっさあ・・・」
と語り出した彼の話では、筆屋は一時は青河の手に落ちたと本気で思ったらしい。生きた心地もしなかっただろうが、お陰で、例の2人は味方に助けられたと思い込み、秘密を喋ったばかりか、本気で私たちを追いかけて来たそうだ。そして橋の所に来た時に、いきなり不意打ちで2人を水に落とし、直後に追いついた3人目の彼と一緒に、この2人を改めて捕まえたそうだ。敵の秘密を喋らせて、縛った大男2人を運ぶ手間を省き、しかも素早く縄張りに戻る。まさに、一石二鳥三鳥。
 ちなみに1人は裏切り者で、頭目の予想通り。それを聞いて、私も奥方も、全ての秘密が青河に筒抜けになったのではないかと戦慄したが、幸い、裏切り者はそこまで詳しくは知らなかったらしい。私達と緑河とは確かに繋がりがあるものの、実はごく一部の人間しか身元を知らない。ミッションでの打ち合わせで、私達の住む街の名前や職業を敢えて言わないようにしているからだ。部下と接触する際も、身元に関する会話は法度になっている。機密とはそういう事だ。だからこそ、奥方も、川に近づく前に変装したし、筆屋も姿を全く現さなかった。お陰で、私が男である事も、奥方が女である事も、そして筆屋の素顔も、部下連中には全く知られていない。知るのは一部の幹部のみだ。裏切り者が私達の情報を知らなくても不思議はない。
 2人の尋問はこれからだから、詳しい事は今回のミッションの後に聞けるだろう。話が終わると頭目が引き取って
「今回の件では、あんたらがいなかったら俺達は青河の連中に完全にやられていたぜ。まったく福の神だよ・・・」
たしかに、青河の反乱を知らせたのも私たちなら、間諜を捕まえのも私たちだ。しかも秘密までも聞き出すお膳立てを事実上したのから、確かに感謝されておかしくない。
「・・・だから、ここまでお世話になって、更に美人局をお願いするのは厚かましいんじゃないか、って思う訳よ。敵の切り札を手に入れた以上、あとは俺達でどうにかなるぜ。・・・でもあんたらが洪家に復讐したいって言うのなら、俺には美人局以上の案は思い付かねえけどな」
 なるほど、確かに今の段階では下流の件を合わせても借し貸し無しだ。むしろ貸しが多いくらいかもしれない。これ以上私たちが手助けして、更に大きな貸しになるのは、この手の稼業の者には却って心苦しいだろう。もしかすると、噂作戦もそういう考えが底にあったのかも知れない。敵の間諜さえ捕まえてしまえば、ミッションをキャンセルしても問題ないと考えていたのではあるまいか。義理にうるさく市民を巻込む事を潔しとしない闇商売の連中なら有り得ることだ。もっとも、この頭目からこんな事を言われると、却って男気をそそられるのも事実だ。今後も童試とかでお世話になる相手だから、答えは一つしか無い。
「何を仰います。ここまで来たら、あとはやるだけですよ」
そう言った後で、勝ち気の娘でも同じ事を言うかも知れないなと気がついた。私の答えは一体、どっちの私が出したものなのか・・・男の私か、それとも気丈な娘の私なのか。
 間諜の件の報告がおわると、今度は下流の情報だ。青河の間諜を見つけるのは下流の組でも大変だったそうだが、それでも、半月前には包家村方面の間諜をマークしたそうだ。その間諜とは接触済みで、街道の飲み屋で、大勢の客の一人という形で、何気なく洪家の嫁取りの噂話をしたという。具体的には、こっちの工作員が、何喰わぬ顔で
「上玉の女を見つけたので、勢力家へのお近づきしたいの伝手にしたいなあ」
とぼやいてみせたところ、相手が
「おお、それなら、俺が良いとこ知っているぜ」
食いついて来たそうだ。これが6日前の話。なかなか良いタイミングだ。
 その2日後には八字(注:日本でいう釣書情報)を知らせる所まで話が進み、洪家の反応待ちという。もちろん、でっち上げの生年情報を使い、家柄とかも出来るだけ洪二郎の意に沿う内容にしたのは言うまでもない。基本は酉関珀の家柄をそのままに述べて、街を青河支流に、名前もありふれた名字にかえたものだ。その後の最新情報はまだ届いていないが、洪二郎の事を知っている間諜が話を聞いたからには、脈はあるだろう。大切なのは青河の間諜が話を持って行くと言う事だ。実際の花嫁は飛んでもない者・・・女装男だから、洪二郎は仲人を恨む。そして、その頃には下流の間諜を拘束する手筈だから、青河の代理人たる間諜は洪二郎に釈明出来ない。つまり、青河が恨まれるという訳だ。
 最後に酉関珀に関する報告があった。この2ヶ月に2回ほど、手下が代理で奥方・・・白猿堂の使用人としてだ・・・の名刺と一緒に筆を門番に言伝ていたから、心証は良い筈だという。顔を見せずに挨拶だけ。美人局は如何にやきもきさせるかが大切なのだ。あとは私の出番だ。

 そんな話をしながらも、陽は次第に傾き始め、私たちは前回同様、急いで出発する事になった。今回も2人だけ。緑河の誰かを護衛につけると、そちらから緑河がらみとバレる恐れがあるからだ。工作活動は最小人数で行うのが基本なのだ。同じ経路で一つ前の街に泊まり、翌日いよいよ録西街に入る。もっとも、今回は目立ちすぎないようにと、顔に墨を塗っての移動だ。奥方曰く、私ほどの美少女だと目立ち過ぎるし、旅の途中で暴漢に目をつけられやすいとの事だ。これには恥ずかしながらも同意せざるを得ない。自分で言うのもなんだが、私は2ヶ月前よりも更に磨きがかかり、完璧な娘になったと思う。女に愛でられるだけでなく、男を魅惑する娘。それは美人局では大切だが、それ故に暴漢にも狙われやすいのだ。同行の奥方は、男装しているとはいえ優男にしか見えない。暴漢からすれば私は簡単に狙える鴨なのだ。墨を塗るのは当然だろう。
 街につくや、宿に行って茶代を払う。泊まる為でなく、化粧とか衣装の準備に少し部屋を借りる為だ。金額は宿代と変わらないから、主人はほくほく顔だ。墨を落として化粧をし直し、今度は完全な美少女を演出する。歩き方とかも問題ない筈で、緊張を維持したまま、いよいよ酉関珀の塾に向かった。前回は奴の視線で胃に穴が開く思いだったが、今回はその視線をじっくり料理してやるのだ。覚悟が出来た所で奥方が門に入って案内を乞うと、酉関珀が自ら出迎えて来た。前回よりも厚遇だ。ここが勝負と、私もやや色っぽい挨拶をし、更に歩く姿を見せるべく、奥方の影から前に出て来た。もっとも表情だけは勝ち気な娘そのままに、決して媚びは出さない。
 出会い頭で成功したのか、後ろについて応接間に行く間も、酉関珀はしきりに私を振り返り、下半身の動きを見ている。気丈な娘ながらも、色っぽい歩き方。それは単なるなよなよとした歩き方とは違って、護身術に一緒に行った芸妓見習いの、1ヶ月の成果のあとのような歩き方だ。それは別の意味で男をそそる。男の私が言うのだから間違いない。もっとも、こう云った視覚的な美人局だけなら私よりも適任の女性がいくらでもいる。勝負は会話なのだ。なぜなら酉関珀には、そういう色の世界に無頓着な所があるからだ。以前、筆屋に聞いた話では、平気で女の人の手を握ったりするとの事だったが、それだって無頓着から来ている。粘着性の目つきだって、本気で女にモテようとしたら、あそこまで酷い目つきはしないだろう。つまり奴の野生は女好きで、その癖、女を手に入れようという努力はしないし、女に対する礼儀も知らない。誰もが自分に靡くものと思い込み、そして靡かないのは目が節穴だからだと自惚れる。そんな野郎だ。実際、視覚的に奴の気を引いて主導権を握ったのも応接間に入るまでで、その後は酉関珀のペースに戻ってしまった。粘着性の目つきで私の体を無頓着に舐めるように見つつ、ひとり勝手にどんどん喋り、相槌を求めて来る。もちろん怪しい知識に基づいての奇妙な論説だ。

 前回は此処で自重したが、今は違う。気に入られる為に来ているのだから、勝ち気に相手の間違いを指摘し、同時に自分も時折わざと間違えてみせる。そうして、相手に突っ込みの隙を与えて満足させる。押したり引いたりして興奮を高めて行くのがコツだ。前回との違いはそれだけではない。奥方も積極的に援護射撃をしてくれる。たとえば、私の突っ込みに、
「これ、嫁入り前の娘がはしたないぞ!」
としきりに口を出す演技がそうだ。もちろん、その度に酉関珀は
「いえいえ、構いませんよ」
と鷹揚さを示す。それに対して奥方が
「まったく、先生のような方で良かったですよ」
とか
「先生が心の広い方だと分かっていたので、この娘を連れて来たんですけどね」
と、気を引くような事を言う。自尊心の高い男は、単なる煽ては軽蔑するが、会話の内容で自尊心を刺激するとメロメロになる。
 次第に私と酉関珀は意気投合してきた。もちろん私のは演技だが、相手は意気投合だと思い込んでいるだろう。話が乗って来た所で、
「君子は危うきに近寄らずって言いますけど、必要な時に、虎穴に入らずんば虎児を得ずを実行する男性の方がやっぱり立派な人だと思いますの」
という旨の、度胸をそそのかす話を表現を変えながらも何度も繰り返した。もちろん、後で虎穴に入ってもらう為の刷り込みだ。そういう話と平行して、足の位置を変えたり、座る角度を変えたりして、視覚的な誘惑を加える。部屋の中は薄暗い。だから人の視線は体の表面よりその輪郭、輪郭よりも動きに向かう。それを最大限に利用するのだ。こういう風に小さな仕草の数々で女の魅力をアピールする事は、ここ3ヶ月ですっかり学んだ。その全てを使って酉関珀の気を引く。もちろん、そういう仕草は決してわざとらしくてはいけないから、私が反論に白熱している時に、その白熱の余りという感じで、ちょっとはしたない・・・男を刺激する仕草をするのだ。その全てに気付いてもらう必要は無い。10に3つ気付いてもらえれば十分だ。その位を目標にして誘惑すると自然な動作のなる。

 こうして1時間もしただろうか、さすがの酉関珀も少し意識し始めて、たんなる舐めるような目つきから、佳人をそんな目で見てはいけないという複雑な目つきに代わり、ちらりちらりと、それでいて瞬間的に凝視するような目つきにかわって行った。今がタイミングだと奥方に目配せすると、奥方も同じ考えだったと見えて、
「ちょいと厠を借ります・・・」
と言いつつ私に向き直して
「これ、あまり放言しすぎると先生に嫌われるぞ!」
と叱って部屋を出て行った。すべて予定言動。いよいと一騎打ちだ。雰囲気の急速な変化というタイミングを利用して、私は口を閉じ、酉関珀を上目遣いに見つめた。それは、恋とまでは行かなくても、
「私のこと、嫌いにならないで」
という目つきだ。この視線を学ぶのにそれだけ娘達を観察した事か。男として恥ずかしいとか言ってられない。いや、そんな思いすら浮かばなかった。今の私は心の芯から完全な女なのだ。
 男の心を捨て切った私の決死の思いが伝わったのか、それまで殆ど一方的に喋っていた酉関珀が、急につぐんで私を見つめた。ついに私を女として意識したようだ。単なる女でなく、恋の相手としての女。この男はそういう恋を生まれて一度も経験していないに違いなく、こう云う時に掛けるべき言葉も仕草も知らない。だからひたすら私を見つめるばかりだ。とはいえ、私から何かを言う訳には行かない。ここは先に喋った方が不利なのだ。
 無言の見つめ合いが続いた後に、ついに酉関珀が語り掛けた。それは2ヶ月前の話を蒸し返しだった。
「どうです、私の従妹の家庭教師になられては」
この後に及んでも、求婚ではなく、こういう回りくどい言い方をしてくるとは、本当に女の腐ったような奴だ。男どころか女にもこんなのはおらん。そう憤ると共に、美人局で騙す事への僅かな罪悪感が完全に消えた。一気に勝負を賭ける。
「何故ですの。そりゃ、伯父はアタシの事を家庭教師しか出来ない女って言ってますけど、これでもアタシ、ちゃんとした奥さんになれますよ」
怒ったような口調で強気に言いつつ、目だけ少し笑ってみせる。
 もっとも、そういう小細工が完全不導体の酉関珀通ずるかどうかは分からない。だから
「ごめんごめん。でも、君みたいな素敵な女性が、世の中の馬鹿男どもに嫁ぐなんて勿体ないなあ」
と言われた時は判断に苦しんだ。書物の話しかしないこの男が、結婚云々を言うのは初めてのことだからだ。美人局は上手く行っている筈。でも、相手は何処まで本気なのか?
「嫁ぐのが勿体ないって、酷い言い草ね。貴方と違って、アタシ、本よりは縁談に興味ありましてよ」
言葉尻を捕まえてパンチを与える。美人局の基本中の基本だ。
「いやいや、褒めたんだって。ほら、貴方には馬鹿共は相応しくないって、意味さ」
と言い訳に回る相手は、既に半分、こっちの策にはまっている。
「ふーん。じゃあ、誰ならいいって言うの? まさか、貴方って訳じゃないでしょ?」
含みを持たせた強硬な否定。それで相手を慌てさせるのも女の手管の一つだ。
「ははは、これは手厳しい」
予想通りだ。これで僕ですと立候補出来るような磊落な男なら、もっと社交的で人望があるだろう。でもそれは有り得ないから、ここで今までの刷り込みを使う。
「ふん。やっぱり、貴方は虎穴には入れない人なのね」

 返事の代わりに、相手は腫れ物の触るような目つきで私を見つめて来た。先ほどまでは無心に女を演じていた私も、ここまで嫌な奴からここまで女として見られると、自己嫌悪と恥ずかしさが次第に沸騰して来る。もはや美人局を演ずるなんて限界だ。私は今まで八方美人の娘達を軽蔑していたが、考えを改めた。嫌な奴にも愛想が言える女は偉い!
 最近出会った八方美人の娘達を思い出して、辛うじて息を吹き返す。ここが我慢のしどころだ。憂いを込めた目で私も見つめ返す。それが30秒ほど無言が続いた頃、思い切って誘ってみた。
「今夜・・・」
それ以上は言わない。相手に疑念を抱かせるのが先だ。案の定
「一体、どうしたと言うんだ、君みたいに聡明な人が、何か悩み事でもあるのかい?」
男は女を助ける事で自己満足する単純な動物だ。その能力が無くても、女を助ける甘い設定を夢想し続ける。それを逆手にとって男を焦らす戦術が存在する。
 私は、言うか言うまいか迷うそぶりを見せた。これも美人局の基本の一つだ。それを1分ほど続けた後、私は一気にこう云った。
「貴方を君子と見込んでお話しします・・・実はアタシ、さる人の所に嫁かされますの。叔父の話ではちゃんとした嫁入りで、もしかすると相手の妹の教育を任されるかも知れないって言ってますが、真相は女中以下だと思いますの」
いきなりの深刻な話に、相手は一瞬唖然とした様子だったが、やがて言葉を紡ぎ出した。
「一体、そんな胡散臭い話を、あの立派な叔父さんが持って来るとは、君子豹変だねえ」
熟語の滅茶滅茶な使い方に思わず噴き出しそうになるが、辛うじて笑いを抑え、深刻な演技を続ける。
「叔父はあくまで親切で話を進めているのだと思います・・・でも、アタシ、本当に普通の結婚に向かない女でしょうか?」
「そんなこと無いさ、君はとっても魅力的だよ」
殺し文句は最後に使う。それは私も同じだ。
「そんな事を言われたの、生まれて初めてですわ!」
最後の一線を越えて私は震えた。ここまで踏み込んで、相手がじっとしている筈が無いからだ。いかに奥方が部屋の外に居る筈で、最後に助けてくれる筈だとは云え、それはあくまで作戦で、とにかく今はこの場にいない。
 案の定、酉関珀は席を立ち、私の隣・・・奥方の椅子・・・に移ってきた。そうして、私の手首を掴むや
「じゃあ、僕から君の叔父に言ってあげるよ、家庭教師に迎えたいって」
馬鹿だ。ここまで馬鹿とは思わなかった。私は奴の手を振り払って
「その話、この前もしたでしょ! それでも叔父は今の話を進めていますのよ」
ようやく相手も気付いたようだ。並の男なら、ここは求婚する所だろう。そうなれば、こっちも料理がしやすい。だが奴は
「困ったものだねえ」
と煮え切らない。ダメだ。ここまで甲斐性なしだと、美人局が成り立たない。諦めて、飽きられる事を覚悟で
「誰か、一緒に逃げてくれる方はいないかしら」
と独り言を言う。もちろん、横の酉関珀にギリギリ聞こえる範囲だ。
「ふーん、そんなに嫌なんだ。・・・難しいなあ・・・何か良い案は・・・」
さすがの駄目男も、少しは考えているようで、とうとう黙り込んでしまった。そうして、答えを出す代わりに、私の髪の毛の先端を撫でて来た。慰めている積もりなのだろうか? だが、手はだんだん髪の根元に近づき、やがてうなじまで撫でるようになってきた。そうだ、この手の男は、いったん箍が外れると、自制出来なくなるものなのだ。となると、手はやがて私の体に伸び・・・女装がバレてしまう! 
 心臓の鼓動が急に大きくなった。おびき出しに未だに成功していないのに、このままでは破綻だ。


第30回:再挑戦に向けて(妻視点)

 形だけ厠に行った後に直ぐに戻り、部屋の前で中の様子を伺う。すると、
「その話、この前もしたでしょ!」
という笙娘の声が聞こえて来た。そのあとに続く話の内容に、気を引く所までは出来たものの肝心のおびき出し難航している事が分かる。とはいえ、ここで中に入ったら、上手くいきかけた美人局に水を差す事になりかねない。更に耳をそばだてていると、声が途切れた。酉関珀がこの手の話を続けられない甲斐性なしである事は分かっているが、笙娘が全然喋らないのはおかしい。話の内容と、声の方向から、女の感で不安が募って来た。もしかして、笙娘が金縛りになるぐらいのヤバい状況になりかかっているのではないか? 
 慌てて咳払いし、相手に余裕を与えてから部屋に入ると、案の定、酉関珀が笙娘の隣の椅子から立ち上がるところだった。笙娘は顔を赤くしている。もしかあすると早まったかも知れないと思いつつ、笙娘の横に座ると、あたしの手を握って来た。笙娘の手は震えている。どうやら、部屋に入ったのは正解だったようだ。きっと体に触られたのだろう。なんせ、尻を触られただけで、そして縁談の話を聞いただけで熱を出すような子だ。いかに作戦と分かっていても、男から本気で言い寄られたら笙娘には耐えられまい。それを裏付けるように、あたしが戻った後の会話は何となくぎこちない。どうやら、おびき出し出来ないままに笙娘が精神的な限界に達してしまったらしい。
 こうなっては、ここに長居する意味は無い。さっそく切り上げる準備にはいった。当たり障りのない話を10分ほどしたあと、あたしは、そろそろ暇を告げなければならない事を告げつつ
「そうそう、先生にひとつ、お願いしたい事があるのですが」
と不意打ちに頼み事を入れた。緊張状態が急に変わった瞬間は、10人に8人までが警戒を緩ませる。だからこちらの要件を直ぐに聞いて来るかと思ったら、酉関珀は意外にも
「なんでしょう? そう言えば、僕からもお願いがあるのですが」
と答えてきた。やられた。相手は常識の通じない予測不可能な野郎なのだ。それにしても、向うからのお願いとは何だろう。まさか笙娘を欲しい云うとは思えないが・・・。
 こっちが先に言うべきか、相手に先に言わせるべきかの損得を瞬時で判断して、先に言わせる事にした。
「先生から先にどうぞ」
「実はこの前もお話しした従妹の家庭教師の件ですが、将来を私が保証するという事で、姪御さんに来て頂けないでしょうか?」
ああ、この話か。安心すると共に酉関珀の馬鹿さ加減に呆れた。娘の将来を保証するとは、すなわち確実に結婚させる事をさす。でも結婚相手は決まっていない。酉関珀は、いずれ笙娘を自分の妾にしようと思っているのだろう。或いは正妻かも知れない。それを保証という言葉で表すとはいかにも腐れ儒者だ。もっとも、一般論としては、つまらない小者に嫁しても嘘を言った事にならないから、悪者だって同じ事を言うのだ。逆に言えば、保証という言い方での求婚は簡単に揚げ足を取る事が出来る。
「すみません。実は半月前にこの娘に突然縁談が降り込みまして、そちらに嫁付ける事にしたんです」
そう言いつつ笙娘を振り向くと、笙娘は困ったような表情を見せつつ作り笑いをしてきた。見事な表情だ。これなら酉関珀に『無理矢理な縁談』と思われるだろう。そこであたしは止めを刺した。
「先生の達筆のお慕いしまして、是非とも結納書を代筆して頂ければと思いまして、本人を連れてお邪魔した次第です」

 実は、おびき出しに失敗した時の策も打ち合わせていたのだ。むしろこっちが本命と云って良い。それは、笙娘の縁談が進んでいて、結納の為の書類を酉関珀に代筆して貰うというものだ。相手は塾の先生だから代筆も生業の一つであり、それをあたしが頼むのもまた自然だ。でも、なぜそういう手間をかけるのか? これにはいくつかメリットがある。
 第一に、笙娘の縁談に信憑性を持たせる為だ。美人局は半分成功して、酉関珀は笙娘を内心モノにしたがっている。これは間違いない。しかも、あたしが2度も笙娘を酉関珀の所に連れて来たという事実に対し、酉関珀は実質的な見合いと思っていたに違いない。だから、酉関珀から見たら、笙娘を9分9厘手が入れたと思っているだろう。そんな状況で、目の前の好みの女に別の縁談があると突然言われても、はいそうですね、と簡単に信られないのが人情だ。一旦出来上がった『お見合い』という刷り込みを覆すのは難しいからだ。特に酉関珀のような自分勝手な男だと、己に都合の良い妄想を否定するような縁談話を簡単に信じるとは思えない。確かに笙娘は既に縁談の話をしているが、それは単に気を引く為の手管と酉関珀が判断する可能性があり、現にさっきの2人の様子を見ると、縁談の話を契機に酉関珀が笙娘に迫ったと思われる。
 そういう曖昧さを立ち斬る為には、縁談が進行中であると酉関珀に実感させる必要がある。その道具が結納書だ。人間、話を聞かされただけでは他人事にしか感じないが、自らの手を動かすと突然実感する。結納書を書くとはそういう行為だ。いかな酉関珀でも実感せざるを得ないだろう。しかも、縁談は笙娘の気の進まないものだ。酉関珀は不憫さを感じながら結納書を代筆する事になる。不憫さだけではない。後悔もする筈だ。というのも、縁談を簡単に納得しないのは、それを認める事が
『何故早めに手を打たなかったのか』
という後悔につながるからだ。そうして思慕が一時的に拡大する。人間には、手に届かなくなってしまった直後に、それを後悔と云う形で切望する癖がある。いかに予測不可能な酉関珀とはいえ、そのくらいは人情に従うにだろう。そこにおびき出しのチャンスが生まれる。
 結納書を書かせる第2の理由は、酉関珀を宴席に連れ出す口実だ。代筆のお礼に宴席に呼べば、名目が立っているから奴も来やすい。もちろん、お礼だから宴席に笙娘がいるのが前提だ。笙娘を取り逃した酉関珀は未練たらたらだから、手の届かなくなる前に会いたいと思うだろう。それどころか、挽回の機会すら探そうとするだろう。そういう、ちょっと後ろめたい気分に加えて、恩人としての出席だから、のこのこ出て来るに違いなく、そればかりか付き人無しで来る可能性すら高い。

 結納書そのものにも小細工を加える。普通の結納書は家柄とかを示した戸籍謄本みたいなものだが、あたしたちが書いて貰おうとしているのはちょっと違う。
『夫や舅姑に従い、家の外にむやみに出ず』
といった、厳格な婦道を羅列した項目に対して、自分が確かに従いますと宣言する内容で、むしろ妾を売るときの身売り証明に近い。ここで常識人なら
「結婚とは外聞上の事で、実は妾として売るつもりではないか」
と疑うだろうが、それでも所詮は他人の結納であり、本当にしきたりの違いかも知れないと思って話を聞くだろう。ましてや酉関珀だ。世間を知らず学問も無い癖に知ったかぶりをする男だから、こっちが
「相手の家格が高うございまして、古法を重んじるとの事。それで、こういう形式で書いて欲しいとお願いされたのです」
と説明すれば、古法を重んじるという言葉に惑わされるに違いない。果たして酉関珀はあっさり信じてしまった。
 ここまででも十分だが、あたしたちは更に一歩踏み込んだ。親がその娘について云々すべき形式を、本人の誓文のような形式に変えたのだ。あたしはこうお願いした。
「わたくしどもも、せっかくの由緒正しい相手と云う事で、それに相応しく、更に古来のしきたりに則ろう思います。そこで、本人の誓文の形式で書いて頂ければ、これ以上の幸せはありません」
要するに、あたしたちの用意する結納書は、事実上の身売り証明に他ならない。だから、それを自ら書いた者は、花嫁という名目で身売りした事を認める事になる。少なくとも法的にはそうだ。
 もちろん代筆が普通の稼業として成立している世の中だから、少なくとも代筆だったという言い訳は通る。だが、それも代筆者を知っている人間がいる街とか、代筆される相手の人間がいる場合の話で、包家村には酉関珀の知り合いも身代わりの女もいない。自筆の身売り証を携えて洪家に入ったという事実だけが残るのだ。しかも書類を本人に書かせる事で、筆跡から陰謀元がばれるのを防ぐ事ができる。もちろん、読み書きが出来るような男が花嫁として送り込まれたら、誰でも陰謀だと思うだろう。そればかりか、読み書きが出来るような人間には金持ちか権力者の子供である事が多いから、後難を避けて、本人の主張する出身地まで送り返すに決まっている。それでも、嫁入り前に予め結納書でさんざん脅かされた酉関珀が、嫁入りの予定を知った時からずっと不安にかられる事だけは確かだ。
 これほどの効果があるのだから、いきなり美人局でおびき出すよりも、その手前で止めて結納書を手に入れる方が計画としては美味しい。でも、全てに計画に不測の事態がありうる。そういうリスクを考えると、多少の効果の差は目をつぶって、一回目からおびき出しに腐心するのが戦略としては正しいのだ。

 あたしたちの意図に酉関珀が気付く筈はないが、それでも奴はためらった。それは、笙娘を失う為の行為を自ら進んでやる事になるからだ。あたしがいくらヨイショしても駄目で、とうとうあたしは笙娘に目配せした。意を悟った笙娘は、やや物悲しそうな声で
「珀先生、是非とも書いて下さいまし。アタシの一生の思い出にしますから。珀先生は君子ですよね」
と言い、目元までも悲しそうにしている。ここで涙の一つでも出せれば最高の役者だが、さすがの笙娘もそこまでは出来なかった。それでも、君子と言われたのは効いたらしく、ついに折れて酉関珀は結納書を書き始めた・・・それが自身の身売り証明であると気付かずに。
 こうして目的の半分を果たしたあたし達は、塾を出るや前回と同じように船着き場に急ぎ、前回と同じように下流に向かった。前回と違い、そのまま下流の組との境目に近い入り江で、下流の組の屋形船に移った。そこには下流の組の頭目だけでなく上流の組の頭目も来ている。そこで、あたしたちは今日の首尾を話し、酉関珀自筆の結納書(身売り証)を取り出して、上流の頭目に渡した。それをちらりと見た頭目は下流の頭目に渡し、その次に横に控えている小頭に渡して、その小頭が皆に読んで聞かせた。頭目は文盲ではないものの、完全に意味を把握出来るほどに読める訳ではない。だから文章に明るい小頭に読ませたのだ。小頭が読み終えると、そこに集まった幹部の皆が歓声をあげ、頭目は
「これさえあれば、最悪、おびき出しに失敗しても誘拐って手があるな」
と言ってあたしたちをねぎらってくれた。どうやら、今回は、はじめから結納書のほうを期待していたようだ。あたしも笙娘もホッとして、ようやく大役を終えた開放感を得た。

 一息つくと、最新の話を聞いた。まず、2日前に捕まえた間諜と裏切り者から聞き出した情報だ。聞き出すと云っても力ずくではない。元々、秘密の一部は既に一昨日の一石三鳥計略にかかって喋っているから、嘘情報は出し難い。しかも2人別々の取り調べるから、調べる方が有利だ。そこで、先ず間諜に、情報提供に協力して、しかも今度の作戦できちんと働いたら味方として厚遇すると誘ったそうだ。これで間諜が落ち、その情報を小出しにしつつ裏切り者を尋問したらこちらも簡単に落ちたそうだ。裏切り者の方は屋形船の漕ぎ手として1から出直して貰う事になっている。もちろん、情報が嘘だった場合は両者とも断罪だ。さすが、闇商売だけあって、脛に傷を持つ輩の使い方には長けている。確かに彼らは賓客だ。一昨日聞いた時は冗談と思ったが、そうでは無い。だからこそ、杓子定規に直ぐに断罪する警察に対抗出来るのだろう。
 その間諜の話では、青河は水面下で跡目争いが始まっている事だった。というのも、近々、一の親分が舟から降りて隠居する予定だからだ。この商売、舟で仕切るのが基本だから、舟での寝起きはおろか、水練その他を若い者に交じってこなせる者でないと、組の統率は難しい。そんな事情で、早くて40歳、遅くとも50歳までには組の頭を後進に譲って隠居する習わしになっている。隠居といっても経験は豊富でコネも多いから相談役として組の者から絶大な信頼をもたれているが、それでも隠居は隠居で組とは無関係者だ。
 頭目が隠居する以上、跡目を誰かが継がなければならない。大抵の組では、そのあたりの道筋がしっかりしているが、青河の上流組はそういう訳にいかず、1年ほど前から色々な動きがあったらしい。というのも、二の頭が人望がないからだ。とは云え他に絶対的な候補が居らず、複数の候補者が横一線で並ぶ状態らしい。こう云う時に謙譲するのは講談だけの話であって、現実は生臭い。候補者達は己の独自性を示して他の者との違いを強調しようとする。そんな流れの中で、人気取りの為に拡大政策を主張する者が現れたそうだ。具体的には緑河を支配下に収めようという。こんな、官憲の喜びそうな提案は、普通ならそっぽを向かれるが、不幸にして、人望の無い二の頭が緑河との関係強化を打ち出したものだから、その反発としてこの主張が支持を得てしまったらしい。こうなると、急進行動を止める事は、二の頭はおろか、引退間際の一の頭でも難しくなる。衆愚政治はいつの時代でもどこの国でもどんな組織でも同じだ。
 これが酉関家とよしみを通じている上流の話で、下級の方は、もっとずっと前から頭の一人が洪家と繋がっていたそうだ。もっとも本気で緑川と敵対する為でなく、むしろ洪家の方から接近して来た利益供与に独断で乗ったらしい。恐らく、包家の分家を潰す事に本腰を入れ始めた洪二郎が、緑河との本格的な争いを危惧して、新しいパートナーを捜したのだろう。一方、最も心配された酉関家と洪家の繋がりだが、いずれも青河に繋がっているとはいえ、上流と下流の違いがあり、間諜や裏切り者ですら街や村の名前を知っている程度だとの事だった。直接の関係は無いとみて良い。

 背景の説明が終わった所で、現状報告に移った。その中であたし達に関係のあるのは噂の広まり具合だ。噂には3つある。元々の噂は
『青河の親分が首ったけの美人は商家の娘で、あたしたちの街に住み、彼女も親分の期待に答えるべく武芸訓練までしている』
という内容だった。これがあたし達の街に伝わった直後に、
『笙娘は実は立派な商家の娘で、青河との関係が親にバレて追い出されたところを、筆屋が匿った』
と変わり、それが玉の輿の縁談の直後に
『筆屋の所に居候している娘は、青河の頭目と市知事の息子の両方から求婚されている」
と更に変わった。一つ目は確実に青河に伝わっていて、2つ目と3つ目は少なくとも間諜の耳に入っていた。あたし達が知っている事実はこれだけだが、間諜の話によると、2つ目の噂は青河にも酉関の親父にも伝わっているそうだ。
 これを聞いてあたし達は心臓が縮む思いをした。というのも、この噂を聞いた酉関の親父が酉関珀に
『筆屋とその娘に注意しろ』
という警告しかねないからだ。幸、先ほど会った感じでは、そういう警戒が無かったが、何時警告が入るか分からない。そう気付くと、今日の美人局作戦に悔いが出て来た・・・おびき出しでなく、結納書で満足したのは失敗だったのではないかと。如何に笙娘の名前を更に変名させたとはいえ、この次の作戦日までに、酉関珀へ警告が入ったら全てがオジャンになるかも知れないのだ。最悪の場合、酉関の親父に捕まって、美人局作戦の背景を拷問で聞かれる可能性すらある。 
 そういう危惧をあたしが言うと、意外にも笙娘は不安な様子を見せず、落ち着いて
「それで、3つ目の噂はどうなっているのです?」
と尋ねた。間諜を尋問した親分は、
「間諜は噂を勘違いして、市知事に見初められた娘は、実は青河の親分の仲間だって言ったようですぜ」
と答えた。それを聞いて笙娘は
「難しいですねえ」
と思案顔だ。あたしには意味が分からないので、
「それがどうした?」
と尋ねると
「市知事の息子と青河の親分の両方から求婚されている程の娘と、家庭教師の話をする者とを、酉関珀が同一人物だろうと疑うとはとても思えません・・・」
 なるほど、いかに『筆屋と姪』と『縁談』という2重組み合わせとは言え、全然違う街の話の、全然家格の違う縁談では、世界が全然違うと思って気にかけないだろう。
「・・・誰かに録西街で噂を流させ、作戦は継続しましょう」
そう言い切った笙娘は眩しかった。
 そういえば2ヶ月前の笙娘も、最後はこんなだった。でも何かが違う。そう考えて思い至った。2ヶ月前は男らしいと感じたのに、今日は男勝りの娘という感じなのだ。信頼出来る女の英雄。どんなにかっこう良くても、今の笙娘は娘にしか感じられない。そんなあたしの感想をよそに、目の前の頭目は
「まったく知恵袋だ。こういう方が将軍になってくれたら、中華の国も変な外敵に脅かされる事なんてないだろうに」
と舌を巻いている。

 間諜がらみでは、向こう数日の見通しもあたし達に関係ある。間諜が青河に帰り着かなければ、青河の連中は訝しがって、別の間諜を送り込む。でも、それまでには時間があると見て良いらしい。頭目は数字を挙げて説明してくれた。
 あたし達の街を経由して青河から録西街まで普通に急いで3日の行程で、途中で色々調べたりしていたら、それが5〜6日になっても全然おかしくない。だから不審に思うのは早くて2日後あたりだ。新しい間諜を送り出すのは早くてその翌日で、その彼が酉関の親父に会うのに最低でも2日はかかる。つまり、早くて5日後だ。そして、間諜が酉関の親父に会ったところで、あたし達の次の作戦に直ぐに影響が出る訳ではない。むしろ、間諜の失踪は、酉関の親父に、青河との関係が上手く行っていないのではないかという疑念を抱かせる効果すらある。それは、続く作戦にとって不利ではない。
 更に、別の間諜が誰であるかは予想が着き、そいつの通り道も分かっているそうだ。裏切り者が白状したからだ。もちろん、別の間諜を送る段階で青河は警戒を始めるだろうから、経路を変えられる可能性はあるが、常識的には取りあえず裏切り者に接触する筈だ。なんせ、緑河の縄張りを移動するのだ。安全の為の情報を裏切り者から得ると同時に、もう一人の間諜の消息を裏切り者に尋ねようとするのは当然だろう。そこで更に時間稼ぎが出来るし、場合によっては拘束出来る。
 今後の見通しと言う意味では、これから先、緑河が青河にどういう風に対応して行くかも問題になるが、これは緑河の問題なのであたし達には語られなかった。ただ、後でこっそり連絡係が教えてくれた所によれば、間諜と裏切り者という切り札を持っている以上、緑河に有利な形で無血で済ませる予定だそうだ。内部争いをして官憲につけ込まれるのは愚の骨頂だからと付け加えてくれた。

 間諜がらみの報告が終わると、今度は下流の組からの最新情報だ。首尾よく酉関珀をおびき出したら、作戦の中心は洪家に移るから、自筆の結納書もとい身売り証を得た今、こっちのほうが重要だ。しかし、一回目の接触は不首尾だったらしい。理由は、家柄を商家にしたからだという。裕福な商家は、科挙を受けさせる経済的余裕がある事から、役人に対して有利な立場に立ちたい思惑の元、息子の一人に試験勉強させる事が多い。酉関珀だってそういう理由で生員になっている。ところが、洪二郎曰く、そんな商家なら、近くの街にわんさかいるが、どれも詰まら家柄だし、娘も、わがままか不細工かのどちらかに決まっているとの事だった。ここまでは3日前の話。一昨日聞けなかったのは、あたしたちの訪問が突然で、しかも訪問先が上流だったからだ。
 一回目の接触こそ失敗したが、それで終わりではない。敵の間諜がいったん報告に青河に帰った隙をついて、仲人婆に話を持ちかけたそうだ。しかも敵の間諜の名前を使って、
「間諜は所用があって来れないので、善は早くという事で代理で話を持って来た」
という具合だ。今回の設定は、赤貧儒者の次女で、その兄は若くして生員に合格しているというものだ。赤貧とはいえ代々生員(童試合格者)を出し続けた家柄で、長女は既に嫁に行っているので次女も妾でなく正妻とて送り込みたいと思っている旨を付け加えてある。
 正妻だから不当に扱うと相手が生員だけに裁判になる恐れがある。だからこその赤貧の設定だ。そもそもが食い扶持を減らす為の縁談であり、裁判の金なぞ持たないだろうと、洪二郎は考える筈だ。とはいえ、兄が生員に既に合格しているなら、試験勉強や生活の為の金はある筈だから、洪家に迷惑をかける事も無い。洪二郎が冷静に考えれば美味しい話の筈なのだ。もちろん、この女を洪の息子の代わりに二郎が食ったら、金輪際縁談を世話しないという脅しは忘れない。

 こういう話を聞いたあと、あたしたちは宴会に移り、その後は案内係一人に連れられて、田舎のとある一軒家に案内された。あたしたちがこれから4〜5日潜伏する場所だ。そこは昔の頭が隠居している家でもあって、聞けば、妻子や下男もいるらしい。良民とでも言うのだろうか。そこにこっそり潜入した形になったあたしたちは、家の主人・・・元頭目・・・に挨拶したあと、寝台がいくつかある部屋に通された。恰好の隠れ家に落ち着いたあたしたちは、翌朝、さっそく次の作戦の準備に取りかかった。それは笙娘に男に戻ってもらう事だ。
 次の作戦での笙娘の役割は、笙娘の弟として酉関珀に会い、
「最後に一目お会いしたい」
という『姉』の秘密の伝言を伝える事だ。笙娘そっくりな姿を見た酉関珀は、十中八九、笙娘への未練を再発させるだろう。こうやって恋心を刺激しておいて、結納書代筆のお礼の宴席に招けば、いかに予測不可能な酉関珀でも断るまい。唯一の心配事は、男装の笙娘・・・葉芯洋こと包庸鞘が今も手配されている事だが、手配書の人相書きは昔のものであり、しかも5ヶ月の手配で風化している筈だ。そもそも、包家村と全然関係ない録西街だから、手配書が始めから掲示板に載らなかった可能性すらある。それらを考えると、笙娘が1日だけ男に戻ったところで危険とは思えない。それよりは痴漢の心配をする方が現実的というものだ。だからこそ、笙娘自身がこの案を出して来たのだ。もっとも、5ヶ月も完全な娘として生きて来た笙娘に、いきなり男を演じさせてもボロが出るに決まっている。男の感覚を思い出して貰うために、数日の練習期間をとったのだ。
 ところが、男の服を来た笙娘を見て、数日では全然足りない気がして来た。というのも、笙娘にどんな恰好やポーズをさせても、男装した娘にしか見えなかったからだ。色白で、上半身が細く、喉仏は全く目立たず、何よりも、うなじや鬢や眉が女のそれだ。こういう時は頭巾とダブダブ服だが、それを着せても女の雰囲気しか無い。女と違う筈の尻すら、今まで腰と太腿を締めた残りという事で、細めとはいえ、女のそれと説明した方が合っている。更に全体の細い雰囲気が、栄養の足りない乳房と上手く合致していて、真っ平らの胸すらも娘として違和感がないのだ。5ヶ月前の葉芯洋こと包庸鞘の面影は殆ど残っていない。ここまで娘になってしまったとは思いもよらなかった。このままでは弟として登場しても違和感が残る。下手すると数日前の女装までバレてしまうかも知れない。


第31回:早替わり(笙娘視点)

 懐かしい男装。5ヶ月前にいきなり女装を始めて以来、結局一度も男に戻らなかったから感慨深い。もちろん、作戦進行中という不安や、手配書の似顔絵で捕まってしまうのではないかという不安はある。でも、それとこれとは別だ。男として当然の恰好が出来る喜びを味わいながら、ゆっくりと体型補正の革布類(コルセット類)を外し、男の服を着ていく。だが喜びもそこまでで、男装の私を見た奥方の評は最悪だった。
「どう見ても男装した娘にしか見えないわよ」
田舎ゆえに鏡は無く、桶に汲んだ水に映せるのは顔までだから、奥方の評を確認しようがないが、冗談でない事は奥方の真面目な表情から伺える。
 困惑していると、家の主人が朝食に呼びに来た。元頭目である主人に先導されて、小さな食堂についた。主人の説明によると、この家は1つの扉を挟んで2つに仕切ってあり、家の者にはこちら側には来ないように言いつけているそうだ。もっとも、全くの隔離ではなく、外に出る為の裏口はもちろんある。ただし、それはそのまま林になっていて、簡単には玄関のほうに来れないそうだ。説明が終わった後、主人は私に向かって
「噂には聞いてたけど、いやあ、ここまで美しい娘さんとはねえ。男物の服しか無くて申し訳ないが、しばらく寛いでください」
と言って来た。男装でも美少女に見えてしまう事を主人に云われて少しだけ凹む。もっとも、お世辞の可能性もあるから落胆するのは早い。元頭目は私を娘と信じているみたいだからだ。それなら、こういう挨拶は自然だろう。逆に言えば、緑河の連中は、元頭目にすら私の本性を言っていないと思われる。機密がここまで徹底しているとは思いもよらなかった。そういえば、ここに案内して来たのは頭目でなく案内係だ。その案内係もおそらく私が男である事を知るまい。

 食事の後、主人と別れた私たちは、説明された裏口から出て、水たまりのある所まで歩いて行った。私の姿を見る為だ。見なければ良かったものの、見てしまったばかりに私の心はかき乱された。確かに男装の少女にしか見えない・・・男物の服を着ているのに、体型矯正の革布類も着けていないのに! 奥方や主人の言葉で心構えはあったものの、それを実際に見るのでは衝撃が全然違う。唖然とした私に、奥方のため息が更に追い打ちを掛けた。
「歩き方も腕の動かし方も、まだ、完全に娘のものよねえ」
5ヶ月の女装生活、そして3ヶ月まえから始めた娘としての意識は、私の姿も仕草もここまで変えてしまったのだ。
 もっとも、衝撃の中身は、先ほど奥方から言われた時の落胆とは少し違う。不思議な事に、一種の優越感をも感じていたのだ。そして、その優越感のほうが、男に見えない悔しさや恥ずかしさよりも大きかったのだ。合わせれば軽い快感と言うべきが。まさか、こういう状態で快感を覚えるとは思いもよらなかった。でも、男装してすら美少女にしか見えないという事は、普通の娘を遥かに越える美少女になった事を意味する。それを男の身でだ。少しは誇りに思ったって良いではないか?5ヶ月の努力が報われたという満足感が、男としての恥ずかしさを多少越えてもおかしくない。
 もっとも、私の快感はエスカレートして、次の瞬間には娘である事の喜びをも感じてしまった。美しい容姿というのが、全ての娘の一番に羨望するものだからだ。美しさを得た娘はそれだけで有頂天になる。その喜びは、男が力強さや智慧で他人の秀でた時を越える。ならば、男の身であっても、美少女になれた事へのナルシズムがあっても良いではないか? なんと言っても、美人局を目標に過去2ヶ月間がんばってきたのだ。もちろん、今までも自分が美少女である自覚はあった。でも、殆どの娘が、地ではなく、化粧や服や飾り物で総合的な美しさを競っている以上、私の美しさも服や化粧のお陰かも知れない。そういう懸念を打ち消したのは男装姿だ。私は人工的な誤摩化しが無くても美少女なのだ。娘なら有頂天にならない筈が無い・・・そして私も。どうやら、私は何時しか娘と同じような価値観を持ってしまったらしい。
 少しだけ忸怩たる気持を抱きながらも、ふつふつと沸いて来る喜びは止められない。と同時に、もっと可憐にもっと愛らしくなりたいと思ってしまう。それは、人から愛でられたいという欲望だ。美しさを得た者は、それを他人に認められたいと思うようになる。あたかも剣士がその技を、書生がその才を他人に認めて貰いたいと思うように。我が身の美しさを確認した私も例外ではない。今までは、自分で女装を判断して自己満足していた。そして天狗にならないように自重して来た。でも、男装によって自身の美少女ぶりに自信のついた私は、それを他人に褒められたくなってしまったのだ。
 一旦芽生えたナルシズムは、とどまる事を知らない。すぐに私は、容姿を褒められるだけでなく、好かれ、愛されたいと思ってしまった。人に愛される喜び・・・なんと甘美な言葉だろう。それまで封印していた乙女心が開花する。そんな気持で先日の縁談を思い返すと、何故だか懐かしい素敵な思い出のように感ぜられ、もう一度、同じような目に会ってみても良いと言う気がしてきた。誰か人気者の貴公子が私に恋をしないかしら、とすら夢想してしまう。もちろん、実際に男を相手するなんて気持悪すぎて考えられない。でも、それと夢想とは違うのだ・・・恋に恋する娘のように。かくて私の心境が急激に変化した。もしかすると美人局をやった事で、男から求愛される事に慣れてしまったのかも知れない。

 美少女である事実が楽しくなって来ると、次の作戦もそういう思考で考えるようになる。だから、男装の娘として酉関珀に会うという修正案を出すのには時間が掛からなかった。酉関珀への自己紹介はあくまで弟としてだが、会話のうちに酉関珀が、男装した娘ではないかと疑問に思うように仕向ける作戦だ。そうして、
「ここまで目立たないように来るのは大変でした。そういう私の苦労をお察し下さい」
という仄めかしをいくつか加える。但し、あくまで弟という名目を通して暇を告げるのだ。酉関珀は私に未練を持っている筈だから、真相を知ろうと、招待された宴席に来るに違いない。
 この作戦で一番難しいのは、男っぽい仕草をしようとして、ついつい娘の地が出てしまう風に見せなければならない点だ。それを男の身で。だが、これは奥方に言わせれば簡単だろうとの事だった。今の私の仕草が娘のものだからだ。下手に自然に男の仕草を狙うと動きがチグハグになりそうだが、男っぽい仕草を大げさに真似れば、現在の素地である女の仕草に影響は出ないはず。要するに、私は男に戻るのではなく、男を演ずる。役者になった気分で。
 それから数日、この路線で訓練したが、意外に大変だった。服はともかく仕草や化粧が難しい。というのも、単に男装の娘に見えたのでは、酉関珀は鼻から私を娘本人だと思うだろうし、そればかりか道中や取り次ぎで問題が出て来るからだ。必要なのは、男なのか男装の娘なのか判断に苦しむような仕草だ。それは娘の雰囲気を根本に残し、巧妙な男装ながらも、細かい端々に娘である事が分かってしまう演技だ。それを習得するため、私は今まで以上に『私は既に娘だ』という暗示を掛けた。それは、今までの『娘になり切る』という暗示とは次元が違う。
 結局の所、男の服に着替えたにもかかわらず、私は今まで以上に娘である事を意識するようになってしまった。服だって、一旦脱いだ矯正革布類(コルセット類)を再び着け、尻と胸を膨らます布類を巻いて、女装そのものだ。唯一の違いは、胸当ての代わりに、さらしを巻いて、いかにも胸を押さえているように見せかた点だけ。そのさらしにしても、上着からかすかに透けて見えるようにしているから、女が胸を隠しているという風に取られないでもない。次第に男から遠ざかっている私の体を見て、これは運命なのだろうかとふと感じた。私の前世は女だったのかも知れない。

 瞬く間に丸4日が過ぎて、私たちは黎明の闇に紛れて屋敷を出た。変更ミッションでは、先に『男装』の私が酉関珀に会い、次に男装の奥方が酉関珀に会う。変更を緑河の幹部連中に告げたのは今しがただが延期の必要は無い。こうして午後下がりに、私は酉関珀の塾に向かった。付き人は筆屋で、お守り役らしい恰好に変装している。だから筆屋は女装でなく男の姿でここに来ている。
 元々の予定では、身元隠匿の為に筆屋は以前と同じ女装で来る筈だった。ところが、敵の間諜を寝返らせた事で事情が変わった。この間諜を私達が捕まえたとき、筆屋と奥方は変装していない。ところが、今回の作戦は、この(元)間諜を使う。だから、筆屋が女装して来ると、間諜から筆屋の過去の女装、ひいては奥方の男装が緑河全体にバレてしまう可能性がある。それは機密保持の視点から好ましくなく、以前ここを訪問した女装筆屋とは別人という触れ込みで筆屋が来る事になったのだ。前に筆屋が来たのは4ヶ月前の一度だけで、しかもその時の女装では白粉で誤摩化している。そんな遠い記憶と、性別も顔の白さも違う今の筆屋を同一人物の見抜ける者はまずいない。ちなみに今回の筆屋の旅行は、隣家や近所には私の縁談の為と説明している。私が街を出て今日で8日目だから、さすがの玉の輿騒ぎも下火になり、ごく自然に出て来れたそうだ。
 酉関珀の塾に着くや、取り次ぎを経て、私一人が応接間に通された。弟という触れ込みだから、形式上は初対面だが、それでも応接間などを褒める社交辞令を省略して、自己紹介に続けて単刀直入に
「姉の件ではお世話になりました」
と話す。相手に先に挨拶させると長くなる事が分かっているからだ。いきなり想い人の話が出て来たから、さすがの非常識男も脱線せず、直ぐに婚約相手とか婚礼日程とかを聞いて来た。婚約相手の設定は既に決めてあり、洪家と青河を足して2で割ったような感じだ。質問の度に私は、
「相手には頭が上がらない」
とか
「正妻と云っているけど妾だと思う」
とか
「救い出してくれる人を待っている」
とか言って、酉関珀の気を引く。もちろん、問答の途中で女の仕草をところどころに出して、男装の娘である事を仄めかすのも忘れない。話の内容が効いたのか、酉関珀は熱心に聞き入り
「もったいない」
とか
「残念」
とか繰り返した。

 そこまでは良かったのだが、どんなに私が女を感じさせる仕草をした所で、反応が全く無くて困ってしまった。それどころか避けられているような印象すら受ける。どうやら鼻から男と思い込んでいるらしい。問題点の一つは部屋がやや暗い事だ。だから、男か女か分からないと言う微妙な判断が難しく、酉関珀はその手の観察を完全に放棄しているらしい。そして、この男は男色には全く興味がないから、一旦関係ない性別だと思い込むと、女っぽい仕草は嫌悪に繋がる。これでは
『実は笙娘が男装してこっそり会いに来た』
と勘違いさせるどころか、
『こんな弟がいるような奴には近づきたくない』
と思われかねない。不味い! 
 何を隠そう、私自身が女っぽい男が苦手なのだ。男の癖に女のような仕草をするような連中は、嫌い以前に気色悪い。ましてや男娼なんて近づきたくもない。おそらく、多くの常識人がそう思うだろう。ここは蘇州とは違うのだ。5ヶ月も女装を続けている私ですらそう思うのだから、世の中を知らない酉関珀が女っぽい男を軽蔑してもおかしくない。そして、私の仕草は、まさに男娼を思わせるものなのだ。いつの間にか自分自身が唾棄すべき男娼と同類になってしまっていた事に衝撃を受けると共に、それに気付かなかった過去5日間を呪った。娘である事が余りに当たり前で、男と認知されてしまった場合のリスクを十分に考えていなかった。この事に気付いてみると、事態は最悪に近い。私は取り返しがつかなくなる前に、さっさと暇を告げる事にした。

 それでも帰り間際は一つのチャンスだ。応接間を出る前に、最後の試みとして
「姉からの伝言として、楽しかった会話がこの先出来なくなるのが辛ろうございます、との事でした」
と、伝言部分だけを女声で、残りを男声で話す。今回はじめて使う女声に、相手はちょっとだけ反応したようだ。いけるかも知れないと思うと頭が急に回転し始める。既に帰り間際だから、ここは思い切って本人の男装である事を告白した方が良いのではないか。一瞬にそう判断した私は、部屋を出ながら軽く後ろを向いて
「無理して来たのに、貴方って節穴ね。今夜お待ちしています」
と女声で小声で言い捨てだ。ここに至ってさすがの酉関珀も気付いたのか
「ちょっと」
と言いつつ手を伸ばして来る。既に私は部屋の外で、付き添い役の筆屋がそれを見て立ち上がっている。
 私は安全を確認しつつ、酉関珀にだけ聞こえる声で
「悪い噂が立たないようにお気をつけ遊ばせ」
と囁き、そのあと更に皆に聞こえる声で
「時間がございませんのでここで失礼します」
と続けた。酉関珀は呆然と立っている。それを尻目に私は女の魅力を強調する歩きで外に出た。

 彼から見えない所まで来た時、私は緊張から開放されると共に急に恥ずかしくなった。女になり切った方が自然である事を実感してしまったからだ。もちろん今回の演技は、女が男の振りをするというウルトラCではあったが、それでも部分部分は女である事を忘れて男の動作をしようとした。それが結果的にぎこちない動きをつくって男娼と勘違いされかかったのだ。単なる慣れの問題か、それとも男の所作を忘れてしまったのか。男に戻るという事が、なんだかとてつもなく難しいプロジェクトのように思えてきた。既に5ヶ月間もの間、女になる為の努力で疲れ切っている。ここで、また新しく一から男に戻る努力を何ヶ月も貫徹できる自信はちょっとない。
 船着き場に戻った所で奥方と合流した。それは単なる合流ではなく、ひと芝居打つ。船着き場に官憲・・・酉関の手下がいるからだ。船着き場は一種の入れ食い場所で、舟関係者の多くや官憲の一部が緑河と繋がっていると同時に、官憲の多くと舟関係者の一部が酉関家と繋がっている。いかに酉関の親父が闇商売を邪魔しているとはいえ、完全に排除出来る訳ではないし、逆も同じだ。そういう場所だから、私はいかにも保護者に見つけられてしまったという形で、男装の奥方に捕まる形にした。しかも、こっそり男装して抜け出た事を叱られるという形だ。これを見た船着き場の連中は、娘が男装して録西街の城内に行っていたと判断するだろう。その情報は明日にも酉関の親父に伝わるだろう。それは噂として伝わるだけでない、酉関の手下からの直接情報としても伝わる筈だ。
 事情は緑河の連中でも同じだ。私の事を娘と思っている彼らは、おびき出しの為の『男装』と理解する筈だ。そういう意味では計画の変更は正解だった。私を娘と思い込んでいる大多数の者に、弟もいたのだと説明する手間が省けるし、私が男に戻った時の機密も守りやすい。もっとも、ここ数日の発見・・・もはや、どんな恰好をしても男に見えない・・・の為、私自身、本当に男に戻れるのか、それどころか男に戻りたいと本気で思っているのが、かなり不安がある。
 奥方との合流では、芝居を完璧にする為に青河の(元)間諜に船着き場で出迎えて貰った。せっかく捕まえたのだから利用しない手は無い。間諜が緑河に捕まって強引に寝返らされた事は、まだ録西街には伝わっていない。せいぜい青河が消息を訝しがり始めたぐらいだ。だから、間諜と一緒にいる私と筆屋夫婦も青河関係者という事になり、そういう情報がこれまた酉関の親父に流れる事になる。もちろん元間諜の動きは緑河の連中も見張っているから、間諜は変な動きは出来ない。更に間諜には、変装した奥方と、彼を捕まえた筆屋夫婦の片割れが同一人物である事も知らせていないから機微がバレないように接触時間を最小限にしてある。あと、間諜には舟の斡旋もやらせている。つまり、この屋形舟は緑河の組の所属ではなく、この船着き場に所属する。入れ食い状態の場所の中立地帯とでも言えるだろうか。名目上の借り主は『白猿堂の者=私の保護者』で、緑河の名前は出て来ない。斡旋には例の裏切り者も噛ませているから、そういう情報は船着き場の犬を通じてこれまた酉関の親父に流れるだろう。
 男装の奥方に『捕まった』私は、元間諜の案内する屋形船に護送されるように乗り込んだ。一方の奥方は、緑河が手配した初老の付き人を一人連れて、すぐさま酉関珀の塾に向かった。今のうちに私は男装から普通の女装に戻らないといけない。舟底の狭い物置に入り、さらしを胸当てに代え、更に招待人に相応しい服を着て、化粧を手早く替えると、1時間近くが過ぎていた。物置から出て暫くすると、人が三々五々に入って来るのが見える。行商風、農民風の若い衆だ。彼らは変装しており、その中身は緑河の小頭クラスの連中だそうだ。それから少しして、芸妓連中が入って来た。本格的な宴会だ。あとは主賓の酉関珀だけ。

 果たして来るかどうか。素直に出てくればよし、そうでなければ、夜になってから私がもう一度行って、最後の手段として、酉関珀の手をとって強引に塾の外に引っ張り出さなければならない。そのあと緑河の連中が、私と酉関珀の『密会』を襲って酉関珀を拘束する事になるが、問題は城門が夜に閉まっている事で、朝まで潜伏する事になる。かくも大変なミッションになるので、それは御免だと思っていると、幸いかな、酉関珀が自ら船着き場までやって来た。どうやら私の最後の演技が効いたらしい。しかも供すらいない。帰りをきちんと送ると奥方が言いくるめたのだろう。
 酉関珀が屋形舟に乗り込むと、上流に向けて出航するとともに宴会が始まった。私と男装の奥方は招待人として主賓の酉関珀をもてなす。そればかりではない、緑河の者で多少読み書きの出来る男が、私の『偽』婚約者として酉関珀をもてなした。この男の近くに付き人役の男が2人いて、彼らもまた酉関珀に酒を進める。始めの30分こそ、酉関珀へのお礼やお世辞が続いて秩序だっていたものの、後は普通の宴会となり、3時間もすると半数が酔い始めた。その大半は、変装して乗って来た小頭クラスの連中だ。彼らの場合は、今日のミッションよりも、宴会そのものが目的なのだ。そういう宴会に私達のミッションが乗ったと考えても良いぐらいで、それもあって芸妓を呼ぶ程の豪華な宴会になっている。だから、小頭クラスがさっさと出来上がってもおかしくはないが、そこはさすがにミッションの性格をわきまえている連中だから、泥酔ではない。それでも、酉関珀には酔ったように見えるだろう。
 その酉関珀も少し酔って来たと見えて、衆目の前だと云うのに私を物欲しそうに見て、挙げ句に学問の話題とかで絡み始めた。ここが頃合いと、酉関珀の酒杯に痺れ薬を混ぜると、見事にひっくり返った。それからも暫く宴会そのものは続いたが、それでも1時間程で静かになった。場の男達の殆ど酔いつぶれた振りをしたからだ。舟は既に遡行を終わって旋回し始めている。準備が出来たのを確認して、酉関珀に解毒剤を飲ませた。ここからが最後の演技だ。騙すべき相手は、酉関珀だけではない。芸妓と舟の漕ぎ手もまた騙す必要がある。

 皆が酔っている様子を認識した酉関珀を、酔いさましに風の当たる所まで連れて行き
「ねえ、助けて下さらない?」
と囁く。
 まだ頭がふらふらしている酉関珀が
「え、何を?」
と素っ頓狂に答えたところで、私は縁談が気に入らない事とか、相手が胡散臭い事とかを言った。そして、意を決して男装した会いに行ったのに気付かなかった事とか
『虎穴に入らずんば虎児を得ず』
を全然実行してくれない事をなじる。更に、言葉の端々に助けて欲しいと、媚びの目つきで懇願した。こうして嘆きとなじりを繰り返すうちに、ついに酔いの勢いで酉関珀が
「よし、僕も男だ、君の脱出を手伝うよ」
と言って来た。
 その時はやく、酒杯が飛んで来た。見ると、許嫁役の男が、こっちに向かって走って来ている。男は大声で
「婚約の席で横取りとはいい度胸だ」
と叫びながら、酔っている酉関珀を組み伏せ、しかも小刀まで取り出した。その間、私は
「ごめんなさい、ごめんなさい、アタシが悪かったのです」
と言いつつ、酉関珀の上に覆いかぶさって、酉関珀を守る振りをする。男は私を荒々しく振りほどき、そのタイミングに、私は両手で男の小刀を持った手を掴んだ。一瞬の自由に酉関珀は逃げようとする。だが、そういう全ての動きが、別の男達の、いかにも目を覚ましたばかりのような
「おいおい、何が起こっているんだ」
という声で止まった。酉関珀が金縛りで動けない事を確認して、許嫁役の男が青河の名前を出した。
「こんな野郎に間男されるなんて、青河も馬鹿にされたもんだな」
座が一瞬で静まった。もっとも芸妓連中には商人風・農民風に化けた小頭連中が、今日の宴会のホストを青河の頭目のお忍びらしいと推定で伝えているから、芸妓は青河という言葉にそこまで驚いてはいない。彼女らはプロの芸妓なのだ。

 あとに待っている事は決まっている。婚約者を横から奪おうとしたのだから、間男と浮気女と両方のお仕置きと、浮気女の保護者への注文だ。許嫁役の男とその付き添いが酉関珀と私を縛る間、男装の奥方が私を平手で打った。音だけ派手な痛みの少ない打ち方だが、それでも過酷な演技には違いない。私も痛いが、奥方の手と心はもっと痛いだろうと思うと我慢が出来る。それから奥方はしきりに監督不足を謝り、それに対して許嫁役の男は
「それ相応の侘びを入れれば許さん事もねえ」
とか
「2度目はねえぞ」
とか言って、金次第だという雰囲気を出す。おそらく観客の芸妓も納得する会話だろう。
 酉関珀と私を縛り終わると、許嫁役の男は私を仕切りの向うに連れて行った。酉関珀はおろか芸妓たちにも見えない場所だ。そこで今度は拷問の演技をする。もちろん声だけだが、緑河に来てから練習を十分にしているので問題ない。一方、仕切りの反対側に残る酉関珀の方には、男装の奥方が、くどくどと
「あんた、大変な事をしてくれたね。青河の親分に合わす顔が無いじゃないか」
と説教している。縛られて猿ぐつわを噛まされた酉関珀は反論出来ない。そうこうするに、私の仕置きは終わり、今度は許嫁役の男が酉関珀の仕置きを始めた。もちろん肌脱ぎの上の笞打ちだ。それがひとしきり終わった所で、今後、そういう気にならないような処置が必要だという話が始まった。
 付き人の一人が
「人の女に手を出さないよう、あそこを取ってやったらどうです」
と言い出す。その意見に、客に扮していた男達も交ざり、冗談を絡めながら話を咲かせて行く。仕置きが終わったのだから客が場に加わってもおかしくないのだ。こうして暫く宮刑がらみの話で盛り上がっていたが、やがて
「いや、そこまで手間かける必要はねえ」
と諌める者が出てきた。これも予定行動だ。というのも、下手に仕置きが過ぎて宦官なんかになられたら、どんな権力を持ってしまうか分からないからだ。宦官は我が国の癌、最悪、軍隊まで繰り出して裏商売を叩こうという話になりかねない。だから去勢だけは有り得ない。
 宮刑の代わりになる案と言えば男娼だ。商人に化けた男も
「このツラと体だったら、そのまま女で通じるぜ」
と提案した。
 皆がなるほどと賛同した所で、許嫁役の男が
「とにかく、こいつはここで引き取るぞ」
と言うと、付き人がいきなり川に飛び込んだ。みるみる岸に向かい、屋形船のともづなを近くの木の幹にくくり付け、茂みに隠してあった舟を引っ張り出して、屋形船に漕いで来た。その場所は、間諜が時折使う酉関側の秘密の渡し場の近くだ。夜だから正確な位置が分かる筈も無く、後日証人となるべき漕ぎ手や芸妓も、正確な場所は言えないだろう。だから、ここで許嫁役の男が酉関珀と私を上陸させれば、芸妓などの証言者は、ますます青河の仕業と確信するだろう。酉関側の秘密の渡し場の方は、監視付きで裏切り者を遣って、渡しの見張りに酒屋に行かせている。
 こうして私と筆屋夫婦と酉関珀は、緑河の3人と一緒に上陸し、そのあと屋形船はそのまま船着き場に戻った。もちろん私達が屋形船を去る前に、許嫁役の男が手振りで首切りを示して
「今夜の事を誰かに喋ったら、あとはこれだ」
と口止め令を出しているから、船着き場に付いた後も、サクラが無事に姿をくらますまでの短い時間ぐらいは官憲に知られる筈がない。一方の私達は、再び舟に乗ってその場を離れた。酉関珀は上陸直後に意識を失わせているから、たとい途中で目が覚めても酔いのせいと思って、再び川を下っているとは気付かないだろう。そうこうするうちに、私たちの乗る舟は船着き場の遥か奥をこっそり下って、やがて緑河の秘密の場所の一つについた。小屋に酉関珀を運び込み、私達も別の部屋に行ってその日は休む。長い長い一日が終わった。


第32回:復讐の花嫁(主人視点)

 翌朝、俺達は上流下流の頭目と合流し、成功をねぎらわれると共に、最新情報を聞いた。昨日の作戦に対する街の反応は
『青河と婚約した美少女に横恋慕した酉関珀が、美少女を追って青河の連中の宴会に出掛けたものの、一晩戻らない』
という騒ぎになっているそうだ。完璧といえよう。残るは洪二郎の方の工作だ。
 下流の担当者からの話によると、洪二郎は今度の話に乗って来たものの、条件が良さを訝しがって、青河の間諜からの報告を要求しているらしい。青河の間諜の名前を出して花嫁候補を紹介した以上、洪二郎でなくてもそうするだろう。というのも仲人婆が話を誇張し、不利な部分を話さないのは常識だからだ。おそらく、今度の仲人婆も、赤貧という部分を省略して伝えているだろう。ともかくも、青河の間諜を介さなければならなくなった訳で、彼が洪二郎に接触する前に、こっちの工作員から間諜に話を付けたほうが良い。幸い、間諜の動きを監視していたお陰で、青河から戻ったばかりのところを居酒屋で接触できたそうだ。
 そこで緑河の工作員は、勝手に間諜の名前を使って縁談を進めた事を白状して、お詫びに仲人の権利を間諜に渡して、花嫁を間諜が連れて行くように提案したそうだ。敵への梯子の渡し方に、俺はもとより、作戦の基本ラインを提案した笙娘も感心してしまった。これだと、名前を使った事を多少は詰られるだろうが、縁談に洪二郎が興味を示したという事実が重いから、相手が不機嫌になるはず。実際、結果よければ全てよしという事で、間諜はこっちの工作員に感謝しつつ、花嫁候補の詳しい話を聞いたという。そこで例の結納書を見せた所、間諜は大いに喜び、結局、一緒に洪二郎に会いに行く事になったらしい。というのも、こっちの結納書は事実上の身売り証で、婚約するまで相手に渡す訳には行かないからだ。それが2日前の話で、今頃は洪二郎に直接会って話をし、同時に結納書を見せているだろう。

 それにしても、今まで軽々と女を食い物にして来た洪二郎にしては珍しく慎重な嫁探しだ。確かに誰も洪家に娘を差し出そうとしないけれど、洪家ぐらいの金持ちとなれば妾はわけなく手に入る。てっとり早い話、借金のカタに相手の娘を妾として家に入れ、その中から気に入った女を正妻にする手はあるのだ。だが、洪二郎は、一人息子の正妻だけは、正式にしかも家柄の良い所から選ぼうと必死になっている。少々滑稽なくらいだ。理由は、息子に対して妾を認めから。
 半年前に女装して包家村の潜入した時も感じたが、洪二郎が息子に対して妾を認めないのは、異母の息子が2人以上出来るのを警戒しているからに違いない。洪二郎の貪欲な性格が孫にまで伝わるだろう事を考えると、2人以上の子供は内紛の原因になりかねず、その場合、敵の多い新興地主は足下をすくわれる恐れがある。それを洪二郎は恐れているのだろう。もちろん推測はあくまで推測だから真相は分からない。
 理由はともかく、洪二郎が妾話を全部断って息子の正妻捜しをしているのは事実で、しかもそれが難航しているのもまた事実だ。現に半年前に包家村を訪れた際は、単なる旅人だと云うのに、洪二郎の家に強制的に連れられて、良縁を捜すように頼まれた。もっとも、洪二郎の出す条件は、とても縁談を避けられている家のものとは思えない。立派な家柄の美人で気だての良い娘を求めているのだ。美人で気だての良い娘というのは誰もが口にする常套句だから気にかける必要も無いが、家柄というのがくせ者で、話の雰囲気では、科挙に通りそうな子供を持つ旧家らしかった。
 急速にのし上がった洪二郎だからこそ、金と権力の次が名誉とばかりに、こういう家柄を捜しているのだろう。だが、それほどまでの好条件なら、美人だったら格上の家柄から縁談があり、こういう田舎のボスのところぐらいしか行き先の無い娘は、不細工か手に負えないあばずれに決まっている。そう言う事情もあったのだろうか、実は洪二郎は過去に花嫁を虐待している。息子の正妻として娶ると相手の家に言いつつ、実際に嫁入りするや、息子の代わりに洪二郎が処女を奪い、そのまま手つき女中同様の扱いをしたのだ。相手を見て、息子に相応しくないと勝手に判断したのだろう。金で役人に手を回しているから、裁判にすらならなかったが、それでもこの一件の真相が噂として広まるや、マトモな家柄の者は誰も洪家を縁談の相手にしなくなった。こんな経歴があるにも関わらず、洪二郎は、己の金と権力が良家の娘を手に入れるのに十分だと考えているらしい。洪二郎ほど抜け目ない男でも現実を見ない事はあるのだ。しかも自信過剰だから、この先もこの件だけは妥協しないだろう。親の欲目ほど目を眩ますものはない。

 今回の作戦はそこを突くものだ。洪二郎の条件を完璧に満たす家柄の、容姿の美しい花嫁・・・ただし娘でなく美男・・・を送り込み、すぐさま
『洪家は男の花嫁しか募集しない』
という噂を広めて笑い者にすると共に、事件を青河の仕業と思わせて、洪家と青河を切り離す。そもそも洪家が勢力を得ているのは、金の力で役人を抱き込んでいるからで、青河はあまり関係無い。青河と手を組んだのは、緑河のシマを本格的に荒らしたいからであって、それは比較的最近の事だ。もしも昔から判然と対立して青河と組んでいたとしたら、縄張り侵害に煩い闇商売の緑河が今まで気付かない筈が無い。
 要するに、洪二郎と青河は浅い関係で、利害の一致といってもさほど重要なものでない。嫁入りの悪戯に腹を立てた洪二郎は、あっさり青河と縁を切るだろう。そこに緑河が洪家を呑み込むチャンスがある。そういう作戦だから、嫁入り前はおろか、嫁入り後も青河の仕業と思わせなければならない。だからこそ、酉関珀のおびきだしに細心の注意を払ったのだ。その点、笙娘の作戦は見事で、それをやり遂げた笙娘の度胸や娘ぶりもまた見事だった。普通の者にここまでは出来ない。お陰で酉関珀は全てを青河の復讐と思い込んでいる。それはそのまま、行き先の洪家で語られるだろう。
 作戦はこれだけではない。緑河の下流組は、嫁入りを契機に積極的に洪家潰しを始める予定だ。以前は洪家が協力的で無くとも、田舎の地主程度の気まぐれ程度に思って悠長に構えていたらしい。緑河としてはともかく闇商品が売れれば良いのであって、敵対行動の為に時間と血を流すなんて愚の骨頂なのだ。現に上流組は、あれほど敵対した酉関の親父と手打ちする方針でいる。だが一旦敵と認定すると徹底的だ。洪家を力を持っている理由の殆どは、洪家が金を役人にばらまいているからだ。となれば、その逆を緑河がすれば良い。たとい役人を緑河の味方にする事は難しくとも、敵にひどい仕打ちをさせる事は金の力で可能なのだ。緑河はこれを洪家に対してする積もりらしい。このあたり、今回の下流組は気合いが入っている。もっとも、これには笙娘や俺達への恩返しという面もあるだろう。笙娘や俺達の恨みは洪家に対してであって酉関家ではない。それがそのまま緑河の連中の方針に反映されている気がする。

 下流の情勢を聞いた後、酉関珀の話に戻った。奴は小屋に閉じ込められた状態で、今朝から女装させられている。女物の服を着た状態で、それを水たまりで見させられたり、男達にからかわれたりしているそうだ。このあと、女の売り買いに見せかけた移動作戦を始める予定だ。秘密の場所を出て小川を少し遡り、それから林の中の間道を歩かせて、そこで別の数人に引き継ぐ。もちろん行程の前半は目隠しで、秘密の場所を覚えられないようにするのは言うまでもない。機密以外に重要なのは、引き連れる男達がそれなりの身なりをする事だ。なんせ、妾を売る演技なのだ。婚礼とまではいかなくても、それに近い雰囲気を出す方が酉関珀を騙すのに良い。その上で代筆させた結納書を読み上げ、同時に代金を払う様子を見せつけるれば、酉関珀は自分が妾か花嫁として売られたと判断するだろう。
 引き渡しの後は、受け取った側は酉関珀を花嫁として丁寧に扱う。ここまで演技すれば、両者が別れてしばらく行った時に、酉関珀は自分が男である事をばらして、更に受け取り人が騙された事を指摘するに違いない。そこで
「そんなこたあ、知ってるぜ、このおしゃべりめ。まったく下衆な女だ」
という風に本性を現すのだ。その先はお仕置きだが、先ず、結納書に書いてある事・・・事実上の身売り・・・を言い聞かせて、目隠しの上で別の秘密の場所に連れて行く。そして、男である事を喋った罰として、笞打ちなどの他に、女装をエスカレートさせる。
 俺と家内と笙娘は、先回りしてその小屋で待った。というのも、女装に関しては、俺達、特に笙娘の知識が一番完璧だからだ。今日のメニューは、体型を女性らしく見せる為に革布(コルセット)類で体を締め上げる事だ。笙娘の時と違って骨への気遣いなんか要らないから、短い日数でも効果を上げるだろう。もっとも俺達は酉関珀に姿を見られる訳にはいかないから、女装のアドバイスだけで、実際の作業は緑河の連中がやる。こういう仕置きを受けた酉関珀は、本番の嫁入りでも、猜疑心から軽々しく男である事を言うのを控えるだろう。それが移動作戦の最大の狙いだ。

 俺達が作戦に参加するのは今日までだが、移動作戦は継続して、酉関珀の容姿や仕草を更に女に近づける予定だ。だから、明日以降も妾や花嫁として引き渡す演技をして、受け取った側が酉関珀を『大切な娘』として扱い、色々な手管で酉関珀を安心させて、男である事を告白するように仕向けるのだ。そのうえで、エスカレートさせた仕置きをする。これを繰り返せば、酉関珀はどんな形で引き渡されても、自分が男である事を自らばらす事は無くなる筈だ。取りあえず、2回目と3回目の仕置きは毛抜きを予定している。2回目は体毛で、3回目は髪や眉などの細かい所だ。笙娘のように子供や同輩の娘とのスキンシップは無いが、それでも相手の侍女とかが触って来るだろうし、間諜が吟味と称して手足を触る事だってありえないではない。毛抜きは緑河の連中が力ずくでやるから手荒くなるが、笙娘の場合と違って、嫁入りの日だけを誤摩化す事が出来れば良いし、本人が痛がってもそれは仕置きの一環となって、かえって都合が良い。
 仕置きは女装だけではない。もっと残酷なのが残っている。男色だ。この件には俺達も笙娘も関わっていないが、想像するだけで身震いする。闇商売の連中は男所帯だから、当然ながら男色が広く行われている。そこに、女のように色が白く、女のように細く、女のように美しい顔をしている酉関珀が投げ込まれるのだ。男達が男色の相手に狙う事は火を見るより明らかだ。もちろん、本物の女であれば傷物にするのは厳禁だが、酉関珀は女に仕立てるべき男なのだから止める理由はない。頭目の話によると、男色もお仕置きに組み込まれるのだそうだ。もしかすると、酉関珀が最後に無事家に帰りついた後も、彼の心は既に男娼のそれになってしまって戻らないかも知れない。だが、そこに同情は無い。こんな下衆野郎は、一度女になって人生をやり直した方が良いのだ。笙娘も同じ事を言っている。
 移動作戦では異なる隠れ家を点々と回るが、その行程の殆どは林と小川の組み合わせで、かなりの部分で目隠しするから、酉関珀に方向は分からない。それを利用して、奴には緑河流域でなく青河流域と思わせる予定だ。もちろん太陽から東西南北ぐらいは分かるし、遠くに里山は沢山あるから地形からの判断も有り得ないでもない。だが、そんな地形で場所が分かるような書生は中華じゅうを捜してもいないだろう。しかも会話による誘導があるのだ。酉関珀が青河流域と思うのは確実だ。

 酉関珀の一日目の仕置きを確認したあと、俺たちは再び緑河に戻り、送別を兼ねた祝宴を受けた。昨日の偽宴会と違って、今夜はリラックスして酒を楽しめる。リラックスとはいっても機密保持が優先だから家内と笙娘は変装のままだ。家内はちょっと窮屈そうだが仕方ない。笙娘は・・・余りに自然で、つい変装である事を忘れてしまう。考えてみれば、この5ヶ月、笙娘の男の姿を見た事が無い。昨日、ほんの短時間だけ見た男装にしても、どう見ても娘の男装であって、男の姿ではなかった。
 笙娘は果たして男に戻れるのだろうか? ここ1〜2ヶ月程、次第に増して来た疑念を再び思い出す。だが、それも一瞬で、何故か以前のような不安は消えている。やるべき事をやった達成感と、洪家への復讐が確実に進んでいる事への安堵感があるからだろう。ここまでくれば、笙娘でなくても、包家の分家の誰かが包家を再興する。それに笙娘は、たとい男に戻れなくても、男顔負けの度胸と智慧のある娘だ。恥ずかしい事も後ろめたい事もない。こんな感想を抱くうちに、5ヶ月前、青河の虎口を脱した夜に会った冒険野郎の言葉を思い出した。
「異国の言葉を覚えて来ると、中華の言葉はおろか自らの生まれも忘れて、心から異国人になってしまう者も多くあります。それでも困難な旅と生活を経ただけあって、彼らの半数はひとかどの人物で、その素晴らしさはかわりません」
笙娘だって、娘の世界という異国にいるひとかどの人物なのだ。
 祝宴のあと、俺達はすぐさま州都に向かった。笙娘の試験が10日後なのだ。緑河の連中が舟で昼夜兼行で送ってくれるから、3日もかからないが、それでもギリギリの日程といえる。ちなみに州都に向かう途中で家内だけ女に戻る。俺達の住む街の者に州都で出会わないとも限らないからだ。しかも俺達は笙娘の縁談がらみで来ている建前だから、笙娘は女装のままとなる。笙娘が男に戻るのは州都に着いたあとだ。


第33回:嫁入りの顛末(笙娘視点)

 今までの人生で最も濃密だった10日間から、はや1ヶ月が過ぎた。

 あとから聞いた話によると、予定よりも数日遅れて洪二郎の家に『嫁入』った酉関珀は、宴が終わり関係者が帰った後も、自らの素性を言う事はなく、何と床入りの際も
「こんな私ですが可愛がって下さい」
と洪の息子に言ったそうだ。その事から、酉関珀への仕置きが、想像よりも遥かに凄まじいものであった事が伺える。闇組織の怖さを実感すると共に、緑河の連中がどれほど酉関の親父に腹を立てていたかが知れた。私の驚きはそれだけではない。なんと洪の息子は酉関珀の味を2晩続けて楽しんだらしい。元々両刀使いではあり、しかも酉関珀の容姿や声は宝石の原石そのものだったから、多少の事は起こるだろうと思っていたし、そうなる事を期待もしていたが、ここまで行くとは思いもよらなかった。もしかすると、私のような自らの意志での『恥ずかしい』女装と、酉関珀のような強制的に『辱められた』女装とでは、効果が違うのかも知れない。そうとでも考えないと、僅か10日の女装でここまで行き着くとは考えられない。
 酉関珀が男であると分かったのは、婚姻の翌々日に、酉関珀が恐る恐る女中に話をして、それが元で騒ぎになった時らしい。さすがに10日程度の体験で心までは女になるまいが、それでも、酉関珀に決定的な心の傷を残したのは間違いないだろう。その原因が私・・・酉関珀は今でも私を娘だと信じているらしい・・・である事を考えると、奴は二度と女に近寄る事が出来ないかも知れない。一方、その正反対の意味で、洪の息子もまた女を抱く事が出来なくなったと期待したい。もしそうであれば、これ以上の復讐は有り得ない。女を抱けないと云う事は、そのまま子孫が断絶する事を意味するからだ。そういう期待が僅かでもあったからこそ、私は酉関珀を嫁入らせる作戦に、多くの危険を犯して参加した。

 今回の作戦は、提案した段階ではシンプルだった。まず、私が青河の頭の想い者であるという幻の前提を作り上げる。その上で、酉関珀が私に横恋慕する形を作り上げ、最終的に、青河が怒っていると酉関珀に思わせる。同時に、酉関の親父には、私がらみで且つ青河がらみで息子が捕まったと信じさせる。これが作戦の前半だ。後半は、青河の下流組の間諜を騙して、酉関珀を花嫁としてその間諜に引き渡し、その花嫁の容姿に満足した間諜が自信を持って洪の息子に花嫁を引き渡すようにするものだ。しかし、実行してみると、これほど簡単な計画でも、実行するには非常に多くの難問があった。この経験は、そのまま今受けている試験で役立っている。というのも、四書五経の簡単な文章に含まれている複雑な現実が見えて来たからだ。お陰で、私は童試の1次試験を前回合格した時よりも楽に済ませ、2次試験も易しく感じた。残るは一つ。これに合格すれば晴れて生員となって、筆屋夫婦を始めとした皆々の好意に応える事が出来る。もっとも、始めの2つの試験の成績は期待ほどでなく、噂にあるように時の運である事を実感した。それはそれで私の悩みになっている。とたい生員に合格しても、その成績で奨学金とかが決まるからだ。下位で合格すると、勉強の前に生活を立てるところから考えないといけない。
 その試験だが、受けるまでが大変だった。というのも、葉芯洋という名前で1次試験を合格した男を、洪家の手先が捜していたからだ。連中が私を2次試験で待ち構えているという情報は、幸い、緑河の連中が突き止めてくれた。緑河の連中は、洪家の手先を拘束しても良いとまで言ってくれたが、筆屋に言わせると
「別の名前で1次試験から受け直すのなら、放っといた方が相手も安心して良いのではないですか。なんたって、今の君は男装しても半年前の面影なんか無いからね」
との事で、変装で乗切るのが無難だと判断したのだ。昔の私どころか、男にすら戻れないと婉曲に言われているようで、少し寂しい気がしたが、冷静に考えて筆屋の忠告に従う事にした。
 試験を受けるに当たっての問題は他にもあった。それに、男でなければ試験が受けられないことだ。試験までの10日足らずの間に出来る男装と言えば、辛うじて女っぽい男に見られる程度にまで。それは私がもっとも毛嫌いする恋童(男娼)風の雰囲気の男装だった。それで一次試験は受けたのだ。試験会場に入るまでに何度も女でないか尋ねられ、試験場内ではなんと男の証拠を見せさせられた。しかも1次2次の両方の試験でだ。それは女装よりも遥かに恥ずかしい経験で、女装で尻を触られる方が百倍もマシだ。幸い、2次試験と最終試験の会場担当は同じ人間らしいから、男を示させられる事はないだろうが、さもなくば、平静な気分で試験に臨めるとは思えない。
 恋童風にしかみえない男装は日常でも苦痛だった。女装は恥ずかしいだけで済むが、恋童は男色を前提にしているからだ。男の恰好をしてもこんな風にしかならないのなら、完全な女装の方が遥かにマシだと思う。それは男達からの視線でも同じだ。恋童風の男装の時に男から受ける視線は気持悪いだけだが、女装の時に男から受ける視線は、今から思うと誇りが持てる。

 ともかくも、これから最終試験だ。文運は吉と出るか凶と出るか。

〔完〕

初出: web site 「秘密の小屋」(管理人:速沢知彦)
2009年10月25日〜2010年7月25日


あとがき

 2〜3万文字程度の中編のつもりで書いたら、いつの間にやら20万文字の長編になってしまいました。元々は18世紀前半の短編集『秋燈叢話』の中の『男の花嫁』という話が余りにもミステリーで、その背景を膨らましてみたくなったという程度だったのですが、いつのまにか話が大きくなり、主役すら筆屋から笙娘に移ってしまいました。主役が笙娘なるのは、ここに書く以上、宿命みたいなものだったのかも知れません。動機はもう一つあって、それは女装モノに対する既成概念を打ち破ろうというものです。というのも昨今の非TS系女装モノ(女装がメインの作品)は、性描写とドタバタが殆どで、文学/時代小説/ミステリーのような本格作品になっているものは余りありません。それは、同じ倒錯系分野である同性愛もの(苦手なので実は読んでいませんが)と決定的に違う所です。逆にいえば、女装モノは色々な分野に進出できる可能性を秘めている事になります。それ故に、世間的に恥ずかしいと思いつつも本格女装小説に挑戦してみました。だからこそ、最後まで飽きずに書い上げる事が出来たのだと思います。そういう実験的な愚作を最後までお読み頂きありがというございます。
 なお、清代と違って明代はネット上の資料が少なく、また、清代の文化弾圧によって、明代までの衣装や風習がかなり途絶えてしまってので、時代考証は殆ど出来ていません。物語の背景を含めて想像の賜物とお思い下さい。苦肉の策として、私の持っている『金瓶梅』が書かれた少し前の明代後期に設定しました。というのも、金瓶梅に出て来る服や風習や金銭感覚が使えるからで、さらに、これより後の時代になると、大航海時代になって西洋人の影響を無視出来ない上に農民蜂起などの内乱時代に突入して、簡単な話では済まなくなるからです。地勢については川の向きを南北でなく東西にした方がよかったかな、と思った程度の知識しかありませんので、これは極めていい加減かと思います。将来、もしも書き直す事があったら、そのあたりをきちんとした地図に基づきたいものですが、実際に出来るかどうかは分かりません。

 最後に、速沢知彦氏には、創作掲示板を提供して頂きどうも有難うございました。この掲示板がなければこの作品が生まれる事はありませんでした。


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